第86話 追憶(2)

 休日の午前中。

 家庭教師が訪問してくるまで、夕莉はいつも通り自室で予習をしていた。


 使用人は住み込みではないため、決められた曜日と時間にやって来る。

 父親も数日前から帰宅していないので、今日も変わらず家の中は静寂に包まれていた。


 家族二人が住むには、あまりに広すぎる豪邸。

 小さな娘が一人で使うには、あまりに寂しすぎる部屋。


 昔は夜に一人で眠るのが怖くて、朝まで泣いていたこともあった。

 けれど、そんな寂しさもいつの間にか慣れて。

 家に誰もいないのが、当たり前のこととして受け入れられるようになってしまった。


 だから、突如訪れた誰かの気配が。

 この家には自分しかいないと、すっかり油断していた夕莉の警戒心を煽った。


 廊下から足音が聞こえる。

 その足音は徐々に大きくなって、部屋の前でピタリと止まった。


 恐怖と緊張感で、鉛筆を動かしていた手が硬直する。

 午前中に訪問者が来る予定はなかった――いや、そういえば、今日から新しい使用人に代わると小耳に挟んだ気がする。


 どうせその人も今までの使用人と同じ、冷たくて他人行儀な人に違いない。

 お金で雇われただけの余所者だから、端から親しくするつもりはないけれど。


 早く立ち去ってくれないだろうか。

 そう思いながら耳を澄ませていたら、ドアをノックされた。


「夕莉お嬢様。いらっしゃいますか?」


 女性の声だった。

 思ったよりも刺々しさは感じない。

 むしろ、柔らかな声質。


 予想外の優しい問いかけに内心驚くと同時に、こそばゆい気持ちを覚えた。

 初めて、使用人に名前を呼ばれたから。

 名前なんて覚えてもらえないと思っていた。


 親からも久しく呼ばれていないその音の響きが、自分のものなのにどこか新鮮で――。


 女性の声を頭の中で反芻している間に、再度ノックされる。

 簡単には引き下がってくれないだろうと感じた夕莉は、ドアの前まで近付き、恐る恐る返事をした。


「…………何?」

「はじめまして。本日付けでこちらのお屋敷の家事を代行することになりましたので、ご挨拶に伺いました」


 やはり、女性は新しく雇われた使用人だ。

 けれど、あくまで雇い主は父親。

 彼女は家庭教師でもなければシッターでもないのだから、わざわざ小学生の娘にまで律儀に挨拶する必要はないのに。


「恐れながらお顔を拝見したいのですが……ドアを開けてもよろしいでしょうか」


 どう反応すればいいのかわからずに戸惑っていると、ドアの向こうから控えめな声が問いかけてきた。


 尻込みしたのは一瞬だけ。

 声しか聞いていないのに、不思議と警戒心は和らいで。

 ほんの少しだけ、興味が湧いてきた。

 新しい使用人がどんな人なのか。


 別に、受け入れたわけではない。

 ただ確認するだけ。これからこの家を出入りする人の顔や姿を、知っておく必要があるから。


 意を決した夕莉はそっとドアノブに手をかけて、顔が覗ける程度にドアを開いた。


 部屋の前に立っていたのは、メイド服を着た若い女の人だった。

 赤褐色の髪を後ろでまとめたシニヨンに、リボンのバレッタを留めている。

 美しい佇まいと落ち着いた雰囲気。


 一瞥しただけで気品の高さを感じるほどの存在感を放っていた。


 女性はドアの隙間から顔を覗かせる夕莉を視認すると、目線を合わせるようにしゃがんで、屈託のない笑顔を向けた。


「おはようございます」

「…………」

「朝食はもう召し上がりましたか?」


 何の変哲もない挨拶と質問。

 答えづらい場面でもないのに、なぜか言い淀んでしまった。


 威圧感があるとか、険悪な態度をとられているとか、そんなことは全くなくて。

 むしろ逆だった。

 彼女の心があまりに無防備で、他者と距離を取ろうとする素振りが一切ないのだ。


 純粋に、夕莉と会話をしようとしている。

 当たり前のことかもしれない。

 けれど、猫をかぶった他人の外面しか知らない夕莉にとって、女性の真っ直ぐさは戸惑うほどだった。


 ただ、だからといって拒絶したいかと聞かれたら、そんな気持ちはないと断言できる。


 この人は、話してもいい人だ。

 自分の話を聞いてくれる人だ。

 そう直感した夕莉は、首を横に振りながらぼそっと答えを返した。


「……食欲がないの」


 女性と視線を合わせる。

 相変わらずニコニコと笑っていたけれど、夕莉の返事を聞いて僅かに目を見開いた。


 その直後、空気を壊すようにお腹がぐぅと小さく鳴った。


「…………」


 食欲がなくて食べていない、というのは嘘だった。


 昨夜に前任の使用人が作り置きしてくれたサンドイッチがあるのは知っている。

 もちろん、朝にそれを食べようとしたけれど、とある理由で手を付けなかった。


 実は空腹のせいで、あまり勉強に集中できていなかったのだ。


「……食べられないものが、入ってた」

「食べられないもの?」


 しまったと口を押さえるが、もう遅い。

 この発言は、自分から白状したようなものだった。


 好き嫌いはしてはいけないと、専属のマナー講師に口酸っぱく言われている。

 もしこの女性が告げ口でもすれば、次のレッスンでこっ酷く怒られる。


 青ざめた顔で必死に言い訳を考えていたら、女性が笑顔のまま優しく尋ねてきた。


「差し支えなければ、それが何なのか教えていただけませんか?」

「…………」

「大丈夫ですよ。これは私とお嬢様だけの秘密なので、絶対に口外したりしません」

「………………にんじん」


 またしても口を滑らせてしまった。

 不思議だ。誘導されているわけではないのに、つい正直な言葉が出てしまう。


 おずおずと女性の顔色を確認してみると、何かを考えるように顎に手を当てていた。


「なるほど……申し訳ありませんでした。すぐに作り直しますので、ぜひ一緒にお食事しましょう」

「一緒に?」

「はい。実は私もまだ朝食を食べていないので、お腹が空いているのです」


 女性は苦笑しながら、お腹を摩った。


 家で誰かと食卓を囲むのは、何年振りだろうか。

 一人に慣れてしまったから、同じテーブルに誰かがいるのを想像するだけで落ち着かない気持ちになる。


 ――でも、悪くないと思った。

 いくら慣れたと言っても、一人がいいわけではない。

 本当はずっと、寂しかった。

 だから、一緒に食べようと言ってくれたことが嬉しくて。


 心がくすぐったくなる感覚を覚えながら、夕莉はゆっくりと頷いた。


「では、早速作りましょうか。――申し遅れました。私は、杏華と申します」


 女性は夕莉の反応を見て、嬉しそうに顔を綻ばせた。




 杏華が神坂家の使用人として雇われてから、数ヶ月が経った。

 気付けば、彼女が家事をしに訪ねてくるのを待ち遠しく思うようになって、家に帰るのが楽しみになっていた。


 学校でこんなことがあったと何気ない日常を話したり、家庭教師が厳しすぎるとこっそり愚痴をこぼしたり。

 そんな普通の話を笑顔で聞いてくれる杏華と一緒に過ごすのが、夕莉にとっての安らぎだった。


 とある日の放課後。

 授業が終わっていの一番に帰宅した夕莉は、急いで鞄を自室に放って、制服のままキッチンに立った。

 汚れないように、きちんとエプロンを着用して。


 今日は特別な日だ。

 だから杏華がやって来る前に、どうしても用意しておきたいものがあった。


 大きな冷蔵庫からいくつか食材を取り出して、必要な調味料を作業台に並べる。


 本格的な料理をするのは初めてだった。

 いつもは使用人が家事を全てこなしてくれるため、キッチンに立つことはほとんどない。


 けれど、この日のためにレシピの確認をしたり、包丁の使い方を一から学んだりした。

 何度もシミュレーションして、完成までの段取りを完璧に頭に入れてある。


 落ち着いて作業すれば、失敗することはない。

 そう言い聞かせて、まずは玉ねぎから切り始めることにした。

 玉ねぎは目にしみるから、先に電子レンジで30秒ほど温める。

 そうすると、包丁を入れても目は痛くならなかった。


 慎重に、できるだけ細かく切っていく。


 出だしは順調かと思われた。

 しかし、玄関から響いた不意の音に、動揺して手元が狂ってしまった。


 杏華が来る時間にしてはまだ早い。

 これでは、サプライズが台無しになってしまう。

 どうするべきかと焦ってふと視線を落とすと、左手の指から血が出ていた。


「お嬢様……!?」


 キッチンに現れた杏華が、夕莉の様子を見て血相を変える。

 メイド服のポケットからハンカチを取り出して、すぐさま夕莉の出血している指を圧迫した。


 応急処置を施しながら、杏華は険しい表情で問い質す。


「お一人で包丁を扱うのは危険です。なぜ勝手に使われたのですか?」

「……ごめんなさい」

「理由を伺ったのですが、言えない事情でもあるのですか?」

「……その……今日は、杏華の誕生日だから。いつも家事をしてくれて……話し相手にもなってくれるお礼に、オムライスを作ってあげたかった」


 滅多に見せない杏華の怒った表情に萎縮しながら、計画していたことを素直に明かした。


 せっかく前々から考えていたのに呆気なくバラした挙げ句、喜ばせたかった杏華を怒らせてしまった。

 踏んだり蹴ったりで酷く落ち込む夕莉の頭に、そっと手が置かれる。


「……大事に至らなくて良かったです。これくらいの傷でしたら、すぐに止血できますよ」


 先ほどまでの厳しい雰囲気とは打って変わって、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。


 失望されたと思った。

 周りから期待されるのは、何事においても常に完璧であることだけだったから。


 こんな失態を晒したら、杏華も悲観的な目で見てくるのではないかと恐れていたのに。


「杏華は……どうしてわたしに優しくしてくれるの?」

「夕莉お嬢様が大切だからですよ」


 考える間もなく、即答した。

 あまりに淀みのない答えに、夕莉は思わず目を丸くする。

 徐々に言葉の意味を理解し始めて、胸の奥がじんわりと熱くなった。


 今まで、本気で叱ってくれる人はいなかった。

 怒られたことはあっても、理性的に諭されたことはない。それは、怒る大人が夕莉に対して無関心だったから。


 やっぱり、杏華は他の人とは違う。


「それに、ちょうどお嬢様くらいの年の妹がおりまして……貴女を見ていると、つい気に掛けたくなってしまうんです」


 そう言いながら頭を優しく撫でる杏華の手が温かくて。

 知らぬ間に涙が浮かんでいた。


 叱られたことに傷付いたのではない。

 誕生日のサプライズが駄目になったことは、確かに残念だけれど。

 自分のことをそんな風に思ってくれる人がいたんだと、胸を打たれたのだ。


 ぽろっと流れた涙を指で拭ってあげてから、杏華は夕莉の顔を覗き込んだ。


「私などのために……ありがとうございます。せっかくですから、改めて作ってくださいますか?」

「……! うん……!」


 流したばかりの涙が引いていく。

 杏華の笑顔を見ると、元気になれた。




 学年首位の成績を収めて小学校を卒業した夕莉は、無事中学校へ進学した。


 エスカレーター式の一貫校であるため、周りは顔見知りが多かったが、中学から入学してくる外部生もそれなりにいた。


 仕事を優先した父親は、卒業式にも入学式にも参加しなかったけれど、特段残念に思うことはなかった。

 代わりに杏華が来てくれたから。


 中学生になって、環境が少しだけ変わった。と言っても、夕莉自身に変化があったわけではなく。

 杏華が神坂邸に住み込みで働くことになった。


 父親が海外に仕事の拠点を移すことになり、子どもを一人にさせるわけにはいかないと杏華が申し出た。

 今は彼女が、保護者代理のような役割も担っている。


 いつ何時も家に杏華がいてくれる日常に嬉しさを感じながら、反面、学校では昔とは明らかに違う異変を覚えていた。


 夕莉を見る周囲の目に、邪な下心が潜んでいるのを感じ取るようになったのだ。

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