第82話 壊して(2)
※性的な表現が含まれます。
苦手な方はご注意ください。
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こんなこと、付き人の立場としては訊いちゃいけないんだと思う。
でも、確かめずにはいられなかった。
夕莉は私に対して、どんな感情を抱きながら今まで接していたのか。
二人きりの時だけ可愛い笑顔や甘えた姿を見せてくれるのは、純粋に私を信頼して、心を開いてくれた証なのだと思っていた。
けれど、いくら気を許してくれているといっても、雇用関係の相手に対する接し方にしては明らかに普通ではなかったから。
自惚れかもしれない。
だけど、私と出会ってから変わったと言ってくれた夕莉も、もしかしたら心境の変化があったのではないか、そう思ってしまう。だから。
「……期待しちゃうよ……夕莉も、私と……」
――同じ気持ちなんじゃないかって。
夕莉も私のことを好きでいてくれたら。
許されないのに、そんな身勝手な願望を抱いてしまうほど、私の中で彼女の存在が大きくなっていたんだ。
ただ、知りたい。
主人でも雇い主でもない一個人としての、夕莉の思いを――
「……思わせぶりな態度をとっているのは、奏向の方でしょ」
不意に。
俯いている夕莉が、責めるような口調で反論する。
想像もしていなかった声音に、思わず彼女の手首を押さえつけていた手が緩んだ。
静かな怒り――そんな感情が、吐き捨てられた言葉から垣間見える。
「あなたは、私のことを『大切な雇い主』だと言った。本当に……その言葉に嘘はない?」
前髪から私を覗く視線が、鋭く刺さる。
まさか、私のその発言を気にしていた……?
彼女が疑っている通り、それは本心ではない。
でも、間違った答えは出していないはずだ。
"特別な感情"を悟られないためにやむなくした偽装ではあるけれど。
本当の気持ちを隠して、嘘を肯定する。
ルールを守らなければならないから。
「嘘は……ない」
「……ッ! それならどうして……!」
完全に緩んだ私の拘束から解放された、その手で。
弱々しく、私の胸を叩いた。
拳は強く握り締めて。
「あの時私にキスしたの!?」
「……っ!」
夕莉が初めて、私の前で声を荒げた。
脳が揺さぶられる。
焦燥感や緊張感がどっと押し寄せ、金縛りにあったかのように体が硬直した。
指先を動かすことはおろか、瞬きすらまともにできない。
――気付かれていた。
ああ……やっぱり、私のせいだ。
「…………ごめ、ん」
「謝罪なんて聞きたくない!」
掠れた声を、剥き出しの感情が掻き消す。
「叶わないから……全部、手放そうとしたのにっ……! 消えてくれない……奏向への想いも、奏向との居場所も……! それどころか、日に日に大きくなってッ……」
夕莉の表情が見えない。
俯いているせいで。
ただ、怒りや苦しみ、悲しみが
そして、嗚咽を我慢するような声が微かに聞こえた。
「奏向が隣にいると……苦しい……」
消え入りそうな音吐で、震えている。
なんでよ……何で泣きそうになってんのよ……。
だったらあの時、どんな答えを出すのが正解だった?
夕莉は私にルールを守ってほしいんじゃないの?
それとも、私がキスをしなければこんなことにはならなかった?
どうして気付いていながら、すぐクビにしないの……?
わからない。
夕莉の気持ちも考えていることも、何もかも。
「……本当に、ごめん」
今さらあのキスをなかったことにはできないから。
ただ謝ることしかできなくて。
もう、自分でもよくわからなかった。
この謝罪は、ルールを破ったことに対してなのか、夕莉を苦しませてしまったことに対してなのか。
どちらにせよ、きちんと夕莉の目を見て言わなければならないのに、強い罪悪感に苛まれて視線を上げられない。
弱腰になった私に業を煮やしたのか、夕莉は私の胸から手を離して、冷たく告げた。
「悪いと思っているのなら、私の命令に従って」
そして今度は、自身のブラウスのボタンに手をかける。
一つずつそれを外していって。
あらわになったのは、透き通った白い素肌。
下には、胸を隠す下着以外何も着ていなかった。
ブラウスを半分脱いで肩を大胆に露出させると、しなだれかかるように体を密着させ、私の肩に手を置く。
「もう何も考えられなくなるくらい、私を壊して……じゃないと――」
悲しげな目で私を見つめたあと、ゆっくり顔を近付け、
「あなたを……諦めきれない」
耳元で、吐息混じりに囁いた。
耳の内側を撫で付ける刺激が、快感となって全身を駆ける。
――最低だ。
夕莉の声が、泣いているのに。
その言葉の意味もよく理解できず、理解しようともせず、私はたった今考えることを全て放棄した。
目の前で縋るように誘惑してくる彼女を、ただ一心に貪りたい。
そんな汚い情欲だけが、頭の中を埋め尽くす。
もう、我慢できない。
「っ……」
ブラウス越しに、左手で夕莉の脇腹を触る。
触れられた体がぴくっと反応したが、すぐに落ち着きを取り戻した。
ウエストのラインをなぞるように、ゆっくり上下に撫でていく。
最初は動きを小さく、徐々に触れる範囲を広げて。
背中、腰、臀部近くの際どい場所を優しく労わるように、じっくりと。
これだけで、夕莉の呼吸が段々と荒くなっていく。
私の肩に置いている手が、くしゃっと服を掴んだ。
空いている右手で頬を包み、顔を上げさせる。
夕莉と、視線が交わった。
潤んだ瞳は煽情的で、しかし悲しみを孕んでいることも確かで。
堪えなければいけない、けれど苦しくて仕方がない。
そんな苦悩や悲痛な気持ちが痛いほど伝わってくる。
知りたかった。
助けたかった。
力になりたかった。
でも、夕莉にそんな目をさせてしまっているのは、他でもない私で。
どうすれば、また笑顔を見せてくれるのか。
ずっと考えていたけれど、夕莉が感情を剥き出しにして思いをぶつけてくれた今でも、答えが見つからない。
彼女に尽くすことが、せめてもの贖罪になるのなら。
彼女の望みを叶えることで、少しでも心の傷が癒えてくれるのなら。
今の私にはもう、こうすることしかできない。
しばらく見つめ合う。
求めるような眼差しに吸い込まれるように。
顔を傾け、頬にキスをした。
唇が肌に吸い付く。
気持ちいい弾力――もっと、味わいたい。
頬に何度か啄むようなキスを落として、少しずつ、口付けする場所を下へ移していく。
顎のライン、そして首筋へ。
右手で彼女のうなじを押さえながら、匂いや感触を堪能するように唇を押し当てる。
頬にしたソフトなキスとは対照的に、首筋には深く濃厚な接吻を。
「んっ……」
耳裏近くの首筋に口を押し当てたところで、夕莉が小さく声を漏らした。
――ここが、感じる場所なんだ。
くすぐられる嗜虐心。
腰をさらに抱き寄せてから、集中的にそこへ刺激を与える。
深くかぶりついて舌先で執拗に舐めたり、跡がつかない程度に肌を吸ったり。
その度に、夕莉の体が反応して小さく震える。
刺激に耐えるように、私を抱き締める腕に力がこもった。
「かな、た……っ」
快感に溺れているような艶めかしい声で、私の名前を呼ぶ。
普段は冷静で毅然としている夕莉の、余裕のない声。
柔らかな唇が、私の耳に触れて。
「お願い……全部壊れるまで――激しく、して」
その挑発は、情欲を乱す魔性の囁きだった。
そんな風に求められたら、おかしくなる。
体中に電流が走ったような衝撃と、淫らな欲望に駆られて。
何も考えず反射的に動いた腕は、夕莉の体を抱きかかえていた。
そのままベッドへ連れ出し、押し倒す。
ボタンが全開のブラウスは乱れて、もはや衣服としての機能を果たしていない。
白く艶やかな素肌を無防備に晒していた。
夕莉の眼差しが、訴えかけている。
早く、早くと。
妖麗な肢体に目を奪われながら。
噛み付くように躊躇なく鎖骨に口付けすると、一際大きく体を反応させた。
感じてくれている。
こんな時に喜びを覚えてしまった自分の心が、どうしようもないほど汚れていて反吐が出る。
それでも、やめられない。
「はぁ……ッ……あっ……」
我慢していたけれど堪えきれず漏れ出てしまった、そんな息遣いが、先に進みたいという欲望をさらに強めていく。
鎖骨周りを堪能して、首筋を辿り、再び頬にキスを落とす。
高まる鼓動と、抑えられない衝動。
いよいよ夕莉の唇に自分のそれを重ねようとした――寸前。
あと数ミリで触れ合おうという瞬間に、ピタリと。
突然電源が落ちた機械のように、私の体が動きを止めた。
「…………」
本能に抗えなかった欲望を、不意に理性が抑え込んだ。
途端、一気に虚無感が襲ってくる。
……私は一体、何をしようとしていたんだろう。
ふと我に返って、激しい自己嫌悪に陥った。
グッと歯を食い縛り、夕莉に覆い被せていた体をおもむろに起こす。
半ば放心したような状態で、俯きながらどうにか声を絞り出した。
「……できない」
脳裏に蘇る、記憶。
私の肩に身を預け、安らかに眠る夕莉の唇を奪った、あの時。
きっと、今より純粋だった。
純粋に"好き"で、そんな私の気持ちが伝わったらいいのにと、叶わないとわかっていながら、それでも心の奥底で密かに願ってしたキス。
けれど今は、ただ自分の情欲と本能のまま快楽に浸るだけの自己満足しかない。
そんな情緒でもう一度唇を奪うなんて、できるわけがない。
「……奏向……?」
「これ以上は、できない」
困惑しながら起き上がった夕莉の、乱れたブラウスを整える。
胸元が隠れるように、しっかりと着せて。
無理やり苦笑いを浮かべながら、言い訳を溢した。
「……制服、シワになっちゃうでしょ」
私を見る彼女の目が、不安で溢れている。
その眼差しに耐えきれず、すぐに視線を逸らした。
もう、まともに夕莉と顔を合わせられない。
こんな形で体を重ねることを望んでなんかいなかった。
一時の感情に任せてやっても、何の解決にもならないのに。
命令とはいえ、途中まで本気でしようとしていた。
本当に、最低だ。
これ以上、夕莉を傷つけたくなかったはずなのに──。
「どうして……」
「……大切なんだよ」
「……ッ! それは雇い主として――」
「違う」
契約も主従も関係ない。
一人の女の子として、夕莉のことが好きだから。
その言葉が喉まで出かかっては、無理やり飲み込む。
確証がない。
私が本音を打ち明けたところで、絶対にクビにはならないという確証が。
既に違反行為がバレているのに、今さら遵守しようとしたところで意味はないのかもしれないけれど。
それでも、付き人のルールが今でも有効である以上、守り続けるしかないんだ。
夕莉が私に然るべき処遇を宣告するまで。
ずっと夕莉の傍にいたい。
その望みに嘘はないし、心からそう願っている。
そしてそれと同じくらい、クビにされたら困る大事な理由がもう一つある。
もし付き人を解雇されてしまったら、私は――。
「もう、帰るね。――また明日」
ベッドから下りて背を向けた私を、夕莉が呼び止めることはなかった。
時刻は十九時をとうに過ぎている。
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