第81話 壊して(1)
懇願するような口ぶりが相俟って、心臓がぎゅっと握り潰される感覚に陥った。
呼吸が止まる。
言葉の意味を咀嚼しながら、次にとるべき行動を必死に考えるけれど、指先一つ動かせず、まともな声も発せられない。
夕莉の言ったことが、私の聞き間違いでなければ――。
「は…………え?」
ただただ、困惑するしかない。
夏休みのある時期を堺に、感情を抑え込むようになってしまった夕莉が、今にも泣きそうな声を上げている。
それも、とんでもない要求を私にしながら。
明らかに普通じゃない。
そこまで精神的に追い込まれるほど、酷く思い悩む何かがあったんだ。
夕莉の精神状態が不安定の域を超えて、手遅れになってしまう前に。
「それ、どういう意味で言ってる……?」
まずは、確かめないと。
私の勘違いかもしれない。
邪な気持ちで聞いた場合と、純真無垢な心で聞いた場合では、解釈の仕方が変わってくる。
どうか私の思い違いであってほしい。
そう願っていたら、唐突に部屋のドアが開かれた。
目の前に立つ夕莉の格好を見て、動揺が走る。
制服姿であることは別におかしくない。
いつ何時も模範のような正しい着方で着用していた制服が、乱れたように着崩されているのが問題だった。
ネクタイは外されていてベストも着ていない、ブラウス一枚とスカートだけの姿。
それどころか、ブラウスは第二ボタンまで開いていて胸元がはだけている。
目線が真っ先にその場所へ行ってしまったことに罪悪感を覚えながら、すぐさま夕莉の顔を見やる。
久々にしっかり目が合ったかと思えば、その眼差しは虚ろだった。
視線が交わっているようで交わっていない。
私を見ているはずなのにどこか遠くを見ているような、心ここに在らずな状態。
夕莉が安易に自分の体を差し出すはずがない。
そんな否定も虚しく、硬直している私に向かって彼女は無感情に言い放った。
「あなたが今、想像している通りの意味よ」
「……ッ」
それは、つまり――やってほしい、と。
はっきり認識してしまった瞬間、頭の中が真っ白になる。
同時に、抑え込んでいた劣情がぶわっと湧き上がって、体中が一気に熱くなった。
視線が忙しなく泳ぐ。
なんで……何で、今?
私を避けてるんじゃないの……?
「入って」
「……いや、でも……」
渋る私の手首を掴んで、室内へ引っ張る。
抵抗するという選択肢がなぜか出てこなかった。
されるがまま手を引かれ、呆気なく夕莉の部屋へ足を踏み入れることに。
ふわっと。
柑橘系の甘くて優しい香りが鼻腔を撫でる。アロマ、だろうか。
性欲を掻き立てられる感覚に頭がくらっとするが、何とか堪える。
神坂邸のマンションには何度も出入りしているのに唯一、一度も入ったことのない部屋があった。
それが、夕莉の部屋だ。
付き人のルールに『許可なく私室に入らない』というのがあって、意識的に立ち入らないようにしていた。
だから、室内をちゃんと見るのは初めてで。
一瞬だけ、周りを見回してみる。
私が住んでいるボロアパートの部屋が優に倍以上は入るほどの広さで、必要最低限の家具しか置かれていない、白を基調とした質素で無機質な部屋。
ほとんど生活感がないように見える。
脱ぎ捨てられたであろう制服のベストとネクタイが、ソファーの上にあるのを視界に捉えた。
全ての置き物が整理整頓されているからこそ、乱雑に放置されたそれが目立つ。
ちょっとした違和感を覚えて眉をひそめた時、背後で部屋のドアが閉まる音がした。
「夕莉……?」
咄嗟に振り返る。
夕莉がドアを閉めて、ついでに鍵をかけていた。
閉じ込められた――といっても、鍵は内側にあるからどうにでもできるけれど。
ただ、ドアの前に夕莉が立っているせいで、こっちから好き勝手にはできない。
「……こうするしかないの」
私に背を向けたまま小さく呟くと、おもむろに振り向いて。
熱を帯びた目で私を見つめながら、一歩一歩近付いてくる。
尋常ではない雰囲気に後退りしそうになるが、足が動く前にネクタイを掴まれた。
「ちょっ、待って……」
私のネクタイを解こうとしている夕莉を必死に宥める。
けれど、言葉だけでは響かないようで。
ネクタイは容易く解かれて、床に放り落とされた。
どうにかして止めないと……。
本当に、夕莉に手を出してしまう。
今度こそ引き返せなくなる。
「どうしたの……何があったの?」
私の声が聞こえていないのか、まるで取り憑かれたように淡々と手を動かしている。
ネクタイの次は、ブラウスのボタンを外そうとしていた。
明らかに服を脱がそうとしている行為に、いよいよ本気で身の危険を感じる。
後退りしようにも、襟元をしっかり掴まれて逃げられない。
どうすればいい……?
夕莉に触れたくないと言えば嘘になる。
でも、流れや勢いに任せて軽率にやるのだけは何としても避けたい。
と思いながら、本能的な欲情に抗えないでいる。
誘惑に負けてはいけないと理性が必死に抑制しているが、夕莉を止める手段が思い浮かばない。
もう、胸の内を正直に伝えるしか――。
「……私の、せい?」
思い切って核心を突くような問いをかける。
第三ボタンを開けたところで、夕莉の動きが止まった。
……やっぱり。
夕莉が変わってしまった原因に、少なくとも私が関与しているのは間違いない。
だというのに、シラを切るように無表情を貫いている。
「……これは、私だけの問題だから。奏向が気にかけるようなことは何もないし、気にする必要もない。あなたは黙って、ただ私の言うことを聞いていればいい」
何としても私を巻き込まないようにする強情な姿勢に、もどかしさや苛立ちが沸々と湧き上がってくる。
じわじわと、冷静さが失われていく。
「は……? いや……そんな風に言われて『はいそうですか』って素直に引き下がれるわけないでしょ。私がどんだけ心配してると思ってんの。夕莉がそうなった本当の原因は、私にあるんだよね?」
「……いいえ」
「嘘。だったら私への態度がここまで変わったりしない。嫌なことがあるなら正直に言って。話してくれないとわかんないよ」
「話すことは何もないわ。仮に、あなたへの態度が本当に変わったとして、あなたに何か不都合なことでもある?」
「業務上は、ない……けど、不安になる。夕莉が何か悩みを抱えてるんじゃないかって。私に非があるなら直すから――」
「何度も言わせないで。余計な気遣いは不要よ。忘れたの? 私たちはあくまで契約上の関係にすぎない。雇い人でしかないあなたが、無関係の事情にいちいち深入りしてこないで」
私に原因があることを頑なに認めようとしない挙げ句、これまでになく語気が強い。
そんな態度では、いくら誤魔化しても私のせいだと言っているようなものだ。
はっきりしない夕莉の言動を歯痒く思う以上に。
"雇い人でしかない"――その言葉が、深く胸に突き刺さる。
夕莉は私のことを、その程度の存在にしか思っていないということか。
間違ってはいない。
彼女は主人で、私は付き人。
契約を交わした時、お互いに対して情は抱かないようにと釘を刺したのは夕莉なのだから。
でも、それなら。
私に対する今までの振る舞いは何だったのか。
今でも"ただの付き人"だと思っているのなら、最初から淡白な接し方を貫けばよかったのに。
隣にいてほしいとか、一緒にいて楽しいとか、いかにも気を許しているような一面を見せられたら、情が移ってしまう。
私をその気にさせておいて、夕莉の中では"契約上の関係"で片付けられてしまうほどの軽い気持ちしか抱いていなかった……?
「…………はッ」
堪らず冷笑が漏れて。
私の中で何かが、はち切れた。
構わず次のボタンに手をかけた夕莉の、両手首を掴む。
驚いたように視線を上げた夕莉が、一歩だけ足を引く。
その瞬間を狙い、一気に追い詰めて壁に手首を押さえ付けた。
真っ向から彼女を睨みつける。
どう訴えても本音を打ち明けてくれない怒りと、私に対する気持ちはその程度だったのかという悔しさが込み上げて。
発する声は自然と低くなった。
「――これまで散々思わせぶりな態度とっておいて、今さらそんな言い訳すんなよ」
私を見る夕莉の瞳が、怯えたように揺れていた。
わかってる。
彼女に言えた立場ではないと。
雇用関係を言い訳にして、ずっと逃げていたのは私の方。
夕莉のことが好きだと自覚してもなお、ルールを破ってクビにならないように、本当の気持ちを隠している。
自分のことを棚に上げているのは嫌でも自覚している。
だけど、止まらない。
「こっちからは触れちゃいけないのに、あんたからは遠慮なく触れてくるし。手繋いだりキスしたり、あからさまに誘うようなこともされて平常心保っていられると思う? それで『特別な感情を抱くな』って無理あるでしょ。何がしたいの? 私がどこまで我慢できるかって忍耐力でも試してた? 心許したような素振り見せて、今度はそうやって突き放すんだ? 振り回すのも大概にしてよ。露骨に惑わしてくるあんたこそ――」
止まらない。
夕莉の本当の気持ちが、知りたい。
「私のこと、どう思ってんの」
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