第73話 行かないで

 何……何なの?

 何でベッドに侵入された挙句、抱きつかれてんの?

 状況が全く飲み込めない。


 ただでさえ眠れなかったのに、余計に脳が覚醒してしまった。

 体が硬直して一ミリも手足を動かせないのがしんどい。

 ……やば、足痺れてきた。


 私のお腹に回している夕莉の手に僅かな力がこもり、くしゃっと服を掴まれる。

 まるで抱き枕を抱いているかのような密着具合だ。


 これ、本当に寝惚けてる……?

 人間と抱き枕を間違える人なんて聞いたことがない。

 二回も私の名前を呼んでいたし、私がここにいることを認識してはいるのだろう。


 それなら、ますます理解できない。

 夕莉の行動が。


 雪平みたく、怖くて一人じゃ眠れない……なんてことはないよね。

 仮にそうだとしても、わざわざ二階まで上がってくる? 場所的には杏華さんの部屋の方が近いはずだ。


 動揺と緊張で呼吸が浅くなる。

 何とか睡眠中であることを装うために、深く息を吸ってゆっくり吐くという動作を無心でひたすら繰り返す。


 感覚が研ぎ澄まされているせいで、背中から夕莉の体温や息遣いが鮮明に伝わってくる。

 ……いろんな意味で体がめちゃくちゃ熱い。


 ドクドクと、心臓が早鐘を打つ。

 呼吸は制御できても、忙しなく暴れる鼓動だけは、自分の意思ではどうすることもできない。


 体の中に爆弾を抱えているみたいで。

 まるで、自分の体の一部ではない別の生きた何かが、胸の内側で暴れているようだった。


 同じベッドに入っているだけでも相当危ない状況だけど、百歩譲って抱きつかれるまでは良いとして。


 ただでさえ不可解な行動で翻弄してくる夕莉が、今度は頭をすりすりと私の背中に擦り付けてきた。

 まるで、猫が自分のニオイをつけてマーキングしているみたいな……。


 それだけではなく、お腹に回していた彼女の手が、おもむろにシャツの中へ入ってくる。

 肌と肌が触れた瞬間、一気に体温が上昇してじんわりと汗が滲んだ。


 必死に理性を保とうとする私の心境などお構いなしに、感触を確かめるように、お腹や脇腹をゆっくりとまさぐっていく。

 夕莉の温かい手が優しく肌の上を這うたび、ゾクゾクと体が反応してしまう。


 思わず呼吸を忘れそうになる。

 こんなの、拷問だ。

 眠っている私を好き放題触りまくって、露骨に誘うようなことをして。


 私が今どんな気持ちでこの羞恥に耐えているかを、夕莉は知らない。

 本当に、何がしたいの。


 ――私が手を出さないとでも思ってる?


 これまで幾度となく夕莉から触れられることはあったけれど、私からは勝手に触れないようにしてきた。

 それが付き人のルールだから。

 でも、もう我慢できない。


 もし、ここで私が夕莉の腕を掴んで無理やり押し倒したら、彼女はどんな目で私を見るんだろう。

 恐怖か、困惑か、あるいは失望か。

 そんな暴挙を働いた時点でクビになるのは確実だ。


 けれど、もはやどうでもいい。

 今まで守ってきたルールを蔑ろにしようとするほど、私の理性はほとんど崩壊している。


 整えていた呼吸が乱れてくる。

 異常なまでに脈打っている鼓動もきっと、夕莉に伝わってしまっている。

 私が起きていることに気付いているかもしれない。

 それなら、むしろ好都合だ。


 これは夕莉が悪い。

 真夜中に、二人しかいない部屋のベッドで、甘えるように抱きついてきて。

 襲ってくださいと言っているようなもんでしょ。


 強く瞑っていた目蓋を開ける。

 手をぎゅっと握り締めて、思い切り起き上がろうとした――


「…………」


 けれど、ふと背後から聞こえてきた夕莉の小さな吐息に、理性が引き戻される。


 私のシャツの中に両腕を入れたまま離さないように抱いて、もたれるように背中に頭を預けて、規則正しい呼吸を繰り返している。


 まさか、寝た……?

 嘘でしょ。この状態で寝れるってどんなメンタルしてんのよ。


 なんか……これまでの仕返しで襲ってやろうなんて思ったことに罪悪感を覚えてしまった。

 急に頭が冷静になってきて、やるせない思いにため息が溢れる。


 とりあえず、この状態のままだとかなり心臓に悪いから、何とか夕莉の腕から抜け出すことを試みる。

 ゆっくり、慎重に、少しずつ。

 脱力している彼女の腕は、意外とすんなり解放してくれた。


 ベッドから降りて、床に座り込む。

 再び大きなため息を吐きながら、手で顔を覆った。

 夕莉から離れても、当然ながら胸の苦しみは治らない。


 ちらっと、ベッドに不法侵入してきた夕莉を見やる。

 元々自分の寝床であるかのように、すやすやと安らかに眠っていた。


 ……まったく。

 あんたのせいで思い悩んでるこっちの気も知らないで、よく悠々と眠れたもんだ。


 いつも無愛想そうで雰囲気も堅くて、弱みや隙なんて一切見せないほど真面目なくせに。

 私の前で安心しきったように眠っている夕莉が、無性に愛おしく感じてしまう。


 そんな姿を晒して……私が乱暴するような人だったら、どうしてたの?

 ほら、ほんの少し手を伸ばせば、簡単に触れられる――


「……こんな無防備な寝顔見せられたら、手なんて出せるわけないでしょ」


 夕莉の頭を撫でそうになった手を、寸前で引っ込めた。

 一瞬でも夕莉に触れようルールを破ろうとした自分に嫌気が差す。


 いくら見られていないからといって、好き勝手に行動していいことにはならない。

 私が夕莉と雇用契約を結んでいる限りは。


「……アホらし」


 思わず嘲笑が漏れた。


 一番腹が立つのは、言葉では素直に夕莉への想いを伝えておきながら、頑なにルールを守ろうとして一線を引いている、私自身の矛盾した言動だ。


 そして、心のままに吐き出していたはずの気持ちも、本当の想いを隠すため無意識に遠回しな表現をしていた。


「主従関係じゃなくて……もっと別の出会い方をしていたら、こんな気持ちにはならなかったのかな……」


 そっと、小さく呟いた声は、誰にも届くことなく消えていく。


 ……別の出会い方、か。

 お互いの性格を考えると、たとえ出会ったところで、顔見知り以上の関係に進展するとは思えない。

 多分、友達にすらなれなかったと思う。


 夕莉は学院の模範生である生徒会長で、私は悪評の立っている問題児。

 仲良くなれる接点が何一つ見つからない。


 むしろ、その方が良かったのかもしれない。


 最初はお金を稼ぐ、ただそれだけのために付き人のアルバイトを引き受けたのに。

 夕莉と一緒に過ごしていく中で、彼女が少しずつ私に心を開いてくれていると気付いた時からすでに、抱いてはいけない感情が生まれていたんだ。


 ルールを守らなければならない、でも本当の気持ちを伝えたい。

 その板挟みに振り回されて苦しみ続けるくらいなら、いっそ夕莉と出会わなければ――。


 膝を抱えて蹲っていると、背後からずっと聞こえていた夕莉の寝息に、ある違和感を覚える。


 規則的だった息遣いが、乱れていた。

 咄嗟に振り返り、様子を確認する。

 そこには、シーツを握り締め、苦しげに呻く夕莉の姿があった。


「…………はぁ……はぁっ……」


 何かにうなされてる……?

 慌ててベッドに上がり、夕莉の顔を覗き込む。


「……夕莉?」


 名前を呼んでも私の声は聞こえていないようで、呼吸は相変わらず荒い。

 暗がりでよく見えないけれど、かなり辛そうだ。


 急に体調が悪くなった?

 それとも、何か持病があってその発作が出たとか……。

 夕莉に持病があるなんて聞いていない。


 とにかく、早く何とかしないと。

 こうして狼狽えている間も、症状が悪化してしまうかもしれない。


「夕莉、杏華さん呼んでくるから。もうちょっとだけ耐えて――」


 そう呼びかけてベッドから下りようとした時、不意に手首を掴まれる。

 視線を落とすと、いつの間にか目を覚ましていた夕莉が私を引き止めていた。


「……呼ばなくていい」

「でも……」

「本当に大丈夫、だから」


 いかにも無理をしているような、弱々しい声を絞り出す。

 深呼吸を繰り返すうちに徐々に落ち着きを取り戻して、状態が幾分か安定してきた。


 けれど、大丈夫だと言われてもあんな姿を見てしまった直後で、素直に"そっか"とは頷けない。

 心配で言葉が出ない私を気遣ってか、夕莉が私の手を控えめに握る。


「……少し……悪い夢を見ただけ。……いつものことよ」


 いつものことって……あの苦しそうな状態に陥ることが日常茶飯事だっていうの?

 それなら、尚更見過ごせない。


 でも、今の夕莉を問い質したところで、はぐらかされる可能性が高い。

 一体どうすれば……。

 夕莉を見つめたまま何も言えずにいたら、


「……!?」


 握られていた手を突然引っ張られる。

 急な出来事に反応できず、仰向けになっている夕莉に覆い被さるような体勢になってしまった。


 咄嗟に肘をついて体を支えたから良かったものの、勢いのまま引っ張られていたら完全に体が重なっていた。

 とはいえ、今も充分際どい体位ではあるけれど……。


 鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離で、夕莉の顔が映る。

 唖然とする私の頬に両手を添えて、


「お願い――どこにも行かないで」


 悲痛な声で、縋るような眼差しを向けた。


 いい加減、やめてほしいのに。

 これ以上たぶらかすような真似をされたら、私は夕莉に何をするかわからない。


 それでも必死に、情欲を抑え込む。

 今の私ができることは、それしかないから。


「……行かないよ」


 不安げな表情を浮かべる夕莉をどうにか安心させたくて、貼り付けたような笑顔を向けた。


 ゆっくりと目蓋を閉じた夕莉は、私の首に腕を回してさらに抱き寄せてくる。

 そっと目を細めて、私は全身の力を抜いた。

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