第70話 海と娯楽(2)

 私と夕莉が、お似合い……?

 杏華さんの目には、そう感じるほど私たちが仲睦まじげに映っていたのだろうか。

 主人と付き人という主従関係において相性がいい、という意味ではなくて?


「……おふざけで言ってます、よね……?」

「この発言が冗談だとすれば、お嬢様に対しても揶揄することになってしまいますね」


 杏華さんのことだから、平気で夕莉をからかうこともしていそうだけど……。


 ただ、今の彼女には私を欺こうとする気配は感じられなかった。

 その証拠に目の奥が笑っていない、気がする。だとすれば、杏華さんの言葉に偽りはないということになる。


「……あはは! だとしたら嬉しいですねー。傍から見てもお似合いだと思われるほど、打ち解け合えてるってことじゃないですか。付き人として夕莉に尽くしてきた甲斐がありました」

「主従関係ではなく、特別な関係として、ですよ」

「ぅえ?」


 不覚にも、これまでで一番間抜けな声が出た。

 さりげなく主点を逸らしてみたが、真っ向から指摘されてしまった。


 杏華さんの言う"特別な関係"が、どういうものなのかは理解しているつもりだ。

 客観的には。


 だけどそれが、果たして私の望む"友達以上の深い関係"と同じなのか。

 今の私には断言できず、結局また曖昧になっていく。


「……いやいや。だって、主人と付き人ですよ……? 特別な関係になるなんて、マジであり得ないです。もー、杏華さん。こんなこと夕莉に聞かれたら、誤解されちゃいますよ」


 しきりに、目が泳いでしまう。

 呼吸が不規則になっていく。

 急速に思考力が麻痺して、何をしたらいいのかわからず作業の手が止まりそうになる。


 それでも必死に平静を装うため、引きつった表情だけは見られないように杏華さんから顔を逸らす。


 ……本当に、あり得ない。

 私と夕莉が実際に付き合うなんて。


 私が望む関係は……そう、友達以上の"親友"。

 言いたいことを言い合えて、自分の弱いところを見せられて、一緒にいるだけで落ち着けて、ずっと傍で支えたいと思う。


 そんな、心を許し合った関係。

 そうだ。きっとそうに違いない。


 触れたいとか、自分のものにしたいとか、そういうやましい気持ちを抱いているわけじゃ――


「ルールを破ることになるから、ですか?」


 不意に、穏やかだった杏華さんの声がほんの少しだけ低くなる。

 彼女の言葉を聞いた瞬間、肩に重たい何かがのし掛かったように、体が硬直した。


「奏向さんがご自分のお気持ちに素直になれないのは、規則に背いて解雇されることを恐れているからですか?」

「…………」


 何も答えられず、黙りこくってしまう。


 なぜ杏華さんは、"私が素直になれない"と思ったんだろう。

 私の本心が別にあるのではないか、とでも感じたのだろうか。


 私が本音を隠して振る舞っている。

 その理由が、解雇されないようにルールを守るためなのではないか、と?


 瞬きも忘れて、完全に思考が停止する。


 素直になっている、つもりだった。

 夕莉と今以上にもっと親しくなりたいと思っているのは本心だし、ずっと隣にいたいと思っていることも嘘じゃない。


 だけど、もし。

 その気持ち以上の夕莉に対する強い想いを、私が無意識に押し殺しているとしたら。


 杏華さんからの問いをすぐに否定すればよかったものを、反論しないどころか無言になってしまうのは、きっと彼女の言ったことが――


「……奏向?」


 静寂の中、私を呼ぶ声がした。

 振り向いた先。

 奥間から現れた夕莉と、目が合う。


「……っ!?」


 動揺のあまり、咄嗟に思い切り顔を逸らしてしまった。

 ……やばい。これじゃあまるで、露骨に夕莉を避けているような反応に映ってしまう。


 かと言って、今は夕莉を直視できるような精神状態ではないし……どうすれば……。


「おや、お嬢様。どうかされましたか?」


 声を出せない私の代わりに、助け舟のような形で杏華さんが口火を切る。

 さっきまでの真剣な雰囲気が嘘のような、いつも通りの温和な声だった。


「何を話していたの」

「秘密です」

「……私に言えないようなこと?」

「言うに足らない瑣末なことなので」

「それなら、話しても問題はないでしょう」

「どうしてもと仰るのなら、奏向さんに直接お聞きした方がよろしいかと」


 杏華さん……!? 嘘でしょ……。

 今まさに夕莉のことで気が動転してるってのに、どんな顔して話せばいいのよ……。


「……奏向」

「…………」

「聞こえなかった?」

「…………ただの雑談だけど」

「ただの雑談でどうして態度が素っ気なくなるの」

「……気のせいでしょ」

「誤魔化さないで。いつもの奏向と様子が違うことくらいわかるわ。何も後ろめたいことがないのなら、なぜ顔を背けているの」

「あんたこそ、なんでそんなに突っかかってくんの?」

「…………」


 沈黙の代わりに、足音が鳴る。

 少し離れた位置に立っていた夕莉が、私の隣まで近付いてきた……気がした。


 完全に顔を背けているから、視界に夕莉の姿は入っていない。

 気配でなんとなく察する。

 多分、振り向けば彼女がすぐ目の前にいるのだろうと。

 だからこそ、絶対に振り向くわけにはいかない。


「奏向」

「…………」


 無視してるわけじゃない。

 平然と接したいのは山々だけど、どうしても夕莉と目を合わせられない。

 まともに会話をするのもままならない。


 私の名前を口にする夕莉の声を聞くだけで、おかしいくらい動悸が激しくなる。


 どうしてこんなに、息が苦しくなるんだろう。


 今まで夕莉に抱いていた感情だけでは説明できない、私の中で無意識に押し殺してきた何かが。

 はっきりと、形になって現れようとしているのかもしれない。


 なんとか動悸を治めるのに必死になっていたら。

 視界の端から夕莉の手が伸びてきて、私の頬に触れた。

 その手に流されるまま顔の向きを変えられ、


「かな……」


 至近距離でお互いの視線が絡み合った瞬間、私の名前を呼びかけた夕莉が、驚いたように目を見開いた。


 あれほど顔を合わせることを避けていたのに、いざしっかり目が合うと背けられなくなって。

 彼女を見つめていると、抑えきれない感情に理性が壊されていく。


「っ……」


 私、今……どんな顔してる……?


 問い詰めようとした夕莉が言葉を失うほど、ひどい顔を晒していることはわかる。

 顔どころか、体中が信じられないくらい熱くなっていることも。


 今すぐこの場から逃げ出したい。

 丸裸になった心の内側を、余すところなく覗かれてしまったみたいで、怖かった。

 切なくて苦しい、自分でもよくわからないこの気持ちが、夕莉にバレてしまうのではないかと。


 唖然としたように見つめていた夕莉が、私の頬に添えていた手をそっと離した。

 そして今度は、何かを堪えるような、苦しげな眼差しを向ける。


「……どうして、そんな顔をするの」

「…………わかんないよ」


 ようやく夕莉から目を離すことができたものの、体の熱は相変わらず抜けない。


 そもそも、どんな表情をしているのか自分でもわからないのだから、考えても答えようがない。


 ……あー、気まず。

 何でこんな狙ったようなタイミングで現れるかな。


 もしかして、杏華さんとの話を聞いてた?

 仮にそうだとしても、聞かれちゃマズいようなことは話していない、はずだ。


 とりあえず今は、これ以上夕莉を納得させるような弁明もできないので、早く立ち去ってほしいのに。

 おそらく真っ赤になっているであろう顔を穴が空くほど見られていて、尋常じゃなく恥ずかしい。消えたい。


「……あっつー……暑すぎて火照るわ…………クーラー効いてんのかな」


 誰も一言も発しない状況にいい加減居た堪れなくなって。

 手で扇ぎながら自分でも驚くほどの棒読みで、精一杯の言い訳を呟いてみる。


 ふと、いつの間にか食料の片付けを再開していた杏華さんと目が合った。

 途端、この場の空気にそぐわないほどニコニコとした笑顔を向けられた。

 ……どういう感情?


「照れ隠し、ですね」


 ぽつりと。

 爽やかな笑みで核心を突いた。


 追い討ちをかけられたように、さらに体温が上昇する。

 そんなんじゃないと否定しようとした時、


「夕莉ちゃーん! 二色さーん!」


 階段の方から、木崎さんが元気な声で私たちを呼んだ。

 この場にいる全員が、彼女の方へ振り向く。


 マジで救世主。

 ぎこちない雰囲気を一瞬で壊してくれたことに、心の底から感謝して胸を撫で下ろした。


「今からみんなでこの後の予定について話し合うから大部屋に集合だって、咲間先生が言ってたよ」

「……わかったわ」


 無表情に戻った夕莉は、あっさりと従って階段へ向かっていく。


 私はというと、すぐには動けなかった。

 気持ちを落ち着かせるためというのもあるけど、杏華さんのお手伝いを途中で中断するのに気が引けて。

 チラリと杏華さんを見ると、穏やかに頷いていた。


「こちらは大丈夫ですので。遠慮せず楽しんできてください」

「……すみません。じゃあ、お言葉に甘えて」

「奏向さん」


 踵を返した瞬間に呼び止められた。

 何だろうと思い咄嗟に向き直る。


「今のお嬢様ならきっと、許してくださると思いますよ」

「……?」


 何のことかわからない話の内容にポカンとする。

 許すって、何を? ……あ、さっき素っ気ない態度をとったことかな。


 確かに、人の顔見て避けようとするなんて、された方はいい気はしないだろうし。

 後でちゃんと謝ろ……。




「みなさん。念押ししておくけど、今回神坂さんの別荘にお邪魔させてもらったのは、あくまでオカルト研究会の夏合宿のためです」


 改まった様子で、咲間先生が話を切り出す。

 全員が大部屋もとい雪平と木崎さんが使っている部屋に集まり、今後のスケジュールを再度共有するそうで。

 当日に参加を知らされた私にとっては、全てが初耳なのだけど。


 それより、オカルト研究会の合宿と銘打っておきながら、参加者の半分以上が非会員ってどういうこと?


「しかし、せっかく豪勢な別荘に二泊三日も宿泊させていただくのであれば、心霊スポット探索以外にもいろいろ満喫しないと逆に失礼ではないかと」


 尤もらしい言い分を語っているけれど、要は"楽しみたい"ってことなんだろう。

 先生が朝から高揚を隠し切れていないのは、火を見るよりも明らかだった。


「なので、メインの肝試しは二日目に行うとして、初日は特別に海で遊びます」


 ほら。もうがっつり"遊ぶ"って言っちゃってんじゃん。

 歴とした課外活動が、こんなに緩くていいのだろうか。

 でも、なんだかんだで木崎さんは嬉しそうだし、雪平も満更でもない様子だ。


 そんな中、ソファーで静かに先生の話を聞いていた夕莉は、特に感情をあらわにすることもなく無表情でいた。


 まぁ、自分家の別荘だし、海で遊ぶといっても本人にとっては新鮮味とかないのだろうけど。

 とはいえ、愉快にはしゃいでいる姿を見せられても、普段のキャラと違いすぎてこっちが困惑してしまう。


 なんて思っていたら、不意に夕莉と視線が交わった。

 ちなみに、私が座っている場所はソファーから少し離れた位置にある椅子だ。


 正直まだ気持ちが落ち着いたとは言えない状態で、反射的にまた顔を背けそうになる。

 けれど、二回も同じ反応をするのはさすがに失礼すぎるので、自然に目線だけを動かしてなんとか誤魔化そうとしたら。


 夕莉が頬を赤らめて、恥ずかしそうに下を向いた。

 その仕草を見ただけで、なぜか性懲りもなく動悸が忙しなくなる。


 こんなんじゃ一週間も同じ屋根の下で、夕莉と無事に過ごせる気がしない……。

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