第94話 決意

 言葉が出なかった。

 杏華さんから付き人のルールができた経緯を聞いて、思わず唖然とする。


 かなり慎重に言葉を選んで話してくれたのだろうけど、どれほど過酷な背景があったのかを痛感するには充分だった。


 どうしてこんなルールを作ったんだろうと、何となく疑問に思うことはあったけれど、ここまで深い事情があるとは考えもしなかった。


「このルールは、付き人に対して一線を引くための、言わば自己防衛だったんです。お嬢様が笑顔を見せなくなった一番の原因は、前任者との問題にありましたから」


 杏華さんが悲しそうな表情で目を細める。


 ルールで規制するというのは、夕莉の過去を考慮すれば当然の対策だと思う。

 そもそも、付き人をもう一度雇おうとしたこと自体に、相当な勇気が必要だったのではないだろうか。


 リスクが全くないとは言えない状態で、それでも私を雇うと決めた夕莉の覚悟は計り知れなかった。


 付き人とは親密な関係にならない。

 夕莉の中にその意志が確かにあったのなら、今までルールを守ってきた私の行動は決して間違いではなかったはずだ。


 でも、それが絶対に正しかったとは、今は断言できない。

 夕莉への本当の想いを隠そうとした私に、彼女は泣きそうな顔をしていたから。


「けれど、奏向さんが付き人になってから、お嬢様は変わりました。貴女といる時のお嬢様を見ていると、昔の面影を感じるんです。まだ人を信じられなくなる前の、あどけなかった頃の面影を……」


 そう言って私を見る杏華さんは、優しい笑みを浮かべていた。


「これまで忠実にルールを守ってきてくださっただけでなく、何より奏向さんのお人柄があったからこそ、お嬢様は貴女を信頼して心を開くようになったのだと思います。共に過ごしていく中で、主従という立場に関係なく、貴女になら踏み込まれてもいい。そう感じるようになるほど、絆されてしまったのでしょうね」


 夕莉が私に心を許してくれているのは、気付いていた。

 その片鱗を感じてからは、彼女が信頼しているのは"付き人である私"なのだと思っていた。

 でも多分、そうじゃない。


 "付き人"とは仲良くする気はないと心を閉ざしていた子が、安心すると言ってくれるほどまでに打ち解けるようになったのだ。


 もしかしたら夕莉は、"付き人である私"ではなくて、"私という個人"を見てくれていたのではないか。そんな気がする。


「あの子は不器用なので……上手く本音を曝け出すことができないんです。ただ、これだけは言えます。――違反したけれど解雇しなかった。見逃した、とも言えますね。その判断が、奏向さんの言動に対するお嬢様の答えではないでしょうか」


 見逃した、か。


 誰かを信頼するということが、どれほど重みのあるものなのか、思い知らされる。

 夕莉の私へ寄せる信頼の大きさがどれほどのものだったのか、今になって気付かされた。


 もっと真剣に、夕莉の気持ちと向き合えばよかった。


 これからも夕莉の隣にいたいからルールを守り続けるなんて、それは結局クビにならないようにするための、自分のことしか考えていない臆病で卑怯な行為だったんだ。


「……雇用関係であるお二人がここまで気を許し合う仲になってしまえば、もはやルールの効力は失ったも同然だと思いますけれどね」


 ぼそっと、苦笑しながら付け加えた。


「余談ですが……明日は日曜日なので、もしかするとお嬢様がお出掛けされるかもしれません」


 いきなり何のことだろうと思い、頭をフル回転させて言葉の意味を考える。

 その答えはすぐに出た。


 ここは、"夕莉が数年前から休日に度々訪れている場所"だと、杏華さんが言っていた。

 夕莉と向き合う機会があることを教えてくれたんだ。

 さりげない後押しに、少しだけ励まされる。


「……杏華さん。ありがとうございます」


 私一人だけでは、何も解決しなかった。

 いつまでも悩んでいるままで、もう一度夕莉と本音を確かめ合いたいと、踏み出すこともできなかったかもしれない。


 幾分か苦悩が晴れたような気持ちで感謝を伝えると、いつもの穏やかな笑顔を向けてくれた。




 夕飯の支度があるとのことで、杏華さんは先に帰っていった。

 私はしばらくベンチに座り、広場の景色を眺めながら心の中を整理する。


 日が段々と沈んできて、辺りが薄暗くなっていく。

 人通りもほとんどなくなっていた。


 ここは昔から空気や景色が変わらない。

 だからだろうか。

 ほっとするし、気分が落ち着く。


 中学生の頃はよく日向ぼっこしたり、園路でサイクリングしたり。

 夏休みは自由研究のために、野良猫を追いかけ回したりしたっけ。

 自転車が壊れてからは、訪れる頻度が低くなってしまったけれど。


 ぼーっとしていたら、ふと近くにある自動販売機に目が行った。

 飲料とアイスの自販機が、それぞれ一台ずつ並んでいる。


 今は通常価格だけど、八月になるとあそこの自販機だけアイスが全品100円になる。

 昔は、なけなしのお小遣いで私の好きなチョコミントを買うのが、年に一度の大きな贅沢と言っても過言ではなかった。


 コンビニにも100円のアイスはあるけれど、あの自販機のアイスが、私にとっては何よりも特別だった。


 そういえば、中学の夏休みにあのアイスを奢ったことがあった。

 どこの誰かもわからない女の子に。


 その子が猫に好かれてたから、自由研究の手伝いをしてもらおうと思って。

 適当に雑談していたら急に泣き出して、どうにか泣き止ませようと咄嗟にとった行動だった。


 あの子、大丈夫だったかな……。

 確か、過去に私が車で誘拐されそうになって助けた女の子と、同一人物だったはず。

 今そっちの心配をする余裕はないのに、なぜか無性に気になってしまった。


 誘拐――杏華さんが夕莉に付き人を雇うよう強く勧めるきっかけになった出来事…………あれ……何だろう。

 この、モヤモヤとした感覚は。


 不意に訪れた得体の知れない胸中の騒めきに、焦燥感を覚える。

 大事な何かをずっと忘れているような気がして。


 思い出したい。

 頭を押さえようとして、額の古傷に手が当たった。


 以前、この傷を夕莉に心配されたことがあった。

 どうして傷ができたのかと経緯を聞かれて、適当にはぐらかしていたら、


 ――本当に、覚えてない?


 寂しげな顔で、そう問われた。




 ああ――そうだ。


 思い出した。

 どうして気付かなかったんだろう。


 私があの時助けた女の子が、広場で泣いていた女の子が、夕莉だったんだ。


 夕莉はあの時から、苦しみを抱えていた。

 人を信じることが怖かったはずなのに。


 それでも彼女は、私を信じてくれた。

 私と出会ってから変わったと言ってくれた。

 毎日が楽しいと思えると、笑ってくれた。



 自嘲気味に微笑が漏れる。



 もう、いいよ。


 主人とか付き人とか。

 クビになるとかならないとか。

 もうどうだっていい。


 学費が払えなくなって退学になろうが、その時はその時だ。

 そもそも、一度は本気で退学を受け入れたことがあるのだから、覚悟がないわけではないし。


 夕莉の傍にいられる方法は……後で考える。

 今、夕莉に私の気持ちを伝えないままでいる方が、きっと何倍も後悔するから。


 腹を括れ。躊躇うな。

 うじうじ悩むなんて、私らしくない。


 明日、伝えるんだ。私の正直な想いを。



   ◇



 喫茶店のアルバイトを終えて、足早に広場へ向かう。

 時刻は午後四時を過ぎていた。


 どうしても、会いたかった。

 あのベンチに夕莉がいることを信じて。


 ただそれだけを考えながら、徐々に歩くスピードを速める。

 広場に着いた頃には、衝動が抑え切れず走り出していた。


 いつもの見慣れた場所まで来て、歩みを緩める。

 息を整えつつ辺りを見回すと、黒髪の少女が俯きがちにベンチに座っている姿が見えた。


 ――良かった。

 彼女を見ただけで、喜びのあまり自然と口角が上がる。


「――いた」


 私の声に気付いた夕莉が振り向く。

 まさかここで会うとは思わなかったと言わんばかりの驚いた表情で、私を凝視していた。

 無理もない。

 平日以外の日に、学校以外の場所で会うのは初めてだから。


 夕莉のびっくりしている顔を見るのは久しぶりで、とにかく嬉しい。

 今ならどんな表情を見せられても喜べる自信がある。あ、暗い顔以外で。


「ここ、私と夕莉が初めて会った場所だよね」


 おもむろに、夕莉の隣に腰掛ける。


 つい最近までは"いつも通り"の対応が難しかったのに、今はとても自然体でいられた。

 枷がなくなったからかな。

 自分の好きなように振る舞っていいのだと思うと、どんなことも真っ直ぐ言える。


 相変わらず、夕莉は目を見開いたままだ。

 私と夕莉しか知らない過去の思い出を話したら、もっと驚くだろうな。


「……あの時の猫、今頃どうしてるかな」


 中学二年生の夏休み。

 この広場で猫を追いかけていたら、ベンチに座っていた女の子の膝上に飛び乗った。


 私には引っ掻くばかりで全然触らせてくれなかったのに、その子にはなぜか懐いていて。

 結局、最後まで爪を立てられて懐くことはなかったけれど。


「奏向……」


 気付いてくれただろうか。

 私が言いたかったことを。

 察しのいい彼女なら悟ったはずだ。


 大きな瞳を揺らして、今にも泣きそうな眼差しを向けてくる。

 その目から、いろんな感情が垣間見えた。

 多分、私に言いたいこともあるのだろう。


 でも、まずは私から言わせてほしい。


「ルールなんてクソ食らえだと思って。だから、破りに来た」


 清々しい気持ちで、笑顔を向けた。


「まあ、ちょっとだけ付き合ってよ。私の処遇は後で決めるってことで。今だけは見逃してくれない?」


 夕莉は困ったように眉尻を下げて、顔を逸らしてしまう。

 特に物申すことも拒絶することもなく、黙って視線を落としていた。


 たとえ私と話したくないと思っていたとしても、こっちのやりたいようにやらせてもらうけれど。

 今は付き人としてではなく、一個人として来ているから。


「……最初に、謝らなくちゃいけないことがある」


 なるべく空気が重くならないように、いつもの緩い調子で話を切り出した。


「ごめん。私、嘘ついた」

「……嘘?」


 夕莉が小さな声で聞き返す。

 話を聞いてくれる気はあるようだ。


 こんな時でも姿勢はいいのに、雰囲気はどこか暗くて。

 強がっているのか落ち込んでいるのかよくわからないけれど、とりあえず大人しく耳を傾けている様子が何だか愛おしく思えた。


 視線だけを動かす夕莉に、ゆっくりと頷く。


「夕莉のこと、"大切な雇用主"って言ったのは嘘。……いや、"大切"なのは本当なんだけど」


 海辺の近くにある別荘にいた時、夕莉が私に訊いた。

 その質問に対する、答え。


「解雇されるわけにはいかないから、何が何でもルールを守らなきゃって思って……悟られないように、特別な感情を隠して気付かないふりしてた。……でも、やっぱ無理だわ」


 特別な感情を抱かない――それが、ルールだったから。


 雇用関係だからと頑なに意地を張って。

 自分の気持ちを必死に偽って。

 全てを打ち明けることから逃げていた。

 大切な人のために、何もかも投げ打つ覚悟が持てなかった。


「夕莉には、私の本当の気持ちを知ってほしい」


 でも、今は違う。


 伝えたい。

 その思いが、突き動かす。


「夕莉――」


 私を見てほしい。

 その一心で、彼女の名前を呼ぶ。


 そんな願いに応えるように、俯いていた夕莉が顔を上げて、私を真っ向から見つめた。


 美しい水晶のような、透き通った瞳。

 その双眸に見惚れながらこの言葉を言えることが、とても幸せなことだと思えた。


「好きだよ」

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