第89話 金髪の少女(1)
閉口したまま微動だにしない夕莉を不思議に思ったのか、金髪の少女は小首を傾げる。
しかし、興味の矛先はすぐに夕莉の膝上に座っている猫へ向けられた。
「人に懐くなんて珍しいな。いや、私だけが嫌われてる可能性もあるか……好き嫌いを判別してる要素って何だろ……」
顎に手を当てながら、ぶつぶつと何かを呟いている。
夕莉には目もくれず、猫をジッと凝視していた。
変な人に絡まれた、と思っていいのだろうか。
金髪のせいで軽そうに見えること以外は、外見的に怪しいところはない。
ただ、行動の意図が汲み取れない。
どこの誰かもわからない人とあまり関わりたくないため、すぐにでもこの場を離れたかった。
膝上でくつろぐ猫を退かそうとした時、しゃがんでいた少女が突然立ち上がった。
「ちょっと、そのまま猫抱いといてくんない?」
友達に話しかけるようなフランクさでお願いしてきたかと思えば、夕莉の隣へ何の躊躇いもなく腰掛ける。
凄まじい距離の縮め具合に、夕莉はパーソナルスペースを侵害されたような感覚を覚えた。
けれど、なぜか拒絶したいとまでは思えない。
「動かないでね」
そう声をかける少女の目は、もう猫しか見えていないようだった。
手に持っているノートと鉛筆で、何かを描き始める。
真剣な眼差しでノートと睨めっこしながら鉛筆を動かし、時折猫を観察していた。
そんな少女を、夕莉は警戒しながらもつい盗み見てしまう。
制服と思われるポロシャツとスカートを着用していることから、学生であることが窺える。
雰囲気はどちらかと言えば大人びている方だが、年齢はおそらく同世代くらい。
初対面なのに、ここまで馴れ馴れしく接してくる人は初めてだ。
口調もタメ口で、相手に対して遠慮がない。良く言えば人懐っこい、悪く言えば図々しい。
今までこのようなタイプの同年代と関わったことがなく、夕莉はこの状況をどう対処すればいいのかわからなかった。
ただ、何となく怪しさはあるものの、悪意や何らかの魂胆を隠し持っているようには感じられない。
きっと彼女は、元からそういう性格の人なのかもしれないと思った。
ノートに何かを描き始めてから一分も経たないうちに、少女は満足げな声を上げた。
「……よし、できた! やっぱ止まってくれてると描きやすいなー」
意図せずチラッと見えた絵に、思わず目を疑った。
確か彼女は、猫を見ながら描いていたはずだ。
しかしノートに写っていたのは、およそ猫とは思えないような、奇妙な形をした図形の集合体だった。
小さな黒い円形が二つ並んでいる部分はかろうじて猫の目だと判断できるが、それ以外のパーツはもはや識別不能だった。
「…………
「は? どっからどう見たって猫でしょ」
つい口を付いて出るほどの壊滅的な――もはや芸術的な画力に、ある意味衝撃を受けた。
会話をするつもりはなかったのに、無意識に声が出てしまいハッとする。
小さく呟かれた夕莉の疑問に、少女は聞き逃すことなく反応して、不服そうに眉をしかめた。
「独特な感性してるね」と言われたが、他の人が見たとしても、100人中100人はこの不思議な形をした絵を猫だと認識できないはずだ。
独特なのはそっちの方だと、心の中で密かに言い返す。
「今なら触れるかな」
少女はノートを閉じると、夕莉の膝上であくびをしている猫に向かって、気配を消すようにゆっくり手を伸ばす。
あと少しで指先が頭に触れそうになった時、警戒心を取り戻した猫が少女の手を容赦なく引っ掻いた。
「いたっ。……ちぇ」
いじけたようにため息を吐く。
猫は夕莉の膝上から飛び降りると、軽やかな足取りでどこかへ走って行った。
少女はその様子をただ目で追うだけ。
「今日はここまでにしとくか……。邪魔してごめんねー」
おもむろにベンチから立ち上がり片手で謝ると、少女はこの場を後にした。
小さくなっていく彼女の後ろ姿をぼんやり眺める。
話しかけられた時、緊張と動揺で心臓が跳ねるほど委縮した。
知らない人――もし悪いことを企んでいるような人だったらどうしようかと、正直気が気でなかった。
けれど、いつの間にか緊張感は小さくなっていた。
それはきっと、少女は夕莉のことを見ていなかったから。
彼女の関心が終始猫に向けられていたおかげか、対話をしなければならないというプレッシャーを感じずに済んだ。
勝手に現れては、勝手に去っていく。
彼女の行動はまるで猫のようだった。
「お待たせしました…………お嬢様? どうかなさいましたか?」
少女のことを考えながら景色を眺めていたら、杏華が戻ってきた。
心配そうに顔を覗き込む杏華に、小さく首を振る。
「……何でもない」
買ってきてくれたお菓子を受け取り、袋の中を覗いてみる。
大好きなチョコレートのドーナツが入っていた。
精神的ストレスで食欲が湧かない日が多く、食べたとしてもほとんど味が感じられなかったけれど。
ドーナツを一口かじると、ほんのりとした優しい甘さが口の中を満たしていった。
何度か散歩を繰り返すうちに、外へ出ることの抵抗感が徐々に薄れていき、昼間の短時間であれば一人で出掛けられるようになった。
行き慣れた広場がすっかりお気に入りの場所になって、今では広場のベンチで読書をするのが密かな楽しみだ。
読みかけの小説と水分補給のための水筒を持参して、今日も広場へ出掛ける。
いつも座っているベンチに辿り着いたら、地面に何かが落ちているのを見つけた。
ストライプ柄の水色のノート――見覚えのあるノートだった。
夕莉はそれを拾い、辺りを見回す。
すると、遠くにある木の下で数匹の猫に囲まれている少女が目に入った。
これまた見覚えのある服装と金色の髪。
落とし物を拾ったからには、届けた方がいいに決まっている。
それでも、自分から話しかけに行く勇気がなかった。
人との関わりも避けていたが、いずれ克服しなければならないことは理解している。
ただ、渡すだけ。このノートを渡して、すぐに引き返せばいい。
深呼吸をして意を決した夕莉は、心臓がバクバクと脈打つ感覚に何度も足を止めそうになりながら、金髪の少女がいる木の下へ近付いていく。
「ん……?」
しかし、あと少しで声をかけるという直前に、不意に振り向いた少女と目が合った。
お互いに硬直し、沈黙が流れる。
少女は大きな目を
想定外の流れになってしまい、言葉が出ない。
ノートを渡すという使命も頭から抜け落ちて、視線を逸らすことしかできずにいた時、少女が口火を切った。
「えー……っと、確か…………そうだ。この前の、猫に好かれてた子」
思い出したとでも言いたげに、口角を上げる。
彼女も自分のことを覚えていた。
そのことが、少しだけ夕莉の動揺を和らげる。
見ず知らずの人と話すわけではないのだから、あまり身構える必要はないと思えた。
勇気を出して、少女の目を見ながらノートを差し出す。
「……これ。ベンチの横に落ちていたわ」
「あっ! ありがと」
少女は目を見開いたあと、嬉しそうに顔を綻ばせた。
凛々しい顔立ちからは想像できない、無邪気な子どもを彷彿とさせるあどけない笑顔だった。
「自由研究のレポートだからさ。失くしたらヤバかった」
「自由研究……?」
「そ。野良猫の生態調べてんだよね」
少女は左手でノートに文字を書きながら、右手でネコジャラシを揺らすという器用な動きをしている。
生態を調べていると言っても、ただ猫と戯れているようにしか見えなかった。
しかし、ノートにまとめられたレポートを失礼だと思いながらも横から流し読みしてみると、存外にも筋立てが一貫していて論理的な書き方をしていた。
内容も矛盾がなく、考察と結論がしっかり結びついているため説得力がある。
ただ、その秀逸な文章が霞んでしまうほどインパクトのある正体不明の不気味な絵が、レポート全体の印象を悪くしているのではないかと思えてならない。
「そんなガン見してどしたの? ……あ、わかった。あんたも絵描きたいんでしょ。ほら、これ使いなよ」
相変わらずの画力に言葉を失っていただけだが、何を勘違いしたのか、少女はノートと鉛筆を差し出してきた。
夕莉は断ることができず、躊躇いながらも渋々受け取ってしまう。
「座りなよ」と促され、芝生の上にそっと正座した。
道具を与えられたものの、別に絵を描きたいわけではなかった。
それに、このノートは自由研究のレポートと言っていたから、学校へ提出するもののはず。
第三者が安易に落書きをしていいのだろうか。
そんな心配が頭を過るが、なぜか少女が期待に満ちた目を向けてくるため、今さら引き下がれなくなった。
ノートの一番後ろのページを開く。
落とし物を渡すだけのはずが、どういうわけか絵を描くことになり、夕莉は内心困惑していた。
適当に済ませて、早くここから去ろう。
そう思いながら、近くの猫をデッサンする。
ざっと描きあげたところで、横からノートを覗き込んできた少女が感嘆の声を上げた。
「すごっ、やばっ。ちょー上手いじゃん! 画家志望?」
実物の猫をそのままノートの中に閉じ込めたような写実画。
完成度の高さに興奮している少女を見て、夕莉は僅かにこそばゆくなる感覚を覚えた。
「……これくらい、普通のことよ」
「うわ、天才が言うセリフだ」
からかいながらも、少女の夕莉へ向ける眼差しは羨望で溢れている。
「待って……何か掴めそうな気がする」
返されたノートを真剣に見つめたかと思えば、今度は夕莉の顔を凝視する。
真っ向から穴の開くほど見つめられ、目を逸らしたくなったが、引きつけられているようで瞬きすらできなかった。
「ねぇ、似顔絵描いてもいい?」
「似顔絵…………私の?」
「うん」
「…………別に、いいけど」
何を言われるのかと不安に思っていたけれど、案外許容できるものだった。
少し恥ずかしい気もするが、モデルになるだけなら特に断る理由はない。
その似顔絵を悪用さえしなければ。
ただ一つ懸念点を挙げるなら、彼女の画力を考えるとまともな絵ができるとは正直思えないということだった。
少女は夕莉の顔を観察しながら、スラスラと鉛筆を動かしていく。
時折、時間が止まったのかと思うほど注視してくることがあり、目のやり場に困った。
黙々と、偶に独り言を挟みながら、ようやく完成した似顔絵を眺めては、満足げに頷く。
少女はノートを夕莉に見せると、天真爛漫な笑みを浮かべた。
「見て見て! 造形整ってるからめっちゃ描きやすかったよ。今までで一番上手くできたかも」
見せてきた似顔絵は想像通りの――むしろ想像以上の出来栄えだった。悪い意味で。
顔のパーツは宇宙人のようなあり得ない比率の大きさで、全くバランスがとれていない。
輪郭はゴタゴタで、髪と思われるものは線一本のみ。
メインの顔以外に、体と思しき小さな謎の図形が繋がっている。
他にもいろいろ突っ込みたいところはあるが、おそらく真面目に描いたであろう絵をこれ以上あれこれ批評するのは、無礼だと思った。
とりあえず何か感想を言おうと、口を開く。
「…………
「はあ? ほんと感性どうかしてる」
キラキラと輝いていた目が一瞬で陰る。
この人にだけは言われたくないと思った。
人の顔をどう観察したら、人外の形をした絵を描けるのだろうか。
先日の猫の絵から上達したところがあるとするなら、陰影の付け方だけだ。
無駄にリアルさが増したせいで、子どもが見たら泣き出しかねない奇妙な絵が出来上がっている。
この少女には自分がこんな風に映っているのではないかと思うと、恐怖心すら生まれてくる。
そんな夕莉の心情を察するはずもなく、少女は不貞腐れたような態度でジト目を向けてきた。
「まさか自分のこと未確認生物だと思ってんの? それなら納得できるけど」
「その……あなたの絵があまりにも…………独創的で」
「絶対褒めてないよね、それ」
そう言われても、フォローする言葉が見つからないどころか、危うく本音が出てしまいそうになる。
かなりオブラートに包んだつもりだったが、少女は未だ不満げな表情で口を尖らせていた。
「はぁ、お腹空いた……。もう帰るわ」
少女は唐突にそう言って立ち上がると、ヒラヒラと手を振って夕莉に背を向けた。
気の赴くままに行動するという姿勢は相変わらずのようだ。
振り回されたような気もするけれど、なぜか不愉快に思うことはなかった。
その理由を考えていたら、今になってあることに気付く。
最初は必要最低限の言葉しか交わさないようにしようと、決めていたのに。
知らぬ間に、少女と対等に会話をしていたことを。
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