第88話 付き人(2)

※性被害に関する描写が含まれます。

 苦手な方、精神的に負担のかかる恐れがある方はご注意ください。


──────




 後日、校内でとある噂が広まっていた。

 神坂夕莉は年上の厳つい色男と付き合っていると。


 多少事実と異なる尾ひれがついてしまった感は否めないが、そのおかげで明らかに言い寄ってくる人の数は減った。


 彼氏がいるなんて何かの間違いだと嘆く人もいれば、あれだけの美貌の持ち主が、誰かしらと交際していてもおかしくはないと納得する人もいた。


 陰で何かを言われるのは慣れている。

 実害がなければ、何と噂されようがどうでもよかった。


 これでようやく幾分か平穏な学校生活を送れる、そう安堵したのも束の間。


 不安は消えたはずなのに。

 何でもない安穏な日常の中に、ほんの僅かな歪みが生じたような違和感を覚え始めていた。


「おはよう、夕莉さん」


 今日も変わらず、出海いずみが穏やかな笑みを浮かべながら、家の前で夕莉を出迎る。

 いつも通り挨拶を交わし、車内に乗り込もうとした時。


「ちょっと待って」


 呼び止められ、振り向いた矢先。頭に手を置かれた。

 大事に扱うような――感触を確かめるような手つきでゆっくり撫でられ、夕莉の長い髪を指先が梳かしていく。

 名残惜しそうに手を離して、優しく微笑んだ。


「髪に小さなゴミがついてたから」


 こうしてさりげなく触れてくるのは故意なのか、無意識なのか。

 もしかしたら考えすぎかもしれないと思った。


 ただ、彼が恋人のふりをしてくれるようになった時期から、見つめてくる視線が心なしか怪しげで。

 笑みの中に、ねっとりとした不純な感情が見え隠れしているような気がしてならない。


 今まで下心や慕情を含む視線を向けられることが多かったせいか、邪な気持ちを抱く人が放つ異様な雰囲気に敏感になっていた。


 出海はあくまで付き人だ。

 恋人のふりも、仕事の一環にすぎない。

 それなのに、必要以上に距離が近くなっている。


 頭を撫でるだけではなく、顔や肩を触ったり、腰に手を添えたり。

 ここ最近、まるで本当の恋人に対してするような仕草が目立つ。


 彼のことは嫌いではない。

 むしろ"好き"の部類に入る。

 ただそれは、使用人として信頼しているという意味であって、雇用関係を超えた領域にまで踏み込まれるのは違う。


 出海が付き人になってから半年以上経ったが、これから先、彼を恋愛対象として意識する可能性は、万に一つもないと断言できる。


 対して出海は、雇用主である自分のことを一体どんな目で見て、どんな感情を抱いているのだろうか。

 主従関係が脅かされることへの不信感が芽生え、夕莉の中で彼への信頼が揺らぎ始めていた。


 邪な感情を抱いているのではないかと疑ってしまう気持ちと、一線を越えるようなことはしないと信じたい気持ちが、心の中で葛藤している。


 そんな状態のまま、夕莉は中学二年生になった。


 始業式を終えて、帰宅する時間帯。

 校門から少し離れた場所に停まっていた迎えの車が、夕莉の前までゆっくりと走行してくる。


 運転席から出てきた出海は、夕莉に笑顔を向けながらある物を渡した。


「進級おめでとう。これ、僕からのお祝い。開けてみて」


 手渡されたのは、小ぶりな紙袋だった。

 中には四角いジュエリーボックスが入っている。


 恐る恐る箱を開けてみると、そこには一粒石のネックレスがあった。

 付いている赤い宝石はおそらく、ガーネット――。

 嬉しさよりも、もやもやとした感情が真っ先に込み上げた。


 正直、重い。

 ただの進級祝いで、プロポーズのような贈り物を渡してくるのは、一体どんな意図があるのか。


 とはいえ、わざわざお祝いしてくれたことにまで抵抗感を示すのは失礼だと思った。

 複雑な気持ちを押し殺して、無理やり口角を上げる。


「……ありがとう」


 ジュエリーボックスを紙袋の中にしまい、ふと顔を上げた瞬間。


「その表情かお――誘ってるの?」

「……え?」


 出海が至近距離で顔を覗き込んできた。

 反射的に後退りしそうになったところで、咄嗟に手首を掴まれ、そのまま車に押さえ付けられる。


 何を言っているのか、意味がわからなかった。

 ただ、微笑しただけ。

 特別な相手にしか見せない表情でも何でもないのに。


「っ……!?」


 困惑で体が動かない、そんな時に。

 出海の手が夕莉の太ももに触れた。

 撫で回すような手つきで弄ると、徐々にその手はスカートの中へ侵入してきた。


「いやっ……!」


 ようやく拒絶の声を上げられた直後、出海の手がパッと離れた。


「スカートの裾、捲れてたよ」


 何でもないような表情で、言い訳じみた言葉を口にする。


 今の彼の行動で確信した。

 これ以上触れられたくないと、本気で嫌だと感じてしまった。


 彼なら信頼できると思っていたのに。

 護衛のために雇ったはずが、その当人が誰よりも身の安全を脅かすような人だったとは、誰か予想できただろうか。


 明らかにただならぬ感情を抱いていると気付いてしまった以上、このまま付き人として側に置くのはあまりにも危険だ。


 それからの夕莉は、なるべく出海と目を合わせないようにして、会話も極力控えた。


 体に触れてくるのはやめてほしいとはっきり伝えたにもかかわらず、何食わぬ顔で恍けた出海を前に、いよいよ本気で彼を解雇しようかと考えた。


 今日、学校から帰ったら杏華に相談しよう。そう思ったが、帰宅した時家の中は誰もいなかった。


 買い物にでも出掛けているのかもしれない。

 先に自室で着替えを始めた直後、ドアノブの動く音が聞こえた。

 杏華が帰ってきたのではと背後を振り向こうとしたが、彼女は必ずノックをしてから声を掛けてくる。


 勝手に部屋へ入ってくるのはおかしいと違和感に気付いた時には、もう遅かった。


 現れたのは杏華ではなく、出海だった。

 夕莉を家まで送り届けて、業務を終えたはずの出海が、なぜか夕莉の部屋にいる。


 彼の顔を見た瞬間、背中に冷たいものが走った。

 同時に、金縛りにあったように全身が硬直する。


 ここにいてはいけない。

 何をされるかわからない。

 一刻も早く逃げるべきなのに、恐怖で指先一つ動かせなかった。


「今、杏華さんはいないんだよね。それなら好都合だ」


 出海はニヤリといやらしい笑みを浮かべながら、少しずつ夕莉のもとへ近付いていく。


「夕莉さんは、僕のこと好きでしょ」


 また意味のわからないことを言っている。


 今は好きではない。

 むしろ嫌悪感すら覚える。

 それに、彼の言う"好き"と夕莉の思う"好き"は、根本的に意味が違う。


 否定するために首を振ろうとするも、思うように体が動かない。


「だって、好きじゃなかったらあんな笑顔見せてくれたり、そもそも恋人のふりをお願いしたりするはずないじゃん。だから――両想いだね。僕たち」


 違う。そう言い返すための声も出ない。

 心臓が激しく脈打つ中、ようやく足を動かせるようになったその瞬間。


 目の前に出海の顔が迫っていた。


 後退りする間もなく、近くのベッドへ強引に押し倒される。

 出海は手慣れた動作で夕莉のシャツの胸元を開けると、僅かに顔を歪めた。


「僕があげたネックレス、つけてないの?」


 しかし、不機嫌な表情を見せたのは一瞬。

 すぐに卑猥な笑みを口元に浮かべた。


「仕方ないなぁ。じゃあ、君と僕が特別な関係だと証明する印を、その体に、直接刻み込んであげる」






 その後のことは、覚えていない。

 思い出したくもない。


 気付いたら、声を震わせながら「ごめんなさい」とひたすら謝る杏華に抱き締められていた、という記憶だけは微かにあった。


 あれから抜け殻のように心の中が空っぽになって。

 誰にも会いたくない、誰とも話したくない、一人でいたい、消えたい――死にたい、と。

 部屋に引きこもっては、消極的なことしか考えられなくなった。


 出海は即刻解雇した。

 その後すぐに、父親が所有しているセキュリティ対策が万全のタワーマンションへ引っ越した。

 通っていた学校は不登校になって、もう二ヶ月以上欠席している。


 定期的にカウンセリングを受けているが、ふとした時に強烈な不快感が蘇って、眠れないほどの悪夢を見ることが度々あった。


 それだけではなく、他人に少しでも体を触られると、拒絶反応が起こるようになってしまった。


「お嬢様。少しだけ、外に出てみませんか?」


 衰弱している夕莉を心配した杏華が、そう提案する。

 昼間の明るい時間帯に、一時間だけ一緒に散歩をしようと。


 精神状態はまだ安定していないが、このまま引きこもり続けるのは良くないと、ちょうど夕莉自身も考えていた。


 マンションから徒歩十分ほどの場所に、大きな広場があるらしい。

 今日はそこへ行くことになった。


 広場には、子どもたちが元気に遊び回っていた。

 平日の昼間なのに、と疑問を抱いたが、そういえば世間では夏休みの時期だったと思い出す。


 杏華と散歩コースをゆったり歩いた後、ひと休みするため木陰にあるベンチに腰掛けた。

 日差しはそこまで強くはなく、生い茂る緑の木々が涼しさを感じさせる。


 しばらく景色を眺めてから、杏華が立ち上がった。

 近くにキッチンカーがあるようで、おやつを食べようと言ってくれた。

 何を買うかは杏華に任せて、夕莉はベンチで大人しく待つ。


 一人になって、目を瞑る。

 何も考えず、雑念を振り払って。


 心を落ち着かせるため深呼吸を繰り返していたら、不意に「みぁー」と猫の鳴き声が聞こえた。

 足元に目を向けると、夕莉を見上げていた猫がベンチへ飛び乗り、膝の上に座ってきた。


 突然やって来ては、なぜかリラックスした様子でくつろいでいる猫に多少困惑しながらも、無防備な背中をゆっくり撫でる。


「うわ、マジか」


 その時。正面から誰かの声が上がった。

 その声が自分に向けられたものとは気付かずに、夕莉は驚きでほんの少し肩を震わせ、咄嗟に視線を落とす。


「そのキジトラ、一回も触らせてくれたことなかったのに」


 しかし、二言目の内容で確実に話題の種がこちらにあることを自覚した。

 杏華以外の人との接触は久しぶりで、警戒心が芽生えると同時に緊張感がドッと押し寄せてくる。


 透き通る声の持ち主は夕莉に近付くと、目線を合わせるようにしゃがんで顔を覗き込んだ。


「ねぇ、どうやって誘き寄せたの?」


 目の前で興味深そうに見上げてくる少女と、視線が交わる。


 猫のように力強く大きな瞳は鮮やかな榛色はしばみいろで、言葉を失うほど美しい色をしていた。

 眉はくっきりしていて、鼻筋は高い。

 最も目立つ金色の髪は、肩先よりやや長く、毛先が緩やかにはねている。


 全体的に非の打ち所がない、すっきりとした端正な凛々しい顔立ち。


 誰かを前にして目を奪われたのは、夕莉にとってこの瞬間が初めてだった。

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