第85話 追憶(1)


  * * *



 家にいる時は元々自室で過ごすことが多かったけれど、ここ最近はさらに引きこもるようになった。


 誰かと一緒にいれば、多少は気が紛れるのかもしれない。

 それでも、一人になりたかった。

 心の中を整理する時間が欲しくて。


 諦めなければいけない。

 叶わない希望を抱き続けても、ただ苦しくなるだけで。

 表面上の関係だと割り切っていたあの頃の自分に戻りたい。


 どうすればこの気持ちは消えてくれるのか――それだけをずっと考えていた。

 だけど、いくら考えても答えは見つからない。


 むしろ消したいと思うほど、反発するように強くなっていく。

 奏向を諦められない気持ちが。


 そう簡単に心は変わってくれない。

 奏向と毎日顔を合わせなければならないせいで、想いが揺らいでしまう。


 手っ取り早く解決するには、彼女を解雇すればいい。

 徹底的に避けて、視界にも入れず声も聞かないようにして存在を感じさせないようにしてしまえば、いずれ関心は薄れていくはずだ。


 "もう来なくていい"と、たった一言宣告するだけで楽になれる。

 それなのに、その一言が言えない。

 離れたいのに、関係を断つことができない。


 本来なら、ルールを破った時点で解雇しなければならないにもかかわらず、この期に及んでまだ奏向を傍に置いている。

 その理由を、夕莉はわかっていた。

 だからこそ、簡単に切り捨てられない。


 ルールを一つでも破れば、問答無用で解雇する。始めはそのつもりだった。

 所詮は契約上の関係なのだから、規則を守れないのであれば雇い続ける意味がないと、そう思っていたのに。


 奏向を辞めさせれば、どうなってしまうかを知っている。


 彼女が付き人を引き受けてくれた根本の理由は、学費や生活費を稼ぐため。

 その手段がなくなればきっと、彼女は今度こそ学院を退学してしまうだろう。


 奏向を窮地に立たせるような状況へ追い込むのが、自分でありたくないと思ってしまったのだ。

 それほどまでに、奏向に対して情が移っていた。


 ――苦しい。

 離したいのに、離せない。


 さっさと見捨てればいいのに、奏向を困らせたくなくて情けをかけてしまう。

 その葛藤こそが、奏向へ向けている想いが何よりも特別であることの証だった。


 本当に心の底から関係を断ち切りたいと思っているのであれば、とっくに容赦なく解雇している。


 それができないから、自分の不安定な心を守るために、奏向を無視するという手段を取らざるを得なくなったのだ。


 未だに好きで堪らない相手のことを無理に諦めようとするのが、こんなにも辛いことだとは思わなかった。


 心のどこかで、願ってしまう。

 奏向も同じ気持ちだったら、どれほど良かったか。


 いっそ告白してしまおうか。

 そんなことも考えたが、自分でルールを提示しておきながら、自らそれを覆すような行動を取ることは許されない。


 何より――怖い。

 奏向の本当の気持ちを知るのが。


 これまで夕莉のしてきた誘惑を奏向が拒絶しなかったのは、付き人という逆らえない立場にあったからなのだろう。


 もし主従関係を取っ払って、付き人ではない立場としての奏向に同じことをしても、変わらず受け入れてくれるだろうか。


 もし"好き"という気持ちを伝えられたとしても、その想いが彼女にとって重荷になってしまったら――。


 そんなことばかりを考えている間にも、何一つ気持ちの整理がつかないまま、ただ時間だけが過ぎていく。


 明日からまた月曜日を迎えて、感情を無理やり押し殺さなければならない日々を繰り返す。


 自室のソファーで膝を抱え丸くなっていた夕莉は、じっとすることに耐え切れず、おもむろに立ち上がった。



 家を出て導かれるように向かった先は、自然に囲まれたお気に入りの広場だった。


 何となく外の空気を吸いたい、ストレスを発散したい、全てを忘れて解放されたい。

 そんな時に、この広場を散歩したり、ベンチで本を読んだり、自然を眺めたりしていた。


 夕莉にとってここは安息の場所であり、そして――奏向と出会った特別な場所だった。


 高校二年生に進級する前の春。

 付き人を雇うと決めたきっかけの出来事が起こる以前に、夕莉は奏向と顔を合わせていた。


 再会したいとは思っていた。

 とある騒動が起こった後、忽然と姿を消した彼女の安否が知りたかった。

 そして、お礼を伝えたかったのだ。


 あれからおよそ二年半の時を経て、再び相見あいまみえることになったものの、肝心の彼女は覚えていないようだったけれど。


 もし、奏向と再会しなければ、また付き人を雇おうとは思わなかっただろう。

 これまで通り一人で登下校して、杏華が身の回りの世話を全てこなして、無感情にただ生きるだけの日々を送る。


 もしかしたら、その方がまだ幸せだったのかもしれない。


 奏向と再会しなければ、"恋"という感情を知ることも、それがどんなに心を苦しめるかを身をもって痛感することもなかったはずだ。


 あの時助けてくれた少女が、"二色奏向"だと知った日。

 彼女が夕莉のことを覚えていないのならば、無事が確認できただけで満足すれば良かったものを。


 密かな恩返しとして、付き人という対価を与えたりしなければこんなことには――。


 けれどあの時、奏向と出会わなければ、今こうして生きていることすら叶わなかったかもしれない。


 付き人である以前に、彼女は命の恩人で、生きる希望を失っていた夕莉に差し伸べられた、一筋の光だったから。


 俯きながら歩いていたら、いつも座っているベンチに辿り着いた。

 腰を下ろし、嘆声のような息を漏らす。


 今さら過去の自分の行いを悔いたところで、奏向に対する気持ちが変わるわけではないけれど。

 それでも、あらゆる可能性を考えずにはいられなかった。


 頑なに心を閉ざしていれば、関係が拗れることはなかったのだろうか。


 もっと、根本的な原因として。

 人を好きになることがどういうことなのか、その感情がもっと早い時期に芽生えていれば、ここまで苦しまずに済んだのではないだろうか、と――。



   ◇



 幼い頃から、何不自由ない生活を送ってきた。


 家系は国内屈指を誇る財閥の創業家で、祖父は神坂グループの中核を担う商社の会長、父は同社の社長。


 各方面で多大な影響力を持つ企業を代々経営している、超富裕層の名家で生まれ育った箱入り娘。

 それが、神坂夕莉の出自だった。


 現社長の嫡女として生まれた夕莉は、将来会社を継ぐに足る素養を身につけるために、幼少期から英才教育を施されてきた。


 専属の家庭教師を雇い、朝から晩まで勉強漬けの毎日。

 社交で手本になるためのマナーや作法を学び、感性を磨くためあらゆる芸事を習得する。


 名門大学附属の幼稚園、小学校に通い、同じような境遇の子どもたちとコネクションを築く。

 学舎は社会の縮図だと教えられてきた。

 だから学校での振る舞いには、いかなる時も合理的な言動を意識した。


 しつけは厳しかったけれど、欲しいものは何でも手に入ったし、興味のある物事はどんなことでも経験させてもらえた。


 一般の家庭に比べれば、間違いなく贅沢な環境で暮らしている、そんな中で。

 ただ一つだけ、与えられなかったものがある。


 それは、親の愛情だった。


 物心ついた頃には、母親はいなかった。

 夕莉を産んですぐに、精神的なわだかまりが原因で離婚したようだ。


 形式的には父親に親権があるものの、親らしいことをしてくれた記憶は一切なかった。


 父はいわゆる仕事人間で、家庭を顧みない人だった。


 家事や子どもの教育は全て外部任せ。

 何よりも仕事の都合を優先し、家にいることはほとんどない。


 稀に帰ってきたとしても、顔を合わせることも言葉を交わすこともしない。

 勇気を出して話しかけても、適当にあしらわれるか無視される。

 父親から何かを伝達される時は、使用人を介していた。


 食事をするのは常に一人で、学校から帰ってから寝る時までもずっと一人。


 学業を指導する家庭教師や、代行で家事を行う使用人など、雇い人は何人かいた。

 しかし、皆事務的な対応ばかりで、一線を引かれた冷淡な態度で扱われる。


 夕莉と気さくに接してくれる大人も、遠慮なく心を打ち明けられる大人も、周りに誰一人としていなかった。


 それだけではない。

 通っている小学校の中でも、居心地の悪さを感じていた。


 幼いながらに社交術を身につけていたためコミュニケーションをとるのは得意で、人と打ち解けるのが早かった。


 そのおかげか、自然とよく周りに人が集まってくることが多かったけれど、彼らを友達と呼べるかは些か疑問だった。


 彼らが夕莉に対して口にするのは、機嫌を伺いながら容姿や家柄を褒めることばかり。


 僅か10歳にも満たない子どもが、自分の意思でお世辞を言うとは考えにくい。

 親から入れ知恵でもされて、良好な関係を築くようにとでも指示されたのか。

 そんな推測が頭を過った。


 ただ純粋に、身分も家柄も関係なく気楽に話せる友達が欲しかっただけなのに。


 彼らは夕莉のことを、"崇高な神坂家のご令嬢"としか見ていない。

 だから、関係は築くけれど一定の距離は保ち、こちらから歩み寄れば恐れ多いと敬遠される。


 輪の中心にいるようで蚊帳の外。

 仲良くなったようで、実は呆気なく崩れる上辺だけの薄い関係しか築けていない。

 本当の友達だと認められる同級生すら、夕莉にはいなかったのだ。


 自分の居場所はどこにもない。

 心から頼れる家族も友達もいない。

 そんな孤独を感じていた時だった。


 ある一人の女性が、神坂家の使用人として雇われてきたのは。

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