第90話 金髪の少女(2)
すっかり日課と化した広場への散歩。
夕莉は本と水筒を持って、お決まりの場所へ向かっていた。
照りつける日差しの暑さにじんわりと汗が滲むのを感じながら、日陰の下を歩いていく。
気分転換や心を落ち着かせるのが主な目的ではあるが、こうして足繁く通っているうちに、なんとなく気になることができてしまった。
もしかしたら今日も、あの子がいるのだろうかと。
気になるからといって、特にどうこうなりたいわけではない。
庭に住み着いた猫の様子を確認するくらいの、いたって軽い興味しかなかった。
いつもは同じ園路を通る。
しかし、分岐点まで来たところでふと違う道を歩きたくなり、反対方向へ足を進めた。
高木が立ち並ぶ景色はほとんど変わり映えしないものの、馴染みのない道はどこか新鮮だった。
犬の散歩をしている人や、ジョギングをしている人などとすれ違う中、向かいから自転車が走ってくる。
視界に入ったその人物を認識する前に、相手の方から「あっ」と声が上がった。
夕莉の前方で自転車が止まる。
「また会ったね」
広場でよく遭遇する、金髪の少女だった。
屈託のない笑顔を向けられ、夕莉は立ち止まりながら、一瞬戸惑う。
気になっていたとはいえ、いざ顔を合わせたら何を話せばいいのかわからなかった。
彼女とは友達でもなければ、知り合いでもない。
今までは流されるまま接していたけれど、改めて話すとなると緊張してしまう。
「……そうだ。いきなりで悪いんだけどさ、ちょっとだけ付き合ってくれる?」
言葉が出ない夕莉を気にする素振りもなく、何かを閃いたのか、少女は自転車から降りて手招きする。
彼女のもとへ近付くべきか迷った。
まだ気を許したわけではないから。
「そんな身構えないでよ。ただ居てくれるだけでいいから」
苦笑する少女の顔を、不安げな眼差しで見つめる。
子どもも遊んでいる真昼間の広場で、怪しいことをしてくる危険性はないとは思うが。
警戒しながらも、ゆっくりと少女の前まで近付く。一定の距離を保って。
「ありがと」と言って笑った少女は、自転車を押して歩いていった。
彼女の後ろを黙ってついていく。
向かった先は、いつも読書をするために座っているベンチだった。
「ここら辺でいいかな……。座って」
少女に促されるまま、ベンチに腰掛ける。
一体何をされるのか。
少女が次にとる行動を確認しようと視線を向けるが、夕莉の前でただ立っているだけだった。
しかし、何かを探しているようで、辺りを見回している。
声をかけようか迷っていたところで、どこからともなく一匹の猫がやってきた。
「あ、来た来た」
キジトラ柄の猫は夕莉の足下へ近付くと、顔をすりすりと擦り付けてきた。
「この猫、全然私に懐いてくれなくて。最近は顔見ただけですぐ逃げちゃうから、何とか誘き寄せられないかなーって思ってたとこなんだよね。で、ちょうどあんたがいたから、手伝ってもらっちゃった」
いつの間にかノートと鉛筆を手に持っていた少女は、夕莉の隣へ腰を下ろした。
開いたノートには描きかけの絵があった。
続きを描くつもりなのだろう。
キジトラ猫は少女の存在などお構いなしに、夕莉の膝上へ飛び乗りくつろぎ始めた。
なぜ猫が近寄ってくるのか、夕莉にもわからない。
ただ、こうして擦り寄ってきてくれるのは素直に嬉しかった。
「猫……好きなの?」
「んー、ぶっちゃけ犬派だけど。猫の気ままなところは可愛いなーって思う」
自由研究のテーマで猫を対象にするくらいだから、てっきり好きなのかと思った。
「……そういや、あんたは自由研究何やってんの?」
唐突な少女からの問いに、夕莉は思わず口を噤む。
学生同士であれば、何の不自然さもない普通の質問。けれど、今の夕莉にとっては答え辛いものだった。
不登校になってから、勉強が手につかなくなっていた。
学校から課題は出されているが全て中途半端で、最後までやりきったものはほとんどない。
やらなければいけないと心の中では思っていても、勉強に対する意欲は以前より弱くなっていた。
だから、人に話せるような成果は何もなかった。
「あれ、中学生だよね?」
いつまでも返事がこないことを不思議に思った少女は、絵を描いていた手を止めて夕莉を見やる。
中身のないただの雑談なのだから、適当に受け答えすればいいのに。
本当のことを話したらどんな反応をするのだろうかと、なんとなく思ってしまった。
名前も素性も、お互いのことは何も知らない、言うなれば赤の他人同士。
不都合なことが起こったところで、いつでも縁を切れる関係だ。
だからこそ、試してみたくなった。
少しだけ胸の内を明かしてみようと。
「宿題は……やってない」
「なるほど、最後にまとめてやるタイプか」
かなり熟考して言葉を発したが、返ってきたのは予想外の軽い反応だった。
少女は再びノートに視線を移して、何事もなかったかのように鉛筆を動かしている。
少女はきっと、夕莉にさほど興味がないのだろう。
初めて会った時も、隣に座っている今も、彼女の関心は別のところにある。
どこの誰かもわからない人が隣にいるのに気負わなくていいと思えるのは、親しみやすさがありながら必要以上に踏み込んでこない絶妙な距離感に、居心地の良さを覚えたからなのかもしれない。
周りから色眼鏡で見られてきた夕莉にとって、少女の態度や反応はとても新鮮で――。
「……今は……学校には行ってない、から」
無意識のうちに、自分の置かれている状況までも口にしていた。
俯いて、固唾を呑む。
出会って間もない他人にいかにも訳ありなことを話したら、困惑されるに決まっている。
しかも"学校に行っていない"なんて、欠陥のある人だと思われてもおかしくない。
少女は夕莉の横顔を凝視していた。
俯いていても、彼女がジッとこちらを見つめているのがわかる。
やはり、印象が悪くなっただろうか。
沈黙に居た堪れなくなって、そろそろこの場から離れようかと思い始めた時。
「ああ、そうなんだ」
またしても軽い返事であしらわれた。
少女は納得したように一度だけ頷いてから、再度絵を描くことに意識を向ける。
あまりに薄すぎる彼女の関心に、夕莉は拍子抜けした。
「……不登校のこと、悪く思ったりしないの?」
「別に、何とも」
あっけらかんとした様子で、少女はノートから猫へ視線を移した。
「人それぞれ事情があるだろうし、よく知らない他人のこといちいち詮索するだけ無駄でしょ」
少女の言っていることは、間違いではないのだろう。
しかし、いくら何も感じなかったとしても、ある程度の反応はしてくるものだと思っていた。
改めて少女を見ても、本音を隠そうとしている雰囲気はない。
心の底から夕莉の発言を気にしていないのだと察した。
静寂が流れる。
予想外の反応ばかりで、呆気にとられてしまったのもある。
同時に、少女に対して羨ましさも感じていた。彼女はきっと、自分に正直な人なのだろうと。
思ったことを言って、やりたいことをする。夕莉とはまるで正反対だった。
黙りこくって静かに猫の背中を撫でる夕莉を一瞥した少女は、手を止めてそっと話し始めた。
「……まぁ、義務教育受けてたって、どうしようもなくバカなヤツだっているし。たまにさ、"不登校は甘え"とか言う人もいるけど――」
夕莉は少女の方へ顔を向ける。
改めて見ると、鼻筋が通った彼女の横顔は、彫刻のように端整だった。
少女は僅かに目を細めて、顔を上げる。
「学校行ってようが行ってまいが、こうして生きてるだけでも立派だと思うけどね」
誰に言い聞かせるでもなく、独り言のように呟かれた言葉。
少女は遠くを見ていた。
彼女が何を考えてそんな発言をしたのか、他人同然の夕莉には知る由もない。
ただ、その言葉は胸の内側に深く染み渡って。
心に広がる暗闇に、ほんの少しだけ光が照らされる。
辛いことや苦しいこと、全てを背負って生きてきた今までを、肯定してくれたような気がした。
不意に目頭が熱くなる。
こんなところで泣くつもりなどさらさらなかったのに、涙が勝手に流れた。
小さく啜り泣く音に気付いた少女は夕莉の方へ振り向くと、驚いたようにギョッとして眉根を寄せた。
「えっ……え? 何で泣いてんのよ……!?」
慌ててノートを閉じ、不安げな表情で夕莉の顔を覗き込む。
少女が接近してきたことで、夕莉の膝上にいた猫は颯爽と逃げてしまった。
「泣かせるようなこと言ったっけ? あっ、もしかしてお腹空いたの? ……違う?」
しどろもどろになりながら、どうにか泣き止ませようとしている。
それでも、涙は止まらなかった。
辛いと感じても、泣くことも弱音を吐くこともできなかった。
それはきっと、幼い頃から完璧を求められてきたから。
ずっと溜め込んでいた負の感情が、涙となって溢れていく。
頬を伝う雫を拭うこともせず、ただ俯いている夕莉を前に、少女はしきりに目を泳がせながら、手を伸ばそうとしては引っ込めるという挙動を繰り返していた。
険しい表情で数秒硬直したあと、スカートのポケットからあるものを取り出す。
手の中にあるそれを名残惜しそうに見つめてから、意を決したように強く握り締めた。
「あのさ。アイス、食べたくない?」
優しい声音で問いかける。
隣に座っていたはずの少女が目の前でしゃがみ、笑顔で夕莉を見上げていた。
ほぼ有無を言わせず連れてこられたのは、ベンチから少し離れた場所にある自動販売機だった。
上部には、"All 100円"と大きく書かれたポップが貼られている。
飲料が販売されている自販機なら見たことがある。しかし、アイスは初めてだった。
「この自販機、八月限定で全品100円になるんだよね。知ってた?」
夕莉は首を横に振る。
そもそも、存在は知っていても、屋外にある不特定多数の人が利用するような機械に触れたことがなかった。
ほとんど視界に入ることがないと言ってもいい。
「好きなもの選んでいいよ」と言われたが、どれもこれも初めて見るものばかりで、何を選べばいいのかわからない。
写真と商品名で大体の想像はつくが、果たして100円の食べ物は口に入れても大丈夫な品質なのだろうかと、密かな不安があった。
けれど、少女の厚意を無下にするわけにもいかない。
僅かに逡巡してから、適当に目についたものを指差した。
「お、チョコミント? センスあるねー。私もこれ好き」
少女は嬉しそうに笑った。
硬貨を投入し、ボタンを押す。
ガタンと物が落ちる音がして、取り出し口から棒付きのアイスが出てきた。
「どうぞ」と少女から差し出されたそれを、物珍しそうに見つめながら受け取る。
冷凍庫からそのまま取り出したかのように、ひんやりとしていた。
ベンチに戻り、溶けないうちにアイスを食べる。
見たことのない形状に目を見張りながら、恐る恐る一口かじった。
「どう?」
「…………冷たい」
「そりゃアイスだから」
「……不思議な味がする」
「そこは"おいしい"って言わなきゃ」
「美味しい…………かはわからない」
「正直だなー」
「……でも……悪くはない、と思う」
「ならいいや」
すっかり泣き止んだ夕莉に安心したのか、隣に座る少女は安堵のため息を吐いてノートを開く。
切り替えが早いのだろうか、集中しているようで一心不乱にレポートを書き進めていた。
面と向かって感謝を伝えるのは、何だか気恥ずかしくて。
けれど今なら、言える気がする。
夕莉は視線を落としながら、小さく囁いた。
「…………ありがとう」
「どういたしまして」
ノートに顔を向けたまま、少女は柔らかく微笑んだ。
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