第83話 苦心
土日にしかシフトを入れない喫茶店のアルバイトが、こんなにも心落ち着ける場所になるとは思いもしなかった。
いくつもバイトを経験していると、どれか一つは「やっぱここ楽だなー」と思うバイト先がある。
で、比較的長く続いているここの喫茶店が、今まさにそう感じる場所になっていて。
いつも同じ作業をしているから、マンネリ化するのは当然のことだし仕方ないけれど。
むしろ、逆にそれがいいというか。
何も考えずに無心でやれるから、余計な雑念に邪魔されずに済むというか……。
公私をしっかり分けている人が多いから、人間関係も良い意味であっさりしていて気が楽だし。
強いて不満な点を挙げるとするなら、店長が時たまちょっかいを出してくることくらいか。
ただ、"まかない"と称して毎週お菓子をくれるところだけはありがたいと思っている。
ティータイム前の、比較的客足がまばらな時間帯。
店長からもらったお菓子、もとい栄養機能食品で小腹を満たしつつ、狭いバックヤードの隅っこで休憩していた。
が、正直言って休まらない。
一人になる時間を強要されるくらいなら、ぶっ通しで働かされた方がまだマシだった。
今私を最も悩ませている問題について、嫌でも考えてしまうから。
逃げてはダメだということはわかっている。
現状を打開できる手立てはないか、あれからずっと考えていた。
また夕莉が笑顔を見せてくれるかはわからないし、元のような関係性に戻れる保証もないけれど。
なんとなく、私がやるべきことはこれしかないんだろうなという結論は一応出ていて。
だけど、まだそれを行動に移せる段階ではなかった。
一人でいるのをいいことに、それはもう盛大なため息を吐く。
壁に寄りかかってまぶたを閉じようとした時、スマホの振動する音が聞こえた。
……私のカバンの中からだ。
のっそりとカバンに手を伸ばして、スマホを取り出す。
発信元の名前を見た瞬間、急激に頭が痛くなった。
しかも気分が落ち込んでいる時に……。
今回ばかりは出る気になれず、音が鳴り止むまで放置しておくことにした。
しかし、いくら経っても向こうから切ってくれそうな気配がない。
仕方なくカバンからスマホを取り出し、速攻で拒否ボタンを押す。
その僅か数秒後、再び陽生から電話がかかってきた。
舌打ちが出そうになるのを堪えて、再度拒否。
けれど、またしても着信が。
攻防の末、七回目にしてとうとう折れた。私の我慢の角が。
乱暴に応答ボタンを押す。
『切っちゃだめだよー』
すると、呑気な声が耳に響いた。
幼児を注意するような口調で諭され、スマホを全力で投げつけたい衝動に駆られるが、歯を食い縛ってどうにか耐える。
「……バイトの休憩中にまで電話かけてこないでくんない?」
『むしろ休憩中だからこそかけてるの。自由時間だったら構ってくれるもんね。タイミングを見計らうのは当然の配慮だよ』
「こわ。なんで私の休憩時間把握してんの」
『ん? カナのことなら何でもわかる。例えば──寝る時は絶対に右向きとか、服を脱ぐのは下からとか、起きたら一番最初にベランダの観葉植物に話しかけるのが日課とか。一日に最低十分は空を見てぼーっとする時間を作ってたり、集中しすぎると強面になることを本当は気にしてたり。和食好きのくせに朝はパン派、だけど最近はご飯にハマってるでしょ。それから――』
「あーもういい! そんなことまで訊いてない」
恐ろしい。今言われたことは何一つ陽生に話していないのに。
知ってて当たり前ですけど、みたいな得意気なテンションが今さらながら鼻につく。
まぁ……昔からの腐れ縁だし、私のそういう癖を知る機会はたくさんあったのかもしれないけれど。
にしても、咄嗟にそこまで出てくるもんかね。
「何なのあんた……てか、タイミングわかるならいい加減夜中に電話すんのやめて。"当然の配慮"、ちゃんとしてよ」
『夜は別。それに、文句言ってても結局出てくれるよね?』
「もう本気で着拒するから」
『やだっ、カナに無視されたら生きていけない。わたしの声が一生聞けなくなってもいいの?』
「ほんとめんどくさいな……」
こういう時の"構って"はさすがにイラつく。
心の底から鬱陶しいと思っているのに、それでもなお相手にしてしまうのはもはや呪いと言ってもいい。
いつもそうだけど、今回も適当に相槌打って終わらせるか……。
『カナ……最近元気ない』
――と思っていたら、陽生にしては落ち着いたトーンで、突然切り出してきた。
内心ギクリとする。
私としてはいつも通り接していたつもりだったけど、声だけで察してしまったようだ。
事情が事情なだけに言及されると面倒だし、なるべくその話題は広げたくない。
「そんなことないけど」
至って普通であることを装うが、
『ううん。それ、嘘ついてる時の声』
「…………」
一瞬で虚勢を見破られた。
観念してため息を吐く。
一度気付かれてしまったら、どれだけ誤魔化しても嘘は通用しないとわかっているから。
かと言って正直に何があったかを話すのは、いくら陽生相手でも気が引ける。
「まぁ、ちょっと……最近全然寝れてなくて」
寝つきが悪くなっているのは事実だ。
一時だって、頭から追いやることなんてできない――夕莉のことを。
『寝れてないって……何か悩み事でもあるの? 体調不良? 無理しないでっていつも言ってるのに……もしかして、今やってるバイトで大変なことでも起きた?』
無駄に鋭いな……。
さすが、と言ってもいいのか、"私のことなら何でもわかる"というのは誇張ではないらしい。
ただ、原因の100%がそれというわけでもなく。
皮肉をたっぷり込めて、今までの不満をぶつけてやる。
「寝不足の原因は陽生にもあるんだけどねー」
『それはごめんだけど……無視してもいいんだよ?』
「無視したらしたで、さっきみたいに鬼電してくるでしょーが」
『それでも電源まで切らないのが、カナの優しさだよね』
「うっさい」
『あ、照れ隠しだ。かわいい』
「……〜っ!」
からかうような口振りに、いよいよ殺意が湧いてくる。
優しさなんかじゃない。
これは……そう、縛りみたいなものだ。
親のことを嫌っているけれど、家族という縁があるせいで切り離せないのと同じように。
どうやっても突き放すことができない――そういう関係だから。
嫌々でも電話をとってしまうのは、仕方なく、という理由が大半なのだ。
『で。今やってるのは喫茶店と、もう一つのバイトって確か、ご令嬢のお世話係……だよね。わたしは最初から反対だったんだよ。そんな――いかにも相手と間違いが起きそうなシチュエーション』
「いや、何の心配してんのよ」
『カナは天然たらしだから、心配なの!』
「ただのバイトって割り切ってんだから、間違いも何もあるわけないでしょ」
嘘だ。つい最近その間違いを起こしてしまったばかりに、今こうして思い悩んでいる。
『だってお世話係だよ? 今までそのお嬢様とやらにどんなお世話してきたの!? まさか、あんなことやこんなことまでっ……』
「変な意味で捉えないでくれる?」
……とは言ったものの、当たらずといえども遠からずな妄想に冷や汗が出そうになった。
興奮した陽生の声に、電話越しでも不機嫌になっているのが伝わる。
ただの護衛と雑用しかやっていないと前から説明していたのに、なぜか信じてもらえなかった。
陽生が案じているのは、つまり……そういうことで。
実はキスされたり同じベッドで寝たこともあるなんて知られたら、学校まで乗り込みに来そうで口が裂けても言えない。
『本当に、何もない?』
「ないってば」
『カナのばか。また嘘ついてる』
「……ほんとにないから。信じてよ」
『………………ばか』
「今度は何?」
『……言い方がずるい』
不貞腐れる子どものように、声が尻すぼみになっていく。
とにかく、信じてくれたかは定かではないけれど、これ以上しつこく突っ込まれることはなさそうだ。
『あーあ。カナをお世話係にできる"お嬢様"がわたしだったら良かったのになぁ』
心底悔しそうに本音を漏らしているところ悪いけど、いくら札束を積まれても御免だと思った。
陽生とはお金が絡む関係になりたくないし、何より、とんでもない命令でこき使われるのが目に見える。
不満を垂れるようにいろいろと下心全開な願望をこぼしていた陽生が、不意に「あっ」と声を上げた。
『……ごめん、もう仕事に戻らなきゃ』
「わかった。じゃあね」
『うん。……あのね、カナ――』
最後にいつもの言葉を告げて、電話は切れた。
よくも毎回あんなセリフを恥ずかし気もなく言えるもんだと、ある意味感心する。
けれど今だけは、その軽さを羨ましく思う。
私も夕莉にはっきりとそう伝えることができたら、ここまで事態が拗れることもなかったのだろうか。
そんな"もしも"を実現できたら、初めから苦労はしないけれど。
気持ちの問題だけじゃない。
簡単に決断できない、最も足枷となっている大きな理由があるから。
まだ、踏み出せない──。
夕暮れ時。
バイトが終わり、いつものように店長から"まかない"をもらってお店を後にする。
帰路につきながら、まかない──お菓子を見てふと思い出す。
これ、夕莉が気に入ってくれていたなと。
お菓子をあげて仲直り……なんて、幼児しか通用しないようなやり方でうまくいくわけないか。
そういえば、この前作ったブラウニーは食べてくれたかな……。
最近夕飯のメニューのリクエストがないけど、食欲とか大丈夫だろうか。
夜はしっかり眠れて――って、考え出したら止まらない。
本日何度目かのため息を吐きながら視線を上げた時、メイド服姿の見覚えのある人が、すぐ近くの洋菓子店から出てきた。
咄嗟に声をかける。
「……杏華さん?」
私の声に気付いた杏華さんが、足を止めてこっちに振り向く。
顔が合った瞬間、少しだけ目を見開いてから柔らかな笑みを浮かべた。
「こんばんは、奏向さん」
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