第92話 再会(1)
春から高校に通い始めて、一月が経った。
中学までは杏華が最寄りの駅まで送り迎えをしてくれていたが、今では一人で登下校している。
お嬢様学校とも呼ばれている
例の事件からしばらく経った後、いつの間に運転免許を取得していた杏華が、心配だから車で送迎すると言い出した。
けれど、車に乗ることを想像するとストレスを感じることや、いつまでも甘えたくないという思いから断っていた。
それでも不安の種は尽きないようで。
勉強の合間にリビングで一息ついていた時、杏華が神妙な面持ちでソファーに腰掛けた。手には書類を持って。
「……お嬢様。差し出がましいことは承知の上で、ご提案があるのですが」
夕莉へ差し出すようにテーブルへ置かれたのは、履歴書や職務経歴書だった。
突然渡された誰のものかもわからない個人情報に、夕莉は僅かに眉根を寄せる。
「……これは?」
「身辺警護を専門にしている方々の情報と経歴です。信頼ある大手の会社から、特に優秀な人材をご紹介いただきました。あのようなことがまた起こらないとも限りません。……お嬢様のお気持ちは理解しております。それでも命には代えられないので、やはり護衛は必要かと」
いつになく真剣な表情で見据えてくる杏華を前に、夕莉は仕方なく差し出された書類を手に取った。
そこには、あらゆる情報が事細かに記載されている。
履歴書でよく見るような顔写真と、学歴から職歴、特技や所有している資格、果ては過去の前歴やプライベートの事情まで。
この書類だけで、大体の素性について網羅されているといっても過言ではないほどの内容だった。
「もちろん、車での送迎はいたしませんし、必要以上に接触させないことも可能です。あくまで身の安全を第一に、必ず一定の距離を保って――」
「杏華」
中身をほとんど確認することなく、書類をテーブルに戻す。
杏華がいくら説得しようと、考えを変える気はなかった。
「私はもう、一人でも大丈夫だから。今は杏華だけ居てくれればいいの。護衛は必要ない」
きっぱりと意志を表明する。
紹介された警護士は全て男性だった。
以前ほどではないとはいえ、異性に対して少なからず苦手意識を持っているのは今でも変わらない。
仕事と割り切っていても、信頼関係のない他人を側に置きたくはなかった。
もう、誰も信じられない。
表面上では善人を取り繕って、腹の底では何を企んでいるかも知れない相手に、命を預けるような真似はできない。
自分の身は自分で守ると決めた。
「しかし……」
「そんなに心配なら、GPSでも盗聴器でも、いくらでも持たせればいいわ。とにかく、今後一切使用人も付き人も新しく雇うつもりはない」
「……承知しました。では、外出時のGPSと防犯ブザーの所持は必須として、平日のスケジュールの共有と、帰宅時の連絡も毎日欠かさず行うこと。門限は20時、不要な寄り道は禁止。休日にお出掛けする際は、どこへ行き何時までに帰るかを事前に伝達。人通りの少ない場所は避ける。面識のない方に声をかけられても無視をする、もしくは絶対にお一人で対応しない。これらを厳守していただけますか?」
「…………」
過保護を通り越して、もはや束縛のようだ。
しかし、それで護衛を雇わないことを了承してくれるのなら安い条件だと思った。
少し間を空けてから、夕莉は小さく頷いた。
人前で笑顔を見せることがなくなってから随分経つ。
昔は社交性を身につけろと言われ、誰とでも打ち解けられるように愛想を振り撒いていた。
しかし、それが
過剰に慕われたり、異性から妙な気を起こされたりすることも少なくなかった。
自分に向けられる他者からの好意や情に敏感になったのは、割と早い時期だったかもしれない。
高校に入学してからは、誰に対しても心を開かないよう一線を引いていた。
心から理解し合える友達がほしいなんて、贅沢なことは望まない。
高校の三年間を一人で過ごすことになったとしても、何事もなく卒業できればそれでいい。
そう思っていたのに、気付けばまた輪の中心にいた。
優しい言葉をかけているわけでも、笑顔を向けているわけでもない。
傍から見れば無愛想に映るはずの態度で終始接しているのに。
クラスメイトたちは敬慕の眼差しで夕莉を見ている。
その中でも特に、熱烈な視線を向けてくる生徒がいた。
彼女は加賀宮 詩恩と名乗った。
何かと声をかけてきては、行動を共にしてくる。
友達――と呼べるかはわからなかった。
彼女から受ける眼差しは、明らかに友達へ向けるようなものではなかったから。
ただならぬ感情を抱いていることを察するようになってからは、何となく警戒心が生まれてしまい、下校時に一緒に帰ろうと誘われても拒否していた。
適度に突き放すようなことをしても、詩恩は傷付くどころか嬉々とした顔でさらに距離を縮めようとしてくる。
"変わった子"という印象がより強くなったが、彼女自身には分別があり実害もない。
嫌だと言えば素直に聞き入れてくれる。
時折危ない視線を感じることもあるが、慕ってくれる人を無理に拒絶しようとまでは思わなかった。
学級委員を務めていた夕莉は、担任から午後の授業で使用する教材の準備を手伝ってほしいと頼まれ、昼休みに職員室を訪れていた。なぜか詩恩も一緒に。
教室を出て行こうとした時に呼び止められ、事情を話すと、自分も手伝うと言ってついて来た。
職員室に入った途端、女性教師が呆れた口調で叱責する声が響く。
「――二色さんっ。前々から再三注意してるけど、授業中に堂々と居眠りするのはだめって言ってるよね。それ以上に、無断で欠席したり早退したりするのはもっとだめ! せっかく特待生で入学したのに、このままだと来年度は資格取り消しが確実になっちゃう。次不祥事を起こしたら、ほんとのほんとに反省文100枚書いてもらいますよ? むしろ反省文だけじゃ済まないよ?」
「あー…………はいはい」
「"はい"は一回! あと、これはできれば直してほしいんだけど……目つきとか態度が悪くて近付くのが怖いって、複数の生徒から苦情が来てるの。すれ違いざまに睨まれたとか、ただ居るだけで圧を感じるとか、そういう声があがってて……心当たりないかな。他の先生方に対しても印象が悪」
「先生。そのお説教、あとどれくらいかかります?」
「え? どういう──」
「この後バイトなんで。巻きでお願いします」
「もぉー!! ちゃんと反省してる?! ていうかまだ午後の授業あるからっ! 無断早退はだめって今さっき注意したばっかりだよね!?」
気怠げに受け流す生徒と、怒り心頭に発する教師のやりとりが聞こえる。
全国でも屈指の名門であるこの学院に、あそこまで叱られるほど不真面目な生徒がいるとは思わなかった。
そういえば、風の便りでそのような生徒が同じ学年にいると聞いたことがある。
無断で欠席や遅刻、早退を繰り返し、授業もまともに受けず、反省の態度も示さない問題児。
一体どんな風貌をしているのか。
僅かに興味を惹かれて、振り向こうとする。
「いけませんわ、夕莉さん」
しかし、視線の先を遮るように、詩恩が目の前に立ち塞がった。
「あのような蛮人を視界に入れたら、夕莉さんの麗しい御目が腐敗してしまいます」
そこまで害があるとは思えないが、という意見は胸の内にしまっておく。
どうしてもこの目で確かめたいわけではなかった。
ただ、"二色"という名前には聞き覚えがあって。
夕莉が受験した一般入試で、首席をとった生徒のはずだ。
「確か、首席で入学したと……」
「流言に決まっていますわ。先生方の前でみっともなくお叱りを受けているような問題児が、夕莉さんよりも聡明なはずがありませんもの。咲間先生もお気の毒に。たった一人の厄介者のせいで、相当な労力を費やしていることでしょうね……」
詩恩は心底憐れむような目で背後を見やる。
説教は未だ続いていた。
たとえ首席入学が事実だったとしても、今は落ちぶれてしまったということだろうか。
一時でも湧いた彼女への興味は、すっかり消え失せた。
最近、杏華から行きつけのお店の話をよく聞くようになった。
近くに小ぢんまりとした喫茶店があって、そこのコーヒーが美味しいのだという。
「よろしければ、お嬢様もご一緒にいかがですか?」
「コーヒーは飲めないの。知ってるでしょ」
「ココアもありますよ。ホイップクリームにさくらんぼが乗っています」
「……気が向いたらね」
好物を話題に出されたら、反応しないわけにもいかない。
外食はしばらくしていないため、たまには外に出るのもいいかもしれないと思った。
満更でもない夕莉の反応に、杏華はにこりと微笑む。
「お店の店員さんも、とても素敵な方なんです。カウンター席で奏向さんとよくお話しをするのですが、聞き上手でつい長居してしまって」
「"かなた"……?」
「はい、二色奏向さんです。お嬢様と同じ、聖煌学院に通われているそうですよ。喫茶店でアルバイトをされているんです」
店員の話も時々聞くことがあったけれど、名前を出されたのは初めてだった。
しかし、その名前は聞き覚えがあるどころのものではない。
聖煌学院の二色奏向といえば、悪い意味で噂が立っている人物だ。
これまで杏華から店員の話を聞いた限りでは、噂とは程遠い人格をしていた。
何より、杏華が気に入るような人だ。
さすがに、学校にいる時と同じような態度で接客することはないだろうが、それにしても別人だと疑いたくなるほど乖離している。
「……彼女のような方が、お嬢様の付き人になってくださると良いのですが」
「え……?」
ぼそっと呟かれた唐突な杏華の言葉に、夕莉は顔をしかめた。
ただでさえ付き人など必要ないと頑なに拒んできたのに、学校で"問題児"と風評が流れているような人を推薦してくるとは、さすがに呆れてしまう。
「冗談言わないで。付き人は雇わないと言ったはずよ。その話はもう聞きたくない」
ソファーから立ち上がり、背を向けてリビングを後にする。
失言してしまったと後悔した杏華は、小さく息を吐き、苦笑しながら夕莉の背中を見送った。
高校一年の三学期が終わった。
夕莉が所属している特進クラスは、他のクラスより早めにカリキュラムが修了し、一足先に春休みに突入していた。
来年度から始まる授業の予習をしつつ、息抜きに外を散歩する。
行き先はいつも同じだった。
家から徒歩十分の場所にある大きな広場。
ここは夕莉にとって特別な場所で、気に病むようなことがあった時やリフレッシュしたい時に訪れていた。
ここに来ると、思い出す。
彼女と出会ったあの日のことを。
あれから何度か広場を散歩しに行っていたけれど、彼女を一度も見かけたことはなかった。
それでも、もしかしたらまた会えるかもしれないという淡い期待を抱いてしまう。
せめて生きているかだけでも知りたかった。
望み薄な願いを今でも抱えていることに自嘲しながら、ゆっくり並木道を歩いていく。
空は快晴で、穏やかに吹く暖かい風が心地良い。
並木道から広場に出たところで、何気なく景色を見渡していた時。
近くで二人の親子が困ったように木を見上げている様子が目に映った。
彼らの視線の先を辿る。
どうやら、フリスビーを木に引っ掛けてしまったようだ。
考えるよりも先に、足が動いていた。
父親と思しき男性に声をかける。
全く抵抗感がなかったと言えば嘘になる。
正直、今でも異性と目を合わせたり話したりするのは苦手だ。
けれど、悲しそうにしている子どもを見て放っておくことはできなかった。
不安げな表情で夕莉を見上げる小さな子どもの頭を、優しく撫でる。
木の凹凸を確認し、足をかけた瞬間。
誰かに腕を掴まれた。
「ちょっと――」
不意の接触に、身構える隙があるはずもなく。
拒絶反応を起こしたように、一気に鳥肌が立ち、息が止まる。
反射的に離れようとして身を翻した時、相手の顔が眼前に映った。
思わず言葉を失い、視線が釘付けになる。
目を引く金色の髪と、凛とした顔立ち。
真っ直ぐ射抜くような強い眼差しに、鮮やかな榛色の瞳。
忘れるはずなんてない。
いつかまた会いたいと思いを馳せていた。
あの少女が、目の前にいた。
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