第84話 わからない

 杏華さんのもとへ歩み寄る。

 お店で買い物をしたのだろう。手には紙袋を持っていた。

 喫茶店以外の場所で会うのは、意外と珍しかったりする。


 相変わらずのメイド服で、仕事の休憩中なのか、頼まれて外出しているのかは判断がつかない。


「アルバイトの帰りですか?」

「はい。えっと……杏華さんは?」

「実は、個人的にこちらの洋菓子を気に入っておりまして。月に一度、自分へのご褒美に好きなだけ購入しているんです」


 少しだけ照れ臭そうにはにかんで、お店のロゴが入ったオレンジ色のおしゃれな紙袋を見せてくれた。


 好きなだけという割には、袋が小さめだった。

 謙虚というか……物欲が控えめなのかもしれない。


「よろしければ、お一つどうぞ」

「あ……ありがとうございます」


 何の迷いもなく袋からお菓子を取り出して。

 手渡されたのは、貝殻の形をしたマドレーヌだった。


 自分のご褒美として買ったものをお裾分けしてもらうのは申し訳ないと思いつつ、せっかく差し出されたものを突き返すのも失礼だし。

 一瞬躊躇いながらも、頂くことにした。


 店長からもらったお菓子といい、今日は食べ物に恵まれている。


「……浮かないお顔をされていますね。お気に召しませんでしたか?」

「いえっ、そういうわけではなくて……」

「それでは、こちらのクッキーも差し上げます」

「え、いや……いいんですか?」

「はい、もちろん」


 心配そうに眉尻を下げたかと思えば、困っている私を見て笑顔を向ける。

 表情がコロコロ変わって、どこか楽しそうに見えるのは気のせいだろうか。


 受け取った二つのお菓子を見て、嬉しさよりも恐れ多い気持ちの方が上回ってしまう。


「なんか……すみません。偶然会っただけでこんなに頂いてしまって……」

「偶然――ではないような気もしますけれど」

「……?」


 独り言のように呟いた言葉は、どこか意味深で。

 言及しようか悩んでいるうちに、彼女が一瞬だけ見せた真面目な表情はどこかへ消えていた。


「元気がないように見えたので、ついお菓子を分け与えたくなってしまいました」

「……私のこと、子どもか何かだと思ってます?」

「恐れながら、私から見ればまだ可愛い子どもです」


 そりゃそうだよな……。

 杏華さんの具体的な年齢は知らないけれど、明らかに成人は超えている。

 おそらく二十代半ばくらいだろうか。

 仮に数年しか歳が違わなくても、精神年齢は実年齢より高いと思う。


 ただ落ち着きがあって頼れるだけじゃなく、感情の機微を読み取る洞察力もある。

 彼女の方がよっぽど大人なのは言うまでもない。


「奏向さん。せっかくですし、差し支えなければ今から少しだけお話しませんか」

「お話……?」

「ええ、お菓子でも食べながら」


 そう言って、紙袋に目を移しながら優しく微笑む。

 特に断る理由もなかったから、二つ返事で了承した。



 辿り着いた先は、夕莉の家から徒歩約十分圏内にある広場。

 実は、アルバイト先の喫茶店はこの近くにある。

 杏華さんがよくお店に来てくれるのは、近場だったからという理由もあるのかもしれない。


 そして――夕莉と初めて出会った場所。


 あの時は確か、夕莉が木に引っ掛かったフリスビーを取ろうとして登ったけど、降りられなくなったんだっけ。


 それで私が飛び降りるように促したけど、夕莉を抱きかかえた瞬間にバランスを崩し、倒れて盛大に頭を打ったと。

 ……今思い返してもダサすぎる。


 本気で学院を退学しようと決意したのがちょうどその三月で、あれからもう半年が経ったんだ。


 学費が払えなくなって何もかも諦めようとしたあの時は、今こんな状況になるとは予想だにしなかった。

 時給1万円のアルバイトを杏華さんから紹介してもらったのもそうだけど、まさかその雇い主を好きになるなんて。


 追想にふけながら、二人で適当なベンチに腰を下ろす。


 夕方で日が暮れ始めている空は、水晶のように透き通った紺色だった。

 オレンジ色に染まる夕焼けを侵食していき、綺麗なグラデーションが秋の空を彩っている。

 鮮やかでどこか切なくて、幻想的だった。


 しばらく見入っていると、隣に座る杏華さんがそっと口火を切った。


「この広場、お嬢様が数年前から休日に度々訪れている場所なんです。広大で自然が美しくて……とても安らげる場所ですよね」


 そう言って、紙袋からマドレーヌを一つ取り出した。


 ここにテーブルと紅茶でもあれば、夕空の景色と相まって最高の構図が出来上がるのにと、杏華さんの整った姿勢と横顔を見ながら考えてしまった。


 確かに、この広場はすごく落ち着ける場所だ。


 緑豊かな芝生があって、子どもが広々と遊べるのはもちろん、大勢でピクニックなんかも楽しめる。

 少し離れたところには噴水もあって、夏になると親子が戯れている光景を目にする。


「中学生の頃、私もよくここに自転車で来てました。高校に入ってからも、バイト前の時間潰しとか、たまに気分転換で寄ったりしてます」

「そうでしたか。であれば、もしかしたらお嬢様と出会う以前より、すでにこの場所のどこかですれ違っていたかもしれませんね」


 そう、かもしれない。

 夕莉もこの広場に来ていたのなら。

 そう思うと、巡り合わせのような奇跡を感じる。


 彼女のことを思い出したら、無意識のうちに気にかけていることが口をついて出た。


「最近の夕莉は……家ではどんな感じなんですか」


 我ながら質問の内容が抽象的だと思う。

 それでも、杏華さんは困った顔をすることもなく、本当にただ雑談を楽しむような気軽さで答えてくれる。


「最近、ですか。そうですね……特にこれといって変化があるわけではないのですが……強いて挙げるなら、口数が減ったとは感じます。と言っても、奏向さんもご存知の通り、お嬢様は元々多弁な方ではないのですけれど」


 小さく苦笑して、マドレーヌを一口かじった。

 やっぱり、杏華さんは夕莉の異変に気付いている。気付かないわけがないんだ。


 あの日から、夕莉との会話がほぼなくなった。

 言葉を交わすのは、朝の「おはよう」と、帰りの「お疲れ様」だけ。

 それすらたまに無視されることもある。


 私から切り出していた雑談も、徐々に話すことがなくなって、今ではお互い無言のまま。


 未だに契約は続いているから、登下校する時は一緒だし、家まで送り届けた後も終業時間までは杏華さんのお手伝いや雑用をしている。

 ただ、その間はずっと自室にこもって、顔を合わせることがない。


 夕莉が私を完全に避けていることは、もはや疑いの余地がなかった。


「あの子、よく奏向さんのお話をされるんです。放課後、図書室で一緒に勉強したとか、珍しいお菓子をもらったとか、虫に驚いたら揶揄われたとか。奏向さんがお弁当を作ってくださった日などは、とても喜んでいらっしゃいましたよ」

「そうだったんだ……」


 素直に嬉しいと思った。

 同時に、少し照れ臭くもある。

 誰かとこんなことがあったと他の人に話すのは、少なくともその出来事が印象に残っているからだと思うから。


「けれど、ここ最近はめっきり話題に出さなくなってしまって。俗に言う思春期、なのでしょうか」


 だからこそ、心が痛い。

 私の軽率な言動が、夕莉を傷付けることになってしまって。


 抑えるべきだったのに、好きという気持ちに抗えずしてしまったキスも、正しいと信じて口にした『大切な雇い主』という言葉も。

 全て、間違いだった。


 ニコニコと微笑んでいた杏華さんの表情に、ほんの少し悲しみの色が浮かんだように見えて。


「……私のせいです」


 堪らず、自供した。


「付き人のルールを、破りました」


 僅かに、沈黙が流れる。

 正面を向いていても、杏華さんが私の顔をじっと見ているのがわかる。


 一瞬で重くなってしまった空気を打ち破るように、自虐気味に苦笑しながら付け加えた。


「だから、クビになるのも時間の問題かもしれないですね」


 胸の痛みを誤魔化すように、杏華さんからもらったクッキーを慌てて頬張る。

 ……美味しい。もっと味わいながら食べればよかったと後悔した。

 クッキーを飲み込んで、口元を拭う。


 俯く私を、杏華さんはまだ黙って見つめていた。

 話してほしいと直接促されているわけではないのに、不思議と自ら話したくなってしまう。


 けれど、それは決して気分の悪いものではなくて、むしろ心が軽くなるような気がするのだ。

 胸の奥底に抱え込んでいたものが、解放されるような感覚がして。


 ぽつりと、思いを吐露する。


「……最初は、お金のために付き人のアルバイトを引き受けました。いくら雇い主が同じ学院の同級生でも、あくまで雇用関係でしかないから必要以上に仲良くするつもりはなかったし、ましてや特別な感情を抱くなんてありえないって、思ってました。でも……」


 どれほど隠さなければいけないと思っていても、夕莉のことを考えると気持ちが溢れてくる。

 こうやって言葉にすると、なおさら。

 俯きながら、ぎゅっと拳を握り締める。


「夕莉と過ごす中で、いろんな一面を見せてくれるようになって。もっと笑顔が見たいと、傍にいたいと、いつの間にかどんどん惹かれて……気付いたら、夕莉のことを――」


 好きになっていた。

 許されないとわかっていながら、自覚してしまった。


 辛いのは、ルールを破らないために"好き"という気持ちを押し殺すことだけではない。


「……わからないんです。夕莉の気持ちが。あんなルールを作るくらいだから、好意を向けられたくないのかなとも思いました。だけど、夕莉は私に気があるような行動をとるし、体に触れても拒絶しない。だからもしかしたら、私の想いは許されるものなんじゃないかと、一瞬でも……期待を抱いてしまった」


 夕莉の、私への想いは一体何なのか。

 それが曖昧なままだから、今の彼女とどう接すればいいのかもわからない。


「でも、本当の気持ちを伝えるなんてできない。まだ契約が有効なら……これ以上ルールを破ってクビになるわけにはいかないんです。夕莉の隣にいたいのはもちろんですけど、今の居場所を失ったら私は……学院に通えなくなる」


 これが、一番の理由だった。


 そもそもの発端として、高時給であることに惹かれたのは、学費を稼ぐためと生活費を少しでも賄うため、という大きな目的がある。


 付き人をクビになったら、退学を考えていたあの頃に逆戻りしてしまう。

 せっかく学費を工面できる手立てが見つかったのに、それがなくなってしまったら私の高校生活が終わる。


 私は、夕莉に正直な気持ちを伝えるよりも、自分が退学にならない道を選んだ。


「……本当に、誠実ですね。改めて、お嬢様の付き人を奏向さんにお任せして良かったと、心から思います」


 最後まで私の話を聞く杏華さんの表情は真剣で、それでも温かさがあった。

 慰めるような口調から感じる優しさが、今は苦しい。


 いっそ責めてくれたらよかった。

 どんな理由があっても、ルールを破ったお前が悪いと。

 そうすれば、この苦しみを潔く受け入れられるのに。


「退学になりたくないから保身に走ったんですよ? 誠実なんかじゃないです」

「奏向さん。貴女は何も間違っていませんよ。なので、ご自分を責めたりしないでください。誰かを想う気持ちも、夢を諦めない気持ちも、どちらも尊重するべきです。……しかし、だからこそ苦しくなるのでしょうね」


 慈しむような眼差しを向けながら、杏華さんは私の頭をそっと撫でた。


「お二人を縛りつけているものが何なのかはわかります。『付き人の六ヶ条』――これは、以前からあったわけではないのです。奏向さんがお嬢様の付き人を引き受けてくださる前、その職に就いていた前任者がおりましたが、その際はルールなどありませんでした」


 すぐさま核心を突く頭の回転の速さにも感心したけれど。

 何より、ルールが元からあったものではないことに驚いた。


 ということは、私が付き人になる時に新しく作られたもの……?

 一体どんな理由があって……。


 そんな疑問を見透かしたかのように、杏華さんが目を細めながら話し始めた。


「この規則が作られた経緯を、奏向さんにも知っていただいた方が良いかもしれませんね」

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