第59話 意識(2)
熱を帯びた視線が、私の体を
どちらかが少しでも動けば、鼻先が触れてしまうほどの距離。
「は……?」
何とか発したのは、ただただ理解が追いつかないという意味の間の抜けた声だけだった。
急速に心拍が早くなって、心臓の音が自分でも聞こえるくらい強く脈動している。
「なに……どういうつもり……?」
夕莉から離れようにも、ネクタイをしっかり握られていて身動きがとれない。
かと言って、力づくで押し退けるわけにもいかない。
夕莉は突拍子もない行動をとることがあるけれど、まさかこんな場所で、ここまで大胆になるとは。
彼女は一体何を考えているのか。
上手く反応できない私とは対照的に、夕莉の態度は至って冷静なように見える。
割とヤバい体勢だと思うんだけど、こんな状況で眉一つ動かさないとか、どんな精神状態してんのよ。
「何をしようとしていると思う?」
「こっちが先に聞いてんだけど」
必死に平静を装ってはいるものの、冷や汗と動悸が止まらない。
この期に及んで夕莉は、私を弄ぶような発言をしている。
無理やり力任せに引き寄せて、普通ではない距離まで顔を近づけて、挑発する。
詰め方がヤクザの威嚇と同じだ。
もしかして、本当は起こしてくれなかったことに怒ってる?
頭の中がとんでもないパニックになりながらも、微妙な角度で屈んでいるせいで体勢がちょっとキツいのをとりあえずどうにかしたい。
一瞬たりとも気を緩めたら、顔が当たってしまう。
「……手、離してくんないかな」
「離さない」
「何でよ」
「勝手にどこか行ってしまうから」
「そんなわんぱくじゃないわ」
親の言うこと聞かない子どもじゃあるまいし。
今まで夕莉の手を煩わせるほどの自分勝手な行動をした覚えはないはずだけど……。
帰る準備をしようとして立ち上がっただけなのに、それをわざわざ引き留めてここまで追い込むなんて、何か反感を買ってしまったとしか思えない。
「悪いことしたなら謝るから。ここは話し合いで解決しよ……」
「何のこと?」
「え……怒ってんじゃないの?」
「……随分筋違いな考え方をするのね」
私の説得が的外れだったようで、訝しげに目を細めている。
不機嫌にさせた腹いせではないのなら、このある意味拷問のような仕打ちは何が発端で起こったんだ。
とにもかくにも、早く離してくれないと心臓と上体がもたない。
この危機をどう打開しようか必死に思考を巡らせようとした時。
私の頬に触れていた夕莉の手が、滑るように顔の輪郭をなぞり、今度は顎に軽く添えられる。
そのまま指先で顎を持ち上げられたところで、ようやく身の危険を感じた。
だって、その動作は明らかに――
「ちょ、まっ……待って――」
慌てて声を上げそうになったが、私の唇に夕莉の人差し指が押し当てられ、
「ここ、図書室」
何食わぬ顔で注意してきた。
奇声が一瞬で引っ込む。
誰のせいで取り乱しそうになったと思ってんの……!
そうだ、ここは図書室だ。
学校の関係者であれば誰もが自由に出入りできる公共の施設。自宅や個室とは訳が違う。
そんな場所で学院の模範生であるはずの生徒会長サマが、いかにも怪しい行為をしでかそうとしている。
誰かに見られてしまうかもしれない危険性もお構いなしに。
私の心境などつゆ知らず、感触を確かめるように夕莉の指が唇の上を這っていく。
時にはふにふにとつついたりして。
私からは夕莉に触れられないのをいいことに、好き放題弄くり回している。
ちょっと……くすぐったい。
いよいよマズいことになってきた。
どうにかして夕莉から逃れようと隙をうかがうも、私の目をじっと見つめており、まるで解放してくれる気配がない。
一時でも気が逸れた瞬間に思い切って体を後ろに引こうとしたけど、ネクタイを引っ張る夕莉の力が強すぎてピクリとも動けなかった。
……首が痛い。
さっきから暴れ回る犬を抑えるかの如く引っ張りまくってるけど、私のネクタイは手綱じゃないのよ……。
「何でいきなりこんなことすんのっ……」
なるべく大声は出さずに訴えるが、私の切迫した状態が伝わっていないのか、夕莉の表情に変化はなかった。
ついでに、顎に添えられた手も離してくれない。
「試しているのよ。奏向の"本気"を」
「はあ……!?」
意味がわからない。
"本気"? 何に対して?
なぜこのタイミング?
抜き打ちで付き人としての忍耐力でも試されているのだろうか。
主人が突然誘惑してきても、きちんと規則を守り切れるのか、みたいな。
だとしても、もう少しやり方ってもんがあるでしょ……!
「夕莉……! からかうのもいい加減にっ……」
「からかってない。奏向が、その気にさせるような態度をとるのがいけないのよ」
私のせい?
"その気に"って、どの気よ……!?
心を開いてきたとはいえ、今までの接触より明らかに度が過ぎている。
やっぱり、彼女の頭の中は全くもって理解できない。
頭が真っ白になりかけている間に、夕莉の鼻先が私の顔に触れた。
首を傾げて、すでに口付けする体勢に入っている。
この流れだともう、受け入れるしか――
「わかった! わかったから一回ストップッ!」
唇が重なるあと数ミリのところで、咄嗟に顔を逸らした。
……危ない、勢いで流されるところだった。
冷静に考えて、平気で不貞じみた行為をしようとする夕莉も、気を許しそうになった私も、どうかしている。
……うん、一旦落ち着け。
頭がえらく混乱しているけどなんとか平常心を取り戻してくれ私。
なぜ急に夕莉のスキンシップが過剰になったのか。
それだけ心を許してくれているとも考えられる。私もその気持ちに応えるべき、なのだろうか。
いや、それは自惚れだ。
夕莉は"試している"と言った。ここで誘惑に負ければ、彼女の思う壺なのでは……?
そもそも、私が夕莉に情を抱いていたとしても、その思いが前面に表れてしまうような行動をとるべきではない。
私が彼女の付き人でいる限りは。
だから、ここでやることはただ一つ。
「……ダメ元で許してもらいたいんだけど……今だけ、触れてもいい?」
恐る恐る、夕莉の表情をうかがう。
お預けを食らったかのように、不服そうなジト目で私を見ていた。
が、すぐ無表情に戻って、獲物を狙うような穏やかならぬ視線を向ける。
これで拒否されたら、もう為す術がない。
何を言っても聞いてくれない今の夕莉にされるがまま――
「……どうぞ」
いいんかい。
自分から聞いといて何だけど、今からルール破りますって宣言してるのにあっさり承諾しちゃって大丈夫かな。
「……本当にいいの?」
「ええ」
「言質とったから。クビにしないでよ」
「奏向がどう触ってくるのかによるけれど」
「あんたねぇ……」
すっかり主導権を握られている。
どうせその澄ました脅し文句も、私を試すために言ったんだ。
未だに私のネクタイを握り締めて、一歩たりとも逃がしてくれそうにない夕莉の手に視線を落とす。
屈んだままだから、そろそろ本気で腰がやられてしまう。
意を決して、目前にある夕莉の顔を真っ向から見つめ返した。
怖いほど真っ直ぐで、何かを待ち望んでいるかのような彼女の熱い眼差しに、一際大きく心臓が跳ねる。
夕莉は、私の気持ちを察しているのだろうか。
こんなにも胸の内を掻き乱すような真似をして、何が目的なんだろう。
気に食わない。
私だけが酷く恥ずかしい思いをするのは。
理由はわからないけれど、彼女の好き勝手にやられたままでは、何だか後味が悪くなるような気がして。
だから私は、自分の意思を表明するために。
夕莉の口を――片手でそっと押さえた。
「……軽々しく、その……しようとするのは、どうかと思う」
今の私にできる、精一杯の抵抗。
夕莉からされるのが嫌だったと言えば嘘になる。
ただ、それを受け入れてしまったら、もう元の関係には戻れなくなる気がした。
それに、いくら"試す"とはいえ、安易に唇を許すような行為はしてほしくない。
「…………」
口元を覆われた夕莉は、驚いたように目を見開いていた。
意地でも離すまいと私のネクタイを掴んでいた手が、徐々に緩んでいく。
そのタイミングを見計らって、少しずつ夕莉から距離をとる。
……はぁ。どうにか難を逃れた――
「こんなこと、軽い気持ちでするわけないでしょ」
すっかり緊張が途切れた、その瞬間。
冷たく吐き出された夕莉の声をはっきりと認識する暇もなく、不意にネクタイを強く引っ張られて。
「ッ……!?」
私の首筋に、夕莉が口付けした。
軽い接触、なんて優しいものじゃない。
私を引っ張った勢いのせいか、かぶりつくような、深みのあるキス。
唇の柔らかい感触と、ぬるっとした湿り気のあるものが
電気が流れたような衝撃が、体中を駆けた。
私の首筋に顔を埋めている夕莉は躊躇うことなく、下から上へ舐めるようにねっとりと舌を這わせる。
唇が離れたかと思えばすぐに押し付けて。
敏感なところを見つけては、執拗に甘噛みや接吻を繰り返す。
その度にびくっと体が反応して、変な声が出そうになる。
「ゆう、りッ……」
拒絶しなければいけないのに、抵抗するのも声を上げるのもままならない。
暫くして、ようやく夕莉の動きが止まった。
どれほどの間、耐えていただろうか。
おそらく一分も経っていないかもしれないけれど、時間がとてつもなく長く感じられた。
息を整えようとするのも束の間、得体の知れない感覚が再び訪れる。
あろうことか、夕莉は首筋に口をつけたまま話し始めた。
「いつも飄々としているあなたでも、余裕をなくすことがあるのね」
「っ……!」
唇の動きや生温い吐息がダイレクトに首筋に伝わって、何とも言いようのないゾクゾクとした感覚に襲われる。
心臓がこれでもかと暴れ狂って、呼吸をするのも忘れてしまう。
……やばい。体が尋常じゃなく熱い。
胸の奥が疼いて、抑えようのない欲情に駆られる。
だめだ……これ以上刺激されたら。
理性を保てなくなる。
自棄になって夕莉の腕を掴もうとしたら、ふと口付けられていた感触がなくなった。
首元から顔を離した夕莉は、私の肩に手を置いて、
「日頃のお返し。――これは、
トドメとばかりに、耳元で艶かしく囁いた。
おかしい。
"おかしい"以外の表現が見つからないくらい今日の夕莉は心の底からおかしい。
……完全に弱みを握られた。
羞恥心で消えたくなる。
何してくれたんだと、困惑と軽蔑の念を込めて夕莉を睨むが、心なしか無表情の中でほくそ笑んでいるように見えた。
満足したのか、夕莉はバッグを持って椅子から立ち上がる。
いつの間にか机の上にあった勉強道具は片付けられていた。
机に手をつき、荒くなっている呼吸を整えている私に向かって、何事もなかったかのように声をかける。
「帰るわよ」
……いやいや。
こんな状態で平然と一緒に帰れるか。
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