第76話 肝試し(3)

 名前を呼ばれた夕莉は、ゆっくりと顔を上げて私に振り向いた。

 肝試しを始める前よりも、明らかに顔色が悪いように見える。


 慌てて夕莉の前に膝をつき、目線を合わせるように顔を覗き込む。


「ちょ……どうしたの、こんなところで」


 まさか、やっぱり具合が悪いのを隠して無理してたんじゃ……。

 ここにいるということは、私と同じでおみくじを結びに来たんだろうけど……私が来るまでずっと蹲ってた?


 夕莉は苦しげな目で私を見つめた後、また俯いて胸に手を当てた。


 よく見ると、額に汗が滲んでいる。

 ただ暑くて動けなくなった――なんて単純な事情でないのは確かだろう。

 体も小刻みに震えている。


 咄嗟に彼女の肩に触れそうになったけれど、寸前で止める。

 気軽に触れることができないもどかしさに歯噛みしながら、そっと手を引っ込めた。

 代わりに、顔を近付けて夕莉の様子を窺う。


 胸に手を当てたまま、不規則な呼吸を繰り返している。

 昨夜と似たような症状――。

 何が原因なのか、何に苦しんでいるのか、わからない。


 学校にいる時や夕莉の護衛をしている間は、これまで一度もこんなことは起こらなかった。

 発症する時間帯が決まっているのだろうか。


「大丈夫?」

「…………平気よ」

「ほんとに?」

「……本当に」

「咲間先生に連絡しようか」

「……しなくていい」

「無理してるよね」

「……そう見えるのなら、あなたの目は節穴だと思う」

「…………」


 まったく……何でこんな時に意地張ってんのよ。

 ついでに皮肉まで吐いちゃって。

 誰がどう判断しても大丈夫だとは思えない状態なのに。


 そんなに心配されたくないのか、それとも深追いされたくない秘密でも抱えているのか。

 変なところで強情になっている夕莉の姿勢に、小さくため息を吐く。


 そこまで言うのなら、これ以上気にかけるのはやめるけど……。


「とりあえず、ここ出ようか。……立てる?」


 本当に何でもないのか確かめるために、自力で立つよう促す。


 夕莉は下を向いたまま、膝に手を置いて立ち上がろうとするものの、足に力が入らなかったのかバランスを崩して前のめりになった。


 私が反射的に支えようとする前に、夕莉が咄嗟に手をついたおかげで幸い倒れることはなかったけれど。


 やっぱり、全然大丈夫じゃないじゃん。

 自力で立ち上がれないほど震えているのに「平気」なんて言われても、余計に心配になるだけで。


 二回も同じような状態を見せられて、看過できるわけがない。だから――


「……夕莉、触れてもいい?」


 考えるより先に、言葉が出ていた。

 本当は、言葉よりも先に行動に移したかったけれど、自分から勝手に触れることはできないから。


 歯痒い。今すぐにでも助けてあげたいのに、夕莉主人の許可がないと何もできないこの立場が。


 もし断られたら、なんてことは微塵も考えていなかった。

 とにかく、少しでも楽になれる場所に一刻も早く連れ出したくて。


「……? ……ええ」


 地面に座り込んでいる夕莉は、多少困惑した目で見つめながらも頷いてくれた。


「ありがとう」と伝えて微笑を向ける。

 そして、彼女の背中と膝裏に腕を回して抱き上げた。


「……!?」


 抱えられて驚きに目を見開いた夕莉が、私を見上げる。


「奏向っ……一人で立てるから――」

「こういう時こそ甘えてよ」


 この期に及んでまだ意固地になっている。

 そのわがままさに呆れると同時に、やるせない気持ちが溢れてくる。


 夕莉は私に心を開いてくれても、弱みは見せてくれない。

 いつも近くにいるはずなのに、知らないことがたくさんあるんだ。


 夕莉が本当の意味で私を頼ってくれる時が来るのはまだ先なんだろうなと、少しだけ淋しくなって。


 だけど私は、いつかこの子が誰に言われるでもなく自分の意志で、心の底から私を頼りたいと思ってくれる日が来ると、信じているから。


「……多分、いろんな事情があるんだろうから、深くは詮索しない。……でも」


 視線を斜め下に向けると、未だ戸惑いの表情を見せる夕莉と目が合った。


 本当は心配で堪らない。

 私のいないところで、また容体が悪くなるのではないかと。

 そんなことを考えて、夕莉を抱えている手に僅かな力がこもる。


 今彼女を見ていると、感情の制御ができなくなりそうで。

 けれど、何とか平静を装って、私の切実な思いを告げる。


「私の前では、こらえたりしなくていいから」


 夕莉は再び目を見開いて、唇を引き結んだ。


 離したくないと、思ってしまった。


 放っておけない。

 心配させるような姿を見せておいて、それでも無理に強がって気丈に振る舞おうとする夕莉を。


 このままずっと、腕の中にいてくれたらいいのに――。


 ……って、何を考えてんだ私は。

 今は夕莉をここから連れ出すのが先決だ。


 確か、近くに一台だけベンチがあったはず。

 ひとまず、落ち着くまであそこで休ませよう。

 足場が不安定な砂利の上を慎重に歩きながら、ベンチへと向かう。


 ふと夕莉に視線を移すと、顔が見えないほど俯いていた。

 まだ具合が悪いのかと不安になったけれど、比較的呼吸は安定している。


 良かった。時間が経つと、ある程度治まるようだ。

 でも、油断はできない。


 ベンチに着いて、夕莉を座らせる。

 私も隣に腰掛けて、首にぶら下げていたハンディファンで風を送ってあげた。


 サラサラと夕莉の髪がほのかに靡いているのを見て、ちゃんと風が当たっているかを確認しながら。


 夕莉がいつも通りの状態になるまで、そう時間はかからなかった。

 俯いて気まずそうに指を弄っている彼女に、そっと話しかける。


「暗い所は苦手?」

「…………得意では、ない」

「そっか。一人でよく頑張ったね」


 勇気を振り絞って打ち明ける様子に、頭を撫でたくなる衝動に駆られるが、ぐっと堪える。


 これで一つ知れた。

 夕莉は、暗い場所が得意ではないと。

 もしかしたら、昨夜私の部屋に来た時も、そのことが何か関係しているのかもしれない。


 いわゆる、暗所恐怖症とか……?

 いや、安易に決めつけるのはよくない。

 あくまで可能性の話として、頭の片隅に留めておこう。


 にしても、自分の苦手なものを把握しておきながら、よく肝試しの誘いを受けたもんだ。


「もしあそこに誰も来なかったら、どうなってたか……」

「……私は、来ると思ってた」


 夕莉が静かに口を開く。

 落ち着いた声で。しかし、はっきりと。

 俯いていた顔を上げて、真っ直ぐに私を見据える。


「奏向が来てくれると、信じてた」


 夕莉の眼差しが、あまりにも純粋で。

 照れ臭くなるようなセリフを真面目に言ってくるもんだから、つい思考が停止してしまう。


 なんか……どう反応すればいいのかわからなくて。

 そこまで私に信頼を寄せていたことが素直に嬉しいし、真剣な目で見つめてくるのが無性に恥ずかしくもある。


 一向に目を逸らす気配のない夕莉から逃れるように、私は咄嗟に顔を背けた。

 無言の空気が気まずい……何か言わないと。


「……それは、私の方が運勢の悪いくじを引くだろうと思ってたってこと?」

「……ええ」

「失礼な」


 "信じてた"ってそういう意味だったんかい。

 幸薄い女とでも思われてんのかな……。


 そりゃあ、相対的に見れば確かに悪い運勢だったけど、『小吉』自体はそこまで悪くない。

 書いてある内容も、どちらかというと前向きだったし。


 そもそも、神のお告げとか占いの類いは信じない主義だから、おみくじの結果で一喜一憂するのもおかしな話だと思うけれど。


「夕莉だって、木崎さんよりくじ運悪かったからあそこにいたんでしょ。何引いたの?」

「………………凶」

「縁起悪っ」


 私より下じゃん。

 でも、『凶』が出る確率は意外と高いって聞いたことがあるような。


 夕莉の引いたおみくじを見せてもらおうとした時、ピコンとスマホの通知音が鳴った。

 私かも、と思ったけど、どうやら鳴ったのは夕莉のスマホのようで。

 画面を確認した夕莉が、私に視線を送る。


「木崎さんから連絡が来たわ。別れてから随分経つけど大丈夫かって」

「そうだった。結構時間食っちゃったよね」


 私はともかく、順調に行けば夕莉はすでに出口へ到着しているはずの時間だ。

 心配になるのは当然だろう。


「じゃあ、二人でおみくじ結んでから出ようか」


 ベンチから立ち上がり、振り返る。

 無意識に、夕莉へ手を差し伸べていた。


 行動に移してからハッとする。

 これは、自分から触れようとしていることになるのだろうか。

 いやでも、ただ差し伸べただけで厳密には触れようとはしていないし……。


 調子に乗ったかなと思い、手を引っ込めようとしたちょうどその時、夕莉が優しく私の手を取った。


 びっくりしたけどそれ以上に、手を握ってくれたことがすごく嬉しくて。


 すぐさま夕莉の方に視線を向けると、口元に手を当てながら顔を逸らしていた。

 その仕草、照れてる……のかな。


 ド直球なセリフは恥ずかしげもなく言えるくせに、何で手を繋ぐのは堂々とできないんだろう。

 でも、そんなところも可愛いなと思う。


「夕莉はさ、お化けとか信じる?」

「信じる信じないの問題ではなくて、幽霊は科学的に証明できないものだから、存在するかもしれないという概念が生まれること自体に疑問を覚えるわね。そもそも心霊現象と呼ばれているものは、脳の誤認識によって作り出されるもので――」

「あー、わかったわかった。そういう系は信じてないってことね」


 急に饒舌になったな。

 けど、苦しげな夕莉の姿を見るより、よっぽどこっちの方がいい。




「夕莉ちゃん……! 心配したよぉ……」

「……ごめんなさい」


 おみくじを結び終えて、私たちは無事神社を出ることができた。


 出口の鳥居で待っていた木崎さんが、涙目で夕莉のもとへ駆け寄る。

 夕莉は申し訳なさそうに目を伏せていた。


 咲間先生はそんな二人の様子を、慈愛に満ちた眼差しで見守っている。

 どういう心境なのかはよくわからない。


 雪平はというと、相変わらず頭を抱えてしゃがみ込んでいる。

 もう肝試しは終わったのに。

 帰りの参道で見てはいけないものでも見えたりしたのかな。


「みんな、お疲れさま。とりあえず何事もなく終われて一安心です! それにしても、今回は割とはっきり見えたね。記念写真撮ればよかったなぁ」

「……え?」


 ……? というのはもしや……。

 嬉々として話す咲間先生が、きょとんとした顔で私たちを見回す。


「お賽銭箱の隣に小学生くらいの女の子が座って、じーっとこっちを見てたでしょ?」

「…………」


 おそらく、衝撃の事実を知らされた今この時が、全員の中で最も戦慄が走った瞬間だった。

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