第91話 金髪の少女(3)

 あれ以来、広場で金髪の少女と遭遇することはなくなった。

 園路を歩いていても、ベンチで本を読んでいても、彼女の姿を見ることはない。


 夏休みの間だけ自由研究のために訪れて、その課題が終わったから来なくなったのかもしれない。


 少女はまるで、奔放を絵に描いたような人だった。


 馴れ馴れしいけれど不思議と不快感はなく、相手に遠慮しない言動はある意味清々しい。

 単に騒がしいだけの人とは違う、この人なら話せるという安心を少なからず感じていたのは確かだった。


 そんな彼女との出会いが、夕莉の心境に変化をもたらしていた。


 遠ざけていた勉強を、もう一度頑張ってみようと思い始めた。


 まずは、学校から出された課題を終わらせるところから。

 一日の勉強時間は以前より減ったが、集中して机に向かう感覚と習慣は少しずつ取り戻すことができた。


 夏休みが明けたら、登校してみよう。

 そう心に決めて、残りの休暇を過ごす。


 八月が終わり、二学期の始業を迎えた翌日。

 夕莉は数ヶ月ぶりに校門をくぐった。


 学校に諸々の事情を説明し、いきなりクラスに復帰するのではなく、しばらくの間は保健室登校をすることになった。

 登下校の時間帯はずらして、なるべく生徒たちとは接触しないように。


 今までは車で送迎してもらっていたが、間接的にでも嫌な記憶を想起しかねないため、徒歩で通学したいと杏華にお願いした。


 初めは難色を示していたものの、学校の最寄り駅までは一緒に付き添うこと、GPSの所持を条件に、何とか承諾してもらった。


 内心ではかなり夕莉を心配しているが、以前のように学校へ通えるようになることを願っている杏華は、できる限り夕莉の意思を尊重しようとしていた。


 通い慣れていた学校でも、今は初めて来る場所のように落ち着かない。

 昨夜はあまりの緊張で、ほとんど眠れなかったほどだ。


 萎縮していた夕莉だったが、担任や養護教諭は温かく迎え入れてくれた。


 まだ万全な状態とは言い切れないけれど、少しずつでも元の生活を取り戻したい。

 そんな願いを抱きながら、保健室に入った。


 一日の授業時間は、他の生徒より短い。

 まずは学校へ行く習慣を身につけるため、拘束時間は負担にならない程度に、という決まりで了承を得ている。


 午後は一時間だけ自習をして、夕莉は保健室を後にした。


 "今から帰る"と、スマホで杏華にメッセージを送る。

 最寄り駅で待ち合わせをすることになっているため、学校を出てそのまま駅へ向かった。


 人混みを避けるように、視線を落としながら歩く。

 不意に、横から誰かに声をかけられた。


「……あの、すみません。ちょっといいですか?」


 振り向いた先にいたのは、見知らぬ大人の女性だった。






 車に揺られている。

 隣にはナイフを持った男。


 気が付けば、知らない男の運転する車に乗っていた。


 一瞬の出来事だった。

 話しかけられた女性に道を聞かれ、案内をしていた途中。

 付近に停まっていた車から伸びてきた手に、体を引き込まれた。


 何が起きたのかを認識する前にドアが閉められ、乱暴に車が発進する。

 抵抗するという考えも起こらないほどに、隙のない動きだった。


「手荒な真似はしたくねぇからさ。大人しくしてろよ」


 拘束はされていないが、隣の座席でナイフをちらつかせる男が常時見張っているため、身動きは取れない。


 車に無理やり乗せられた拍子に、スマホが入っている鞄も取り上げられ、誰かに連絡することも通報することもできなかった。


 道を聞いてきた女性は、恐らく共謀者だ。

 人気のない場所まで誘き寄せるため、道に迷ったふりをして夕莉に声をかけたのだろう。


 恐怖で体が震える。

 動悸が激しくなり、呼吸が不規則になる。


 どうして、私ばかり――。


 トラウマを克服したいと、前を向いて生きたいと。

 どれほど願って努力しても、その希望は呆気なく打ち砕かれる。

 苦しいことばかりで、ただ普通に生きていくことすら叶わない。


 一体どんな過ちを犯したというのだろうか。

 いつくの試練を乗り越えれば、人並みの平穏な人生を歩めるのだろうか。


 どうせ、"助けて"と心の中で叫んだところで。

 この絶望的な状況の中、救いの手が差し伸べられるような奇跡なんて起こらない――


 頭を抱えて俯いた、その時。

 唐突に車が激しく揺れて、急ブレーキがかかった。

 運転席の男が、青ざめた顔で声を震わせる。


「……人、轢いたかも……」

「何やってんだバカ!」


 前席の二人が何やら言い争いをしている。


 周囲の状況を確認しようとゆっくり顔を上げた瞬間、車のドアガラスがコンコンと鳴った。運転席の側面だ。


 しかし男はパニックに陥っているようで、外から誰かが窓をノックしていることに気が付いていない。


 痺れを切らした助手席の男が、ドアハンドルに手をかけた直後、運転席側のドアガラスが豪快に割られた。


「ねえ。あんたの下手な運転のせいで自転車ぶっ壊れたんだけど。どう落とし前つけてくれんの?」


 若い女の声。

 口調は落ち着いているが、言葉の端々に怒りが滲んでいる。

 その声は、いつかどこかで聞いたことのあるものだった。


 破壊された窓から手が伸びて、狼狽える男の胸倉を掴む。


「いや、それより――後ろに乗ってる子、どうするつもり?」


 外から覗く相手の顔が僅かに見えた時、確信した。あの少女の声だと。


 なぜ彼女がこんなところに。

 そんな疑問が浮かぶよりも先に、目の前の光景に呆然とするしかなかった。


 少女が運転席の男を車から引きずり下ろし、助手席の男が慌てた様子で加勢している。

 夕莉の隣で成り行きを見守っていた男は、苛立たしげに舌打ちした。


「手こずらせやがって……おい、逃げようなんて思うなよ。ここから一歩でも動いたら――わかるな?」


 そう脅しつけて、男はナイフを握ったまま車から降りて行った。


 目紛めまぐるしく変わる状況に、思考が全く追いつかない。

 今のうちに逃げた方がいいのか、けれど、男に気付かれたら終わりだ。

 たとえ逃げようと思っても、体が震えてまともに動けない。


 外で争っている音が聞こえる。

 不安と恐怖から逃れるように、強く耳を塞いだ。



 どれほどの間、蹲っていただろうか。

 閉じ込めていた意識が引き戻されたのは、後部座席のドアが開かれた時だった。


 肩を震わせ、硬直する。

 少女はどうなったのか、男たちにやられてしまったのか。

 今になってそんな心配が湧いてくる。


 もしかしたら、ドアを開けたのは男――


「無事でよかった」


 しかし聞こえてきたのは、耳心地の良い優しい声だった。


 顔を上げて、おもむろに振り向く。

 そこには、片膝をついて夕莉を見上げる、傷だらけの少女がいた。


「怖かったね。――大丈夫。もう、大丈夫だよ」


 広場で見た時と全く変わらない、無垢な笑顔。

 その柔らかな表情が、夕莉の抱えていた緊張や恐怖を一気に解いて。

 張り詰めていた糸が切れたように、涙がどっと溢れてきた。



 少女に手を引かれ、急いで車から離れる。


 いつ倒れてもおかしくないほど、体中の震えが止まらなかった。

 それでもどうにか立っていられるのは、彼女が手を握ってくれているおかげかもしれない。


 何事もないかのような普段通りの口調とは裏腹に、少女の足取りは不安定だった。

 恐る恐る声をかけても、


「へーき。ただの擦り傷だし」


 と、軽く流すだけ。

 どう見ても平気ではない外傷に、不安が募っていく。


 そしてとうとう、歩みを止めた少女はその場に膝をついた。

 苦しげに息を吐きながら、近くのフェンスにもたれかかる。


 その痛々しい姿を、夕莉はただ見ていることしかできない。


「……私、ケータイ持ってなくて。今のうちに逃げて、警察に通報してくれる?」


 明らかに弱っている声。

 スマホの入った鞄は車内に置きっぱなしのため、手元になく今すぐ通報はできない。

 人通りのない閑静な道で、助けを呼ぶには探し歩かなければならない。


 立っているのがやっとの状態である夕莉に、行動に移せるような気力と体力は残っていなかった。

 何より、少女を置いて一人で逃げることなどできない。


 全身の力が抜けたように、夕莉も地面にしゃがみ込んだ。


「もう、いい加減泣き止んでよ」


 泣きじゃくる夕莉に向けて、少女は弱々しく苦笑した。

 何もできず、ただ涙を流すしかない自分の不甲斐なさに嫌気が差す。


「大丈夫だから。あんた、どんだけ泣き虫なの……?」


 素性のわからない相手に泣き顔を見せるのは二度目だった。


 杏華以外には決して軟弱な一面は見せまいと、常に気丈に振る舞ってきたのに。

 どうしてか、少女の前だと強い自分ではいられない。


 何とか言葉を絞り出そうとしても、口から吐き出されるのは掠れた声だけ。


「ごめんなさい……ごめんなさいっ……!」

「何で謝んのよ……」

「……あなたが死にそうだから。私のせいで……」


 彼女がどのような経緯で助けてくれたのかはわからない。

 けれどもし、自分が攫われたりしなければ、あの車と遭遇することも、こんな目に遭うこともなかったのではないか。

 そう考えると、酷く自責の念に駆られる。


 俯く夕莉とは対照的に、少女は優しい笑みを浮かべながら、否定するようにゆっくり首を振った。


「……これは、私のエゴだから」


 少女に視線を向ける。

 榛色の瞳に、夕莉の姿が映った。


「目の前で、誰かが苦しんで……傷付いてる姿を、ただ黙って見てられなかっただけ」


 思えば、広場で泣いていたあの時も、少女は優しく声をかけてくれた。


 なぜ、何者かも知れない相手のために、ここまで身を挺することができるのだろうか。

 なぜ、自身が苦しんでいる状況で、他人のために笑顔を向けられるのだろうか。


 夕莉にとって、少女の言動は理解し難い――けれど、強く心を打たれる。


「……だから、大丈夫だってば。……もう行って」


 呼吸が小さくなっていく。

 この言葉を最後に。

 深い眠りにつくように、少女はそっと目蓋を閉じた。


「……ッ!!」


 心臓が握り潰されるような感覚に陥った。

 慌てて少女に近寄るも、どう声をかけたらいいのかわからず、絶句するしかない。


 知らなかった。少女の名前を。


 意識を繋ぎ止めるために、二度も救ってくれた彼女の名前を呼んであげることすらできなかった。


 何もできない無力さに打ち拉がれていた時。


「お嬢様!」


 ここにいるはずのない人の声が、夕莉を呼んだ。

 振り返って相手の顔を視認する前に、強く抱き締められる。


 体から伝わる温かさと、幼い頃から好きだった匂い。

 杏華が傍にいるのだと実感した瞬間、安心したように再び涙が溢れた。


 程なくして、パトカーのサイレンが聞こえてきた。

 夕莉は弾かれたように顔を上げ、フェンスにもたれている少女に目を向ける。


「助けて! あの子が……」


 しかし、視線の先に少女の姿はなかった。

 息が止まりそうになる。

 咄嗟に辺りを見回しても、人影らしきものは見当たらない。


 座り込んでいた場所に血痕だけを残して、少女は忽然と消えてしまった。






 待ち合わせの時間になっても一向に現れず、連絡もない夕莉を心配した杏華が、夕莉に持たせていたGPSで居場所を特定していた。

 鞄ではなく衣服にGPSを身に付けていたことが幸いした。


 徒歩のはずが、明らかに速いスピードで移動しているのを不審に思い、あらかじめ通報していたのだ。


 車で夕莉を連れ去ろうとした実行犯の男たちは、その場で警察に拘束された。

 そして後日、裏で誘拐を首謀した主犯の男も逮捕された。


 二度と関わりたくないと思っていた人がその犯人だったと知らされた時は、思わず背筋が凍った。

 もし少女に助けられていなければ、今頃命はなかったかもしれない。


 金髪の少女については、身元を判明できる手掛かりがなく、最後まで正体を知ることはできなかった。


 彼女の生死は明らかではない。

 けれど生きていると信じて、いつかお礼をしたい。

 その思いだけは決して忘れずにいようと誓った。


 保健室登校をしながら、学校には何とか通い続けた。


 男性への苦手意識が未だ治らないこと、そして新しい環境で心機一転するために、内部進学の権利を放棄し、高校は外部の女子校を受験することにした。



 少女に助けられた日からおよそ二年半後。

 あの広場で、彼女と再会することになるとは夢にも思わずに――。

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