第72話 向き合う時

 直射日光に長時間晒されていたせいか、肌がヒリヒリと痛む。

 日焼け止め対策は一応してきたものの、やはり真夏の海という炎天下では限界があった。


 朝よりも焼けている自分の肌を見て、この状態でシャワーを浴びたらもっと痛いだろうなと想像してしまう。


「海は楽しめましたか?」


 隣で食材の下ごしらえをしている杏華さんが、優しく問いかけてきた。


 今は夕食の準備をしている彼女のお手伝いをしているところだ。

 自分の肌の焼け具合に気を取られて、野菜を切る手が止まっていた私は、その声に意識を戻される。


「すごく、楽しかったです」


 ほんの一、二時間前の出来事を何度も思い返すくらい、みんなと海ではしゃいだ時間はとても充実していた。


 海水浴や砂遊び、貝殻集めにビーチバレーと、遊べるものは一通り遊んで、その分疲労感も強いけれど。

 でも、疲れなんてどうでもよくなるほど、興奮が未だおさまらない。


「友達と海に行ったりするのが初めてで。というか、誰かとこうやって遊びに行くこと自体が、今までほとんどなかったんですけど」


 特に中学生の頃は、素行不良の問題児だと言われて周りから避けられていたから、まともな友達がいた試しがない。


 そして去年の私は日夜アルバイト三昧で、高校での交友関係は皆無だった。だから――


「ようやく学生らしい夏休みを謳歌できたなぁと。いい思い出ができました」

「それは良かったです。まだ一日目ですけどね」


 クスリと、杏華さんが笑みをこぼす。


 そうだ。初日からいろんな感情に振り回されて、いろんなことを体験した気になっていたけれど、まだここに来てから24時間も経っていないのだ。

 私の中で、それだけ一日が濃かったということなんだろう。


「ところで、何か進展はあったのでしょうか」

「進展?」

「お嬢様との関係です」

「っ……!?」


 危な……。包丁で指を切るところだった。

 杏華さんが突拍子もないことを言うから……。


 にしても単刀直入すぎる。

 ここ最近、杏華さんがやたら私と夕莉のことを気にかけているのは、何か意図があるのだろうか。


「……な、何言ってんですかっ。進展も何も、これ以上どう仲良くなれと……」


 別に、仲が悪くなったとか、気まずい関係になったとか、そんなことは万に一つもない……とは、正直言い切れなかった。


 以前のような、夕莉をただの雇用主としてしか見ていなかった時とは、明らかに心境が違う。

 その気持ちの変化が、"関係が進展した"と言えるものなのか――


 あれこれ考えて、結局言い訳を並べている自分が嫌になる。

 いい加減、自問自答するのはやめればいいのに。


 答えはもう出ているはずだ。

 私の、夕莉へ抱いている本当の想いが一体何なのかを。

 ただ、その正体を改めて自覚するのが怖いんだ。


 わかっている、だけど認めたくない。

 認められない。


 この気持ちをはっきりと受け入れてしまった瞬間に、今の私と夕莉の関係が拗れてしまう気がして。

 私たちはあくまで、主従という契約の上で成り立っている関係だから。


「奏向さんは、お嬢様のことをどう思われていますか?」

「どうって……」


 核心を突くような質問を遠慮なくしてくるな……。


 それは主従関係として?

 それとも、主人とか付き人という立場抜きに、一個人として神坂夕莉という人間にどんな感情を抱いているのか、という意味?


 どちらにしろただ一つ言えるのは、私を悩ませているこの気持ちは、付き人が主人へ寄せる類の想いでは絶対にないということ。

 仕事に持ち込んではいけない、完全な私情なんだ。


 どう返事するのが正解なのか。

 当たり障りのない回答をした方がいいのか。

 こんな時でも無駄に思案してしまう。


 多分、杏華さんは私の胸中を見抜いている。

 だから試すようなことを訊いてくるんだ。


 いっそ正直に話してしまおうか。

 夕莉のことで思い煩っていることも、私が夕莉にどんな気持ちを抱いているのかも。


 学費のことで退学について悩んでいた時も、真剣に話を聞いてくれた杏華さんなら、打ち明けられる気がする。

 そう思い口を開いた時、


「お腹空いた……」

「茅、まだ夕食の時間じゃねーぞ」


 階段から雪平と木崎さんが下りてきた。

 食べ物を求めてフラフラと徘徊している木崎さんを、雪平が後ろから見守っている……ように見える。


 大事な局面で悉く木崎さんが現れるのは気のせいだろうか。


 ……いや、マジでありがとう。

 遮ってくれて。

 いつかはけじめをつけないといけないのはわかっているけど、今すぐには結論を出せないから。


「……奏向さん。先ほどの質問は撤回させてください」


 何かを悟ったような表情で、杏華さんは目を伏せた。

 そして私に顔を近付け、小声で耳打ちする。


「誰かに促されるよりも、やはり貴女自身の意志でお嬢様に気持ちをお伝えすることに意味があるので」


 もう、何というか……杏華さんには本当に頭が上がらないというか。

 どんなに本音を隠しても全て見透かされてしまいそうで、安易に嘘をつけない。


 杏華さんは私にニコリと笑顔を向けた後、雪平と木崎さんに声をかける。


「お待たせしてしまい申し訳ありません。夕食が出来上がるまで、どうぞリビングでお寛ぎください。あちらのテレビで、映画やドラマもご覧いただけますよ」

「え、いいんですか」

「はい。皆さんのお好きなホラー作品なども揃っておりますので」

「あたしは別に好きじゃ……」

「ありがとうございますっ! 朱音ちゃん、みんなで観ようよ! 先生と夕莉ちゃん呼んでくるね」


 空腹で元気のなかった木崎さんが、目を輝かせて二人を呼びに行った。

 取り残された雪平は、心底嫌そうに眉をひそめている。


 やっぱり怖いもの苦手なんじゃん。

 明日の心霊スポット巡り、大丈夫かな……と、周りを気にしている場合じゃない。


 私は私の問題に向き合わなければ。

 自分の気持ちから逃げてばかりでは、いつまでも中途半端な関係のまま変われないから。



   ◇



 夕食の後は、大部屋に集まってみんなで雑談したり、咲間先生が撮ってくれた写真を見返したりしていた。


 夕莉が私に向けて水鉄砲を撃ちまくっている場面とか、ビーチバレーで雪平の顔面にボールが直撃した瞬間とか。


 割と悲惨な状況が写真に収められているものもあれば、渾身の力作である砂の城や、海辺に落ちていた珍しい色の貝殻など、芸術的な写真もあった。


 先生が期待していた肝心の心霊写真は、生憎一枚も見つからなかったけれど。


 各々入浴も済まし、就寝のため日付けが変わる前にそれぞれの部屋へ戻る。


 特にやることもない私は、早々に部屋の電気を消してベッドへ寝転んだ。

 昼間あんなに動き回ったのに、眠気はやってこない。


 横になってから、かれこれ一時間は過ぎたと思う。


 広すぎる綺麗な部屋に、大きすぎるふかふかのベッド、程良く冷房の効いた室内。

 自分の家とは正反対の環境がどうも落ち着かなかった。


 けれど、原因はそれだけではない。

 頭の中には、意識せずとも夕莉の顔ばかり浮かんでくる。

 それはもう、重症ではないかと思うくらいに。


 気付いていなかったわけじゃない。

 気付かない振りをしていた。


 必死に自分の気持ちを押し殺して、頑なに思い違いだと決め付けて。

 正直、今でも素直に認めることができないでいる。


 だって、普通じゃないから。

 友達とか同級生以前に、私と夕莉の仲は元々利害の一致で築かれたもので。


 契約を交わしたあの日、"仕事に私情は持ち込まない"と宣言したのは、他でもない私――


「……?」


 ふと、小さな物音が聞こえて思考が止まる。

 何だろうと思い、耳を澄ませた直後。


 ドアノブの動く音がして、ノックもなしにゆっくりとドアが開かれた、気がした。


 誰かが私の部屋に入ってきた……?

 こんな時間に?


 ドアに背を向けているから、どういう状況なのか全くわからない。

 ただ、この室内に私以外の人の気配があることだけは確かだ。


 起き上がって確認した方がいいのだろうけど、体が思うように動かない。

 無意識に緊張でもしているのか、なんて思った時。


「奏向……起きてる……?」


 背後から聞き慣れた声が静かに尋ねてきた。

 恐る恐る機嫌を伺うような、小さな声で。

 ――夕莉だ。


 彼女らしからぬ弱々しい声音に、なぜか鼓動が早くなる。


 どうして夕莉がここに……。

 返事をした方がいいのか……いや、"起きている"と答えたところで、今は会話を続けられる余裕がない。

 何も反応せずこのまま寝た振りをしていれば、大人しく戻ってくれるかな……。


 強く目を閉じて、息を潜める。

 しかし、予想に反して夕莉が部屋を出て行く気配はなく、むしろ近付いてきているように感じる。


 私のすぐ後ろのベッド横に、夕莉が立っている。


 心臓の音がうるさく響く。


 この状況、どうすればいい……?

 そもそも、夕莉はどんな目的で私のところに来た?

 まさか、闇討ちとか物騒なことを企んでいたりは……。


「……奏向」

「…………」


 二度目の呼びかけにも、沈黙を貫く。


 早く戻ってくれないか。

 そんな密かな願いも虚しく。

 あまりに心臓が脈動しすぎて頭がおかしくなりそうなところに、追い討ちをかけるように。


 ベッドが僅かに軋んで。

 あろうことか、夕莉が私のベッドに潜り込んできた。


「…………」

「…………」


 寝惚けてる……絶対寝惚けてるっ……!

 さては自分の部屋と間違えたな?

 お手洗いか何かから戻る時に、夢現で場所に迷ったとか、そういうことなんでしょ。

 一階と二階を間違えるなんて、相当頭が疲れているんだ。


 しかし、だからといって今さら起きて注意なんてできない。

 私の真隣で夕莉が横になっているという究極に意味のわからない状況で、冷静に対応できる自信が――


「……!?」


 唐突に訪れた更なる夕莉の突飛な行動に、私の頭がパニックに陥る。


 夕莉が私の腰に手を回してきたかと思えば、体を密着させるように後ろからぎゅっと抱き締めてきた。

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