第93話 再会(2)

 木に登ったはいいものの、降りられなくなって後悔する。


 フリスビーを受け取った子どもは、嬉しそうに顔を綻ばせて父親と他の場所へ去っていった。

 この場にいるのは、夕莉と金髪の少女だけ。


 親子を見届けてあっさり引き下がろうとする少女を、夕莉は咄嗟に呼び止めた。

 怪訝そうな顔で見上げてくる。


 彼女の様子を見る限り、明らかに顔見知りの相手に対する反応ではないことはわかった。

 まるで初対面の人へ向ける、探るような視線。

 少女は自分のことを覚えていないのだと、夕莉は悟った。


 生きていたことに喜びを感じたのは確かだけれど、一瞬だけ心曇るような気持ちになった。


 沈黙する夕莉に、少女が助け舟を出す。

 そして、両腕を広げて飛び降りるように促した。

 「大丈夫だから」と優しく諭しながら、あの時と同じ笑顔を向けて。


 想像以上の高さに飛び降りるのを躊躇していたが、少女の顔を見ると不安が和らいだ。


 宣言通り受け止めてくれたものの、バランスを崩し倒れてしまう。

 また怪我を負わせてしまった。

 微動だにせず起き上がる気配のない少女を前に、罪悪感と焦燥感が募っていく。


 思考がうまく働かず、混乱したまま咄嗟にスマホで杏華に電話をかけた。


 専属の医師を呼び出して、容態を診てもらう。

 身内の危篤を心配するような心境とは裏腹に、医師は平然とした口調で異常はないと告げた。

 それどころか、稀に見る石頭だと仰天していた。


 意識が戻らないのは、睡眠不足と疲労によるものらしい。

 しばらく安静にするため、自宅の一室で寝かせておくことになった。


「……お嬢様」


 どうにも落ち着かない心持ちでリビングにいると、杏華が恐る恐るといった様子で声をかけてきた。


 何かを言い淀んでいるようで、僅かに目を逸らしてから、意を決したように強い眼差しで夕莉を見据えた。


「もう一度だけ、付き人の件を考え直していただけないでしょうか」

「いい加減にして。どうしてこんな時に――」

「彼女なんです」


 その後、杏華から聞かされたのは衝撃の事実だった。

 今部屋で眠っている少女が、二色奏向なのだと。


 彼女は学院の問題児で、杏華の気に入っている喫茶店の店員で――そして、夕莉が中学生の時に広場で出会った女の子。


 頭の整理が追いつかなかった。

 正直、信じられないという思いもある。

 夕莉の記憶の中では、彼女が問題児と呼ばれるような要素は何一つなかったから。


 顔ばかりに目が行ってすぐには気付かなかったが、聖煌学院の制服を着ていた。

 杏華の発言に間違いはないのだろう。

 彼女が二色奏向であるという事実は、何とか理解した。


 それから、奏向の抱えている事情も聞かされた。


 家庭の経済的な問題で、アルバイトを余儀なくされていること。

 学院には首席で入学したけれど、アルバイトを優先していたため学業が著しく疎かになり、特待生資格の取り消しが決まったこと。

 学費が払えなくなり退学を考えているが、それは本意ではないこと。


 夕莉の護衛を任せられるほどの信頼と素質があるのはもちろんのこと、退学はしなくていいのだと、彼女に希望を持たせたいという杏華の強い要望もあった。


 知らされた事実を一つ一つ飲み込みながら、夕莉は思考する。


 少女――奏向は、夕莉のことを覚えていなかった。

 それでも、木から降りられなくなった夕莉を助けてくれたということは。

 知っている人だから助けたのではなくて、ただ困っている人がいたから手を差し伸べた。


 多分彼女はあの時と同じように、人を選ぶことなく相手が誰であろうと、等しく救うのだと思う。


 もしそれが本当ならば、付き人として側に置く価値はあるのかもしれない。


 何より、誰に対しても平等に接する彼女なら。


 ――私を特別扱いしない。


 羨望や憧憬の眼差しで見たり、特別な感情を向けてくることはないはずだ。


 あの時も今も変わらなかった。

 飾らない態度も、純真無垢な笑顔も。

 大変な事情を抱えているはずなのに、赤の他人へ優しさを与えられる心の広さも。


 いつか彼女と再会できたら、あの時のお礼をしたかった。

 だから、誰かのために迷わず身を投げ打って自分を犠牲にしてしまう彼女を、今度は私が助けたいと、そう思った。


「……あの子を、私の付き人にしようと思う」


 決して言うまいとしていた言葉が、不思議と容易く口に出た。


 生半可な覚悟で承諾したわけではない。

 以前は軽い気持ちで付き人を雇って、悲惨な思いをした。

 もう二度と同じ轍は踏まない。

 だから今度は、抜かりなく布石を打つ。


「その代わり、条件があるわ」


 抑揚のない冷静な声音で、夕莉は淡々と条件を挙げていく。


「命令には必ず服従する。不快にさせる言動をしない。非常時を除いて業務時間外は接触禁止。許可なく私室に入らない。体に触れない。特別な感情を抱かない。――この六つのルールを、彼女に守ってもらう。一つでも破れば、すぐに解雇するから」

「……奏向さんならきっと、守ってくださると思います」

「どうかしら。……ただ、守れなければクビになる。退学を免れるために本気で学費を稼ぎたいと思っているのなら、ルールを破るような真似はしないでしょうけど」



 こうして、奏向を夕莉の付き人として雇うことが決まった。


 時給1万円という賃金に、奏向は酷く動揺していた。

 学費を稼ぐには事足りる額のはずだが、彼女はあろうことか、同情のために雇うのならお金はいらないと言い出した。


 なぜ、自分が得をする道を選ばないのだろうか。

 貪欲にならない性格にある意味関心を覚えながら、奏向を雇うと決めた理由を打ち明ける。


 ――あなたは私にとって、無害だと思ったから。


 言葉通りの意味だった。

 彼女なら、害を与えるようなことはしないだろうと。

 彼女の隣なら、安全でいられるかもしれないと。

 そう見込んでの発言だった。


 意味がわからないとでも言いたげに、奏向は顔をしかめていた。

 わからなくていい。

 こちらの事情を明かすつもりはない。

 何より、奏向は過去のことを覚えていないのだから。



 二年生に進級し、新たな生活が始まった。

 いつも一人だった登下校の時間に、陽気な話し相手ができた。

 向こうが一方的に話しかけてくるのがほとんどだけれど。


 主人と付き人という特殊な関係になっても、奏向の態度は相変わらずだった。


 付き人のくせに何食わぬ顔で主人を呼び出すし、子供舌なことをからかってくるし、餌付けのごとく高頻度で不思議なお菓子を分け与えてくる。


 二人でいる時間に慣れて、少しずつ会話が増えていく。


 それでも、完全に打ち解けるつもりはなかった。

 ただ、あの日の恩を返すことができればいい。


 他の人とは違う何かを感じてはいたけれど、だからといって彼女と親密になりたいとまでは思わなかった。

 誰が相手だろうと気は許さない。

 それは、奏向も例外ではないから。


 信じれば裏切られる。

 心を開けばつけ込まれる。

 勝手に気があると勘違いされて、私情を押し付けられる。


 誰かを信用して苦しい思いをするのは、もう嫌だった。


 奏向に誘惑紛いのことをしていたのは、簡単に誑かされるような人ではないと確かめる、つまり彼女が本当にルールを破らないかを試すためだった。


 これからも、一線を引いて接すると決めていたはずだったのに。


 奏向に触れるたび、胸の鼓動が速くなって体が熱くなる。

 もっと近付きたい、触れたいと思うようになって。

 彼女のことを考える瞬間が増えた。


 学校の中ですれ違ったり偶然見かけたりする時も、無意識に彼女を目で追ってしまう。

 ある日、友達と楽しそうに話す奏向の姿を見て。


 ――あの笑顔が、私だけに向けられるものだったらいいのに。


 そんなことを願ってしまった。


 誰に対しても分け隔てなく接するから、彼女なら自分を特別扱いしないと思ったから、付き人にしたのに。


 私以外の人にも"可愛い"と言ったり、優しくしている姿を想像するだけで、胸が痛くなる。


 どんな時も飄々としている奏向が、誘惑に負けて理性を失う姿を見てみたい。

 誰にでも見せるような顔ではなくて、私にしか見せない表情を引き出したい。


 私のことで頭をいっぱいにして、思い悩んで、揺さぶられて、心を乱してほしい。


 いつしか、そんな身勝手な欲望を抱くようになってしまった。


 その気持ちこそが奏向に恋をしている証だと気付くのは、もう少し先のことだった。



   ◇



 いろんな記憶が走馬灯のように過ぎていく。

 思い出したくないこともあった。

 心が不安定になっているから、辛いことも呼び起こしてしまったのかもしれない。


 一人でどれだけ悩んだところで、現状を解決できる手立ては見つからない。


 わからなかった。

 昔から誰かに好意を向けられるばかりだったせいで、自分から正直に想いを伝える方法も。

 相手が自分に気がないと知った時、どうやって気持ちに折り合いをつければいいのかも。


 奏向を雇い続けると決めている以上、いつまでもぎこちない関係のままでいるわけにはいかない。


 けれど、もう一度奏向の気持ちを確かめるのが怖い。

 以前のように、割り切った関係として彼女と関われる自信がなかった。


 少しでも気を紛らわすため、辺りを散歩しようと思いベンチから立ち上がろとした瞬間。


「――いた」


 聞き慣れた声がした。

 咄嗟に振り向くと、私服姿の奏向が立っていた。


 こんなこと、あるはずない。

 今日は平日でもなければ、非常時でもない。

 接触禁止の日にわざわざ声をかけてくるなんて、明らかなルール違反だ。


 けれど、奏向からの体の接触を許している以上、これも許容すべきなのではないか。

 それにしても、今まで堅実にルールを守ってきた奏向がなぜ――。


 まさか休日にこんな所で会うとは思わず、夕莉は心の中で狼狽していた。


 凝視する視線などお構いなしに、奏向は夕莉の隣に腰を下ろして、世間話でもするような軽い調子で切り出した。


「ここ、私と夕莉が初めて会った場所だよね」


 確かに、その通りだ。

 しかし奏向の中にある記憶は、きっとあの時のものではない。


 夕莉にとってこの広場は、中学二年生の夏休みに初めて奏向と出会った場所。

 けれど、その時を覚えていない奏向にとっては、高校二年生に進級する前の春休みに、ここで初めて夕莉と出会ったことになっている――


「……あの時の猫、今頃どうしてるかな」


 何気なく呟かれた奏向の言葉に、夕莉は目を見開く。


 一瞬だけ、あの頃に戻ったような懐かしい感覚がした。

 猫の絵を真剣に描いている奏向の横顔が、鮮明に思い浮かぶ。


「奏向……」


 震える声で、名前を呼ぶ。

 どんなに小さな声でも、奏向は振り向いてくれた。


 いたずらな顔で、無邪気に笑う。


「ルールなんてクソ食らえだと思って。だから、破りに来た」



  * * *


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