第71話 海と娯楽(3)
別荘から見える海は、文字通りすぐそこにあった。
簡単に遊び道具などを準備して、海岸へと繰り出す。
サラサラした白い砂浜。濁りのない真っ青な海。ギラギラと照りつける太陽。
これ以上にない絶好の海日和で、私たちの他にもちらほらと利用客がいた。
真夏の海といえば、そこら中に人がひしめき合っているイメージが強かったけど、意外とそうでもなかった。
ここの海は穴場なのかもしれない。
「さ! 自由に遊んでおいで!」
保護者のようなセリフを吐いて、咲間先生は海岸で私たちを送り出す。
一番ウキウキしていた人が、なぜか荷物番みたいなポジションを自ら買って出たことに、全員が首を傾げていた。
サンバイザーにアームカバーにサングラスと、日焼け対策はバッチリといった様子で、どう見ても動きやすい格好とは言えない。
「先生は……何をするんですか?」
一際困惑している木崎さんが、心配そうに問いかける。
不敵な笑みを浮かべて、咲間先生は懐からスマホを取り出した。
「わたしはここで海を眺めながら、みんなが楽しそうにはしゃいでる姿をカメラに収めるの」
「……カメラマン?」
雪平が訝しげに呟く。
小学校の遠足じゃあるまいし、みたいなことを心の中で突っ込んだに違いない。
そんな格好で女の子にカメラでも向けようものなら、たとえ先生でも怪しい人だと警戒してしまう。
未だに疑問が残ったままの空気を察したのか察していないのか、先生は楽しそうに声を弾ませた。
「もしかしたら、写真の中に霊が写り込むかも――」
「よし、じゃあ遊ぼっか」
「もう二色さんっ、最後まで聞いて!」
せっかく今は遊び目的で海に来たのに、幽霊が何だのと言われたら雰囲気が台無しだ。
大体、こんな真っ昼間の賑やかな場所で、得体の知れないものが写り込むとかあり得ない。
ただ、先生がよっぽどオカルト好きだということはちゃんと伝わった。
「とりあえず、わたしはここで寛いでるから。あ、あんまり深いところまで行かないでねー」
マイペースに手を振る先生を横目に、私たちは各々浮き輪や水鉄砲を持って、波打ち際まで近付いていく。
風や波が穏やかで、足にかかる水の生温い感じが絶妙に心地良い。
「気持ちー。全身浸かりたいわ」
「泳げないくせに何言ってんの」
「は? 泳げるし。浸かるくらいいいだろ」
「そういえば水泳の授業で犬かきしてたよね、朱音ちゃん」
「あれはクロールなのッ!」
「水を上手くつかむための練習法でドッグプルというものがあるから、上達のための泳ぎとしては理に適っていると思うわ」
「フォロー……してんのか、それは」
浅瀬でパシャパシャと水を掛け合いながら、太ももが浸かる程度の場所まで進む。
一応濡れてもいい服を着ているものの、水着ではないので水の中だと若干動きづらい。
両足を離してみると、仰向けで浮くことができた。
「ほら雪平、泳いでみなよ」
「やだ。絶対バカにしてくんだろ」
「苦手なら教えてあげるわよ」
「夕莉ちゃん、運動神経抜群だし教えるの上手だから、きっと泳げるようになるって!」
「だから何であたしが泳げない前提なんだよっ」
「浅瀬でも溺れる可能性はあるから、正しい浮き方を身につけるだけでも役に立つと思うけれど」
「そうそう。それに万一のことがあっても浮き輪持ってるから大丈夫っしょ」
「お前ら……」
いつの間にか雪平への水泳指導が始まりそうになったところで、密かに仕掛けていた水鉄砲を構える。
何やら揉めている三人に向けて、躊躇なく発射した。
「それっ!」
「うッ!」
「ひゃっ……!?」
唐突に水をぶっかけられて、雪平と木崎さんが怯む。
想像以上の威力に自分でも驚いたけど、もっと衝撃だったのは夕莉が顔色一つ変えず微動だにしなかったこと。
いやいや、しっかり全身濡れてるのに無反応って……驚かし甲斐がないんですけど。
「いきなりやんのは反則だろッ! てか距離近すぎて痛ぇわ!」
「予告してから撃ったらつまんないじゃん。痛みはご愛嬌ってことで」
「わたしも……って、あれ……?」
最初はびっくりしていた木崎さんが楽しそうに反撃しようとして、手に持っていたはずの水鉄砲がなくなっていることに気付いた。
さっきまで確かにあったのは私も見ている。途中で手放してしまったのだろうか。
周辺を探そうとした時、
「ッ?!」
顔面に凄まじい勢いの水圧を受けた。
多分、消火器の水を人が受けたらこんな感じなんだろうな、というほどの強烈な威力。
状況が飲み込めず困惑していると、無表情で水鉄砲を私に向けている夕莉を発見した。
……まさか?
「顔面はさすがに――」
「…………」
「人が話してる時は――」
「…………」
「ちょ、聞いて――」
「…………」
「いてててッ!」
「…………」
「もう許してください!!」
無反応に見せかけて相当根に持ってんじゃないのよ。
痛みのあまり、集中攻撃された顔を両手で覆う。
……良かった、私の顔ちゃんと残ってる。
指の隙間から夕莉を盗み見ると、満足したようで水鉄砲を木崎さんに返していた。
淡々としているのが恐ろしい。
「……夕莉ちゃん、容赦ないね」
「やられたままでは癪だから」
「怒らせたらやべぇな……」
一切手加減のない夕莉の所業に、二人は恐れ慄いている。
……ねぇ。誰か一人くらい私の心配をしてくれてもよくない?
顔面にドリル突き刺さったと思うくらい危険だったんだよ?
「倍返しにもほどがあると思います」
「まだ足りないの?」
「やられたらやり返すっ!」
「イタチごっこじゃねーか」
「頑張って!」
「茅はどっちを応援してんだ」
そんなこんなで第二ラウンドが始まり、ほぼ三対一という圧倒的不公平な勢力差でまたもや集中砲火を浴びた。
髪もシャツもすでにグショグショで、濡れ具合だけを見ると明らかに私の方が負けている。
にもかかわらず負けず嫌いが発揮してしまい、漏れなく全員がずぶ濡れになるまで水を掛け合った。
夕莉が先に浜へ上がり、残った三人で休憩がてら浮き輪に座る。
波の揺れに任せてぷかぷかと浮かぶのが気持ちよくて、ついぼーっとしてしまいそうになった。
「私も一旦上がるわ」
「はーい」
「あたしと茅はもう少しここにいるから」
ゆったりと浮き輪で寛ぐ二人を残し、咲間先生のいる場所へ戻る。
近くまで来たところで、ちょっとした違和感に気付く。
ビーチパラソルの下で荷物番をしていたのは、夕莉だけだった。
水着の上からラッシュガードを羽織っている彼女は、持参した本を一人で静かに読んでいる。
「咲間先生は?」
問いかけにそっと顔を上げた夕莉は私を一瞥したあと、首を斜め右に向けてある一点を見つめた。
「……あそこ」
視線の先を目で追う。
そこには、砂遊びに勤しんでいる咲間先生の姿があった。
写真撮影に飽きたのか、純粋に砂遊びをしたくなったのか……。
動機は何にせよ、遠目からでもわかる本格クオリティーの砂城を見て、あの遊びに本気で向き合っていることだけはわかった。
ひとまず、よっこいせと夕莉の隣に腰を下ろす。
咲間先生から目を離した夕莉は、何も言わず読書を再開した。
そして沈黙が流れる。
……何となく、気まずい。
今日だけで何回気まずい思いをしてんだって感じだけど。
しかも、その原因は全て夕莉にある。
平然と本を読んでいる夕莉は、私の複雑な胸中なんて当然わかるはずもない。
この場で私だけがムズムズしている状況がなぜか気に食わなくて、咄嗟に口を開いた。
「あのさ……さっきは、ごめん」
「"さっき"?」
至極当たり前な疑問が返ってくる。
抽象的な言葉が通じるほど、意思の疎通が完璧なわけではないし。
"さっき"と言ったら、直近だと水鉄砲を許可なく撃って夕莉の逆鱗に触れたことだと捉えられてもおかしくない。
具体的にどのことを指しているのか、はっきり伝える必要がある。
それに、沈黙を破るためだけの話題ではないから。
「私が杏華さんとキッチンにいたとき。改めて考えたら、確かに素っ気ないと思われても仕方ないような態度だったなって」
「別に、そのことなら最初から怒っていないけど」
「え」
泰然とした様子で言い放った夕莉は、本を閉じて私の方に顔を向ける。
その目は、いつも通り感情が見えないもので。
だけど、怒りを伴う眼差しではないことは本当のようだ。
あの時の態度について謝ったけれど、夕莉は微塵も気にしていない。
それなら、杏華さんの言った"きっと許してくれる"というのは、一体何のことなんだろう。
「……ただ少し、驚いただけ」
「驚いた?」
その感情は、不快感とはまた別のように思う。
主人に対して仮にも失礼な態度をとった付き人に何を感じたのか、怖いけど知りたい。
夕莉の顔をジッと見つめていたら、目を逸らされた。
少し言いづらそうに、口元に手を当てて。
徐々に頬の赤みが増していく。
「あれほど照れたような……恥ずかしがっているような奏向の顔を見るのは、初めてだったから」
「…………」
その言葉を聞いて、羞恥心がぶり返してくる。
……そっか。
私、そんな顔してたんだ。
体は正直というか何というか……。
理屈や理性で無理やり感情を抑え込むよりも、本能のまま思ったことや感じたことを伝えられたらどんなに楽だろうか。
そんなことをしたら、何を口走ってしまうかわからないけれど。
それでも、ほんの少しだけでいい。
今の私の想いが夕莉に届いたら、嬉しいと思う。
「……前までは、何も感じなかった」
「……?」
普段と違う声のトーンに、夕莉がまた顔を合わせてくる。
性に合わない真剣な雰囲気に驚いたのかもしれない。
彼女からの眼差しを真っ向から受け入れるように、私も見つめ返す。
「でも今は……自分でもよくわかんないんだけど」
本当は、目を逸らしたいほど精神的に不安定で。
熱くなってきた顔を隠したいほど、心に余裕がない。
だけど、今この気持ちを伝えなければ、きっとまた夕莉を振り回す。
だから私は、ありのままをぶつけたい。
「夕莉が隣にいると、すごく――胸の奥が熱くなる」
こんなことを言ったら、困らせてしまうに決まっている。
最悪、今後の関係にも支障をきたしてしまう可能性だってある。
発言した後にそんな心配が脳裏を過った。
何とか安心させようと必死に次の言葉を考えていた時。
不意に、夕莉の手が私の手に触れた。
小指と小指がさりげなく触れる程度の、小さな接触。
たったそれだけの、何でもない彼女の仕草で。
心臓が大きく脈打つ。
気付けば、二つの手は重なり合って、指を絡ませ合っていた。
その行為に至るまでの流れが、まるで始めからお互いを求め合っていたかのように自然で。
馬鹿みたいに心臓が暴れ狂っているのに、私の手は夕莉の手をしっかり握って離さない。
何も言葉を交わさないまま、しばらく見つめ合って。
夕莉がもう片方の手を私の頬に添えた。
「私も――」
少しずつ、夕莉の顔が近付いてくる。
煽情的な眼差しが私の情欲をくすぐる。
今なら何をされてもいい。
そんな浮ついた気持ちで目を細めた時。
「夕莉ちゃーん! 二色さーん!」
かなり既視感のある声が私たちを呼んだ。
反射的にお互いの手を離す。
声のした方を振り向くと、知らぬ間に雪平と木崎さんが咲間先生の砂城作りを手伝っていた。
「咲間先生が砂遊びしようって」
「……今行く!」
木崎さんの呼びかけに、今度は私が先に向かう。
夢から覚めたような感覚だった。
魔が差した、とはまさにこのことだと思う。
でも、あのまま流されていたらどうなっていたのか、知りたい気持ちがないと言えば嘘になる。
きっと、心の奥底では無意識に許していたんだ。
夕莉からの口付けを。
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