第66話 前夜

 あっという間に残りの一学期が終わり、待ちに待った夏休みを迎えた。

 学校が休みの期間はとりあえずアルバイトのシフトを入れまくる、というのが今までの習慣だったけれど、今年の夏は違う。


 一切宿題に手をつけず、テストで赤点を取りまくったせいで強制された補習も悉くサボり、何食わぬ顔で二学期にふらっと登校したら、鬼の形相の咲間先生にこっ酷く叱られた去年。


 その思い出を教訓に、今年は夏休みが始まって三日目には全ての宿題を終わらせた。


 だからだろうか。

 今、とても清々しい。

 追われるものがないとこんなにも解放的な気分になれるのだと。


 これで心置きなく出発できる。

 明日から一週間寝泊まりする予定の、神坂家の別荘へ。


 主人が遠出をするなら、お世話係兼護衛の私がついていくのは当然のことだ。と、夕莉から言われた。

 学校がある日しか傍にいないからすっかり頭から抜け落ちていたけど、確かにそうだなと。


 一緒に遊びに行ったことすらないのに、一週間だけとはいえいきなり寝食を共にするのは何だか、変に緊張するというか……いやいや、これはあくまでアルバイトの一環であって、友達と仲良くお泊まりするみたいなテンションとは訳が違う。

 一体何を意識することがあるってのよ。


 ……別荘に行くからと言われて今日まで悶々としていたなんて、口が裂けても言えない。


 現在時刻は、夜の十時を回ったあたり。

 夕食を済ませてお風呂にも入ったし、あとは準備した荷物の最終確認をして早く寝よう。


 そう思いバッグに手をかけた時、玄関のドアが乱暴に開かれる音がした。

 近所迷惑になるレベルの愉快な声が部屋に響く。


「ただいまー!」


 ヒールを脱ぎ散らかしながら千鳥足で居間まで来たお母さんは、椅子に座り深く息を吐きながらテーブルに突っ伏した。


 家に帰ってきた時は、毎回と言っていいほどアルコールの臭いが漂う。相変わらずのだらしない姿に、ため息が出てくる。


「帰ったらすぐに手洗いうがいして、靴は放り投げんなっていつも言ってんでしょ。あと、いい年こいた大人なんだから自分の酒の許容量くらい守ってくんない?」

「カナちゃん、"おかえり"は?」

「早く行って」

「……ぅー」


 不満げな声を出しながらもフラフラと立ち上がり、散らかった靴を片付けに行った。


 酔っ払っているせいで話が噛み合わなかったけれど、自力で立ち上がれないほど酔い潰れている時以外は、私の言うことを大抵聞いてくれる。

 ……まったく。これじゃあどっちが親かわかったもんじゃない。


 洗面所から水の流れる音がして、ちゃんと手洗いうがいをしているのだと確認してから、改めて荷物の方に意識を戻す。


 必要最低限の着替えと日用品があればなんとか生活はできるから、そこまで念入りに準備することもなかったけど。


 別荘には客用の浴室や洗面所も完備されているらしい。

 つまり、お風呂やトイレが二つあると。


 神坂家の中では各部屋を二つ以上設置しなければならないという決まりでもあるのだろうか。

 それとも、お金持ちの家はそれが普通なのか。


「あら、どっか行くの?」


 洗面所から戻ってきたお母さんが、ひょっこりと顔を覗かせてくる。


「明日から泊まり掛けのバイト。一週間は帰らないよ」

「そうなんだ。泊まり掛けなんて楽しそう」

「一応、一週間分のご飯作り置きしておいたから。食べたくなったら適当に温めて」

「うそ!? 神! ありがとー、ほんと助かるわ」

「それと、せめて洗濯はちゃんとしてよ。洗濯回し終わったらすぐに干して。干しっぱなしもダメだから」

「うんうん、やるやる」


 ご機嫌な調子で頷いているけど、有言実行してくれるかは大いに怪しい。

 翌日の朝には言われたことを全て忘れていそうだ。

 来週帰宅した時の家の中がどうなっているか、今から想像するだけで嫌気が差してくる。


 お母さんは鼻歌混じりに服を脱ぎ捨てながら、フラフラと浴室へ向かっていった。


 ……あんの酔いどれ。脱いだ服はカゴに入れろって何度も…………はぁ。

 そろそろお母さんを更生施設かどこかに預けるべきかもしれないと、割と本気で考えてしまった。


 さて。荷造りも済んだし、出発は朝早いからもう寝てしまおう。

 お母さんのことでこれ以上心労を溜めたくない。


 立ち上がり、脱ぎ捨てられた服を片付けてから寝室へ向かおうとした時、ポケットに入れてあるスマホが振動した。

 画面を見て、顔が強張る。


 電話に出ようか一瞬だけ迷い、渋々通話ボタンを押した直後、相手からの声が食い気味に届く。


『カナ、今から会える?』

「時間考えな?」


 遠慮の欠片もない第一声に、こっちも躊躇いなく突っ込む。


 非常識なことを平気でお願いしてくる知り合いは、陽生ひなせしかいない。

 遠慮がないというより、彼女は我儘なのだ。


 そして時間という概念がない。

 酷い時は、深夜の爆睡している時間帯に電話がかかってくることもある。


『だって、今しかないんだもん。最後に会えるの』

「永遠の別れじゃないんだから」

『最近会ってないし』

「あんたが忙しいからでしょ」

『じゃあ、カナがわたしに会いに来て』

「無茶言うな」


 こうして話すたびに、会いたいとせがんでくる。


 向こうが海外にいて会うのが難しいとか、どこかの場所に隔離されていてそもそも会えないとか、そんな訳ありな事情は一切なく。


 陽生が住んでいるのは国内どころか、私の家から徒歩で行けてしまう距離にある。

 会おうと思えばいつでも会える立地に自ら引っ越しておきながら、それでも対面できない原因はお互いにあるのだけど。


『いつ帰ってくる?』

「一週間後。……って、前にも伝えたけど」

『ほんとに?』

「こんなことで嘘ついてどうすんのよ」

『ユキちゃんは二泊三日って言ってたのに……』

「ん?」

『なんでもない』


 ぼそっと呟かれた声が上手く聞き取れなかったうえに、はぐらかされた。


「別にわざわざ直接会わなくても、ビデオ通話じゃダメなの?」

『だめ。直接カナの顔が見たい』

「めんどくさ」


 直接も画面越しも、顔が変わらないんだから一緒でしょ。


 陽生は昔から変に"対面"に拘ってくる。

 人肌が恋しいのか何なのか。

 まぁ、彼女が育ってきた境遇を考えると気持ちはわからないでもない、かもしれない。


『お土産は?』

「あるわけないでしょ。旅行するんじゃないんだから」

『カナからのハグね。わかった、ちょー楽しみにしてる』

「幻聴でも聞こえた?」


 ついでに、自分の都合のいいように話を進める厄介な妄想癖もある。


「いい加減飽きてよ。ほぼ毎日話してんだから」

『飽きないよ。毎日でもカナの声が聞きたいし』

「私の都合もお構いなしにあんたのダル絡みに付き合わされるこっちの身にもなれっつってんの」

『ダル絡みじゃないっ。でも、何だかんだ言いながら最後までわたしの長電話に付き合ってくれるもんね。そういうところも、好き』

「切るよー」

『あ、やだやだ待って!』


 お決まりの口説き文句をほざいてきたので、スマホを耳から離し通話終了ボタンを押す動作に入る。

 その寸前で必死に呼び止めてくる陽生の声に、ため息を吐いた。


 毎回"切る"と言いながら、何気に会話を続けている私も甘いんだよな……。


『カナ、気をつけてね』

「はいはい、ありがと」

『現地に着いたら連絡してね。それと、電話するからいつも通り出ること』

「あんたは私の親か。あと悪いけど、一週間の間電話はムリ」

『え、どうして? スマホも持たせてくれないくらい過酷な現場なの?』

「そうじゃないけど。とにかく、かけても出られないから」


 明日から一週間は朝から晩までずっと夕莉の付き人でいるから、私的な電話は控えようと思う。


 それに、一度陽生の相手をしてしまったが最後、少なくとも一時間は拘束されてしまう。


 それは今だって例外ではない。

 早く寝ようと思っていたのに、安易に応答してしまったせいで長電話が確定した。

 日付が変わるまでには何としても切りたい。


『じゃあ、メッセージは?』

「いいけど……すぐには返せないよ」

『寂しい』

「私は寂しくない」

『そんなこと言って。ほんとはわたしに会えなくて夜も眠れないくせに――』

「切るわ」

『や、だめっ、切らないで』


 結局、陽生が私を寝かせてくれたのは三時間後だった。



   ◇



 待ち合わせの時間は、朝の六時。

 場所はマンションのエントランスに集合ということになっている。


 毎日夕莉を迎えに行く時と変わらない。

 十五分前には待ち合わせ場所に着いて、彼女が来るのを待つのが日課だった。


 今日も早めに到着して待つつもりだったけれど。エントランスに先客がいた。


 大きなキャリーバッグを横に、キョロキョロと忙しなく辺りを見回して、栗毛の髪をふわふわと揺らしている子ども……いや、あれは違う。


 小学生と間違えてしまうほどの体躯をしたあの姿を、私は見たことがある。

 むしろ見覚えがありまくる。

 が、こんな所にいることが到底信じられなくて、どうしてもあの人だと脳が認識してくれなかった。


 ここ、夕莉の住むマンションだよね……?

 道に迷った? にしては、諸に私有地へ踏み込みまくってるけど。


 入口付近で唖然と立ち止まっている私に気づいたその人物は、花が咲いたような笑みを浮かべる。


「あ、二色さん! おはよー!」


 こちらに向かって元気にぶんぶんと手を振っている小柄な女性は――咲間先生だった。

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