第58話 意識(1)

 しんどい。ただその一言に尽きる。

 何がしんどいって、たった一人で本校舎三階にある全てのトイレ掃除をしなければならないこと。


 なぜ三階かというと、そこが二年生のフロアだから。

 使い慣れている場所の方がいいでしょ、と辰巳先生は言っていたが、正直どこも一緒だ。意味のない気遣いだった。


 制服が汚れるといけないので、体操着に着替えてから取り掛かるのだけど。


 偶々私のその格好を見た雪平が、部活にでも入ったのかと訊いてきた。

 本当のことを言えば確実にからかってくるとわかっていたから、適当に誤魔化しておいた。


 部活か……。楽しそうだと思うけど、今の私にはそんな時間も余裕もない。

 それに、アルバイトを差し置いてまでやりたいとは思わなかった。


 そんなこんなで、トイレ掃除という名の罰を受けて一週間が経った放課後。


 最後の清掃がようやく終わり、私は急いで図書室へ向かっていた。

 約束の午後六時まで、あと五分。

 時間がギリギリすぎて、走りたくなる衝動に駆られる。


 けれど、廊下を疾走しているところを先生に目撃でもされたら、罰掃除だけじゃ済まなくなる。

 細心の注意を払いながら、早歩きの限界を維持していた。


 図書室に到着した時には、残り二分を切っていた。

 いつもの場所――私が自習で使っていた席まであと数メートルのところまで辿り着き、そこに座る夕莉の姿を捉える。


「お待たせ……」


 声をかけた直後、彼女の異変に気づいた。

 勉強していたのか、机の上にはノートや教科書が開かれている。

 いつもは私が近付くとすぐ視線を向けるのに、なぜか今回は反応がなかった。


 椅子の背もたれに背を預けて、僅かに俯いている。

 何事かと思って夕莉の顔を覗き込んでみると、目を瞑っていた。


「夕莉……寝てる……?」


 小さく肩を上下させて、規則正しい寝息を立てている。

 顔の前で手を振ってみるも、ピクリともせず鬱陶しそうにする気配すらなかった。


 待ちすぎて眠くなっちゃった……? だとすれば、本当に申し訳ない。

 すぐに夕莉を起こそうとして、ふと思い止まる。


 夕莉の寝顔、始めて見るな、と。

 どんな時も正しい姿勢で、電車の座席や中庭のベンチに座る時も背筋を伸ばしている彼女が、背もたれに寄り掛かるようなことがあるんだなと、つい関心を抱いてしまった。


 それに、警戒心が強いはずなのにこんな無防備な姿を見せるとは。

 咄嗟に周りを見回す。

 ……良かった、誰もいない。


 学校の中だから、不審者がいる可能性はかなり低いけれど。

 なんとなく、夕莉の寝顔を誰にも見られたくないと思ってしまった。


「こんなとこで寝てたら、肩凝るよ」


 ぼそっと注意してみたが、それでもまだ起きない。意外と眠りが深いな。


 こっそり隣に座ってみる。

 頬杖をつきながらじっと横顔を凝視しても、完全に意識を手放している今の夕莉には気づかれなかった。


 よほど疲れているのだろうか。

 それなら、なおさら早く起こして家に帰るべきなのに。


 俯きがちな横顔の造形が綺麗すぎて、つい目が離せなくなる。

 微動だにしない様子も相俟って、まるで精巧な彫刻でも眺めているようだ。


 初めて見た時から美人だなとは思っていた。

 でも、日常ではそこまで気にしたことがなかった。

 そもそも人に興味がなかったから、あまり他人の外見や容姿に意識が向かなかったのかもしれない。


 そんな私が冗談抜きに誰かを可愛いとか綺麗とか、心からそう感じるようになったのはここ最近だと思う。

 しかも、特定の相手に対して。

 その人物が、今まさに目の前で眠っているのだけど。


 いつ起きるかなーと思いながら見つめていたら、夕莉の耳にかかっていた髪がするりと垂れて、横顔が見えなくなった。


 無意識に。

 本当に何の下心もなく、無意識に彼女の垂れた髪を耳にかけようとして。


 私の指が髪に触れる寸前、もそっと夕莉の体が動き出した。


 むくりと背もたれから背中を離し、私の気配に気づいたのかゆっくり顔を向けてきた。

 こちらを見据える目は、僅かにぼんやりとしている。


「…………」


 ……おっと。この体勢は非常にマズい。

 もう少しで夕莉の髪に触れそうになっていた手を咄嗟に引っ込めた。

 そのまま伸びをして、何でもない風を装ってみる。


 故意じゃなければ触れてもいい、とは言ってくれたものの、明らかに触れようとしていたと思われても仕方がないこの状況では、詰められたらさすがに言い逃れできない。


 大体、いつの間にか隣に誰かが座ってたらびっくりするよね……。

 我ながら軽率な行動をとってしまった。


「……お、おはよー」

「…………」


 返事はなかった。

 不自然な振る舞いを突っ込まれることもなく、とりあえず一安心。


 代わりに、無表情のままカバンからスマホを取り出して、画面を確認するや否や目を細めた。


「……五分遅い」

「いやいや、ちゃんと時間通りに来たし。夕莉が寝てたから」


 横からチラッと見えた画面に表示されていた時刻は、十八時五分。

 やっぱり時間には厳しい。

 確かに今は約束の十八時を過ぎているけれど、私がここに着いたのは五分以上前だ。


 夕莉は寝ぼけ眼を擦りながら、特に怒った様子もなく問いかけてきた。


「……どうして起こさなかったの」

「起こしてほしかった?」

「私が自分で目を覚まさなければ、ずっとこのままでいるつもりだったのかしら」

「それも悪くないかも」


 癖でつい、からかうような言い方をしてしまった。

 でも、この発言は嘘でも戯言でもない。本当にそう思って出た言葉だ。

 夕莉が不満げに、ムスッとした顔で睨んでくる。


「……言っておくけど、送迎が必須とはいえ残業は推奨していないから」

「ああ……残業ね。夕莉はそう考えるか」

「どういう意味?」

「こっちの話」


 もし夕莉がこのまま起きなければ、午後七時までに家まで送れない可能性が出てしまう。


 終業時間を過ぎるからといって勝手に帰れるわけではなく、登下校時の護衛は絶対なので、その場合は残業という扱いになるそうだ。

 そうなると、ありがたいことに時給が割増されることになり、その分収入が増える。


 だから夕莉は、私の発言が増給目当てによるものだと思ったのだろう。

 確かにお金は欲しいけど、さすがにそこまでして卑怯な真似をしようとは考えない。


「純粋に、夕莉の寝顔を眺めてるのも悪くないなーって思っただけ」


 ふざけて言っても、真面目に言っても、きっと冗談だと捉えられてしまう。


 別に、夕莉に対してよこしまな気持ちを抱いているわけではないし、からかって振り回そうとも思わない。


 なぜか恥ずかしいという感情を覚えるようになってしまったけれど。

 それでも、自分の心を曖昧にしたままでいるのはやめようと思う。

 だからもう、この前みたいに言い訳はしない。


「――ていうのもあるけど。あのまま寝ていてくれたら、夕莉が隣にいてくれる時間が増えるでしょ」


 自分でも、どういう心境の変化だよ、と思うが……。

 全て冗談として受け止められてしまうのなら、いっそ開き直って、赤裸々に曝け出すのも悪くない。


 彼女と一緒にいると胸の奥がこそばゆくなるこのよくわからない感情も、本音を吐き出すことで解消するかもしれないし。


 さっきから密かに早くなっていた鼓動を落ち着かせたくて、誤魔化すように笑顔を向ける。


「…………」


 しかし、やはりというべきか、夕莉は私を凝視したまま無言で硬直している。

 ただ、眠気は覚めたようで両目はぱっちりしていた。

 覚醒させるためにわざと驚かせるようなことを言ったわけじゃないんだけどな……。


 まあ、彼女のその反応はもう慣れた。

 体の熱はまだ引いていないけれど、正直に気持ちを伝えられたから良しとしよう。


「……じゃ、帰ろっか」


 そろそろ図書室から出ようと思い、椅子から立ち上がったところで、横からくいっと袖を引っ張られる。

 振り向くと、半信半疑な様子で夕莉が私を見上げていた。


「本気で言ってる……?」

「うん」


 間髪を容れず頷く。

 くしゃっと、私の袖を掴む夕莉の手が力んだ。


 返事が早すぎて、逆にふざけていると思われただろうか。

 ここはもう少し間を置いてから返した方が良かったのでは……。

 咄嗟にそんな駆け引きができたら、伝わり方も変わっていたかもしれない。


 夕莉の頬が、薄く赤みがかっている。

 暫くすると照れたように顔を逸らす……はずなのに、今の夕莉は私から視線を外そうとしなかった。


 この場に引き留めるかのように袖をしっかりと掴んで、何かを言いたげな目で見つめてくる。


「……夕莉?」

「私の隣にいたいと思うのなら、どうしていつも……すぐに離れていこうとするの」


 指摘されて初めて気づく。

 確かに、夕莉の傍にいたいと思っている割には、自分から離れることがある。


 でもそれは、付き人として必要以上に距離を縮めないためで……いや、本当にそうだろうか。


 もっと心を開いてもらいたいし、私も歩み寄りたいという気持ちが芽生えている時点で、"必要以上"の範囲に踏み込んでしまっている気がする。


 じゃあ、なぜこんな矛盾した行動をとってしまうのだろう。


 夕莉からの問いに返答できず悶々としていた時。

 不意に彼女の手が伸びて、私のネクタイを掴んだ。そのまま強く引っ張られ、夕莉のすぐ目の前まで屈ませられる。


 相変わらずの容赦ない力加減に呻き声をあげそうになったが、真剣な眼差しに思わず息を呑んだ。


「私の勘違いではないのなら――」


 独り言のように小声でそう呟いたかと思えば、私をさらに引き寄せる。


 目と鼻の先にある夕莉の顔は、言葉を失うほどあまりにも端整で。

 つい見惚れてしまっていると、ほのかに温かい手が私の頬に添えられた。


「奏向は私にどんなことをされても、平気でいられる?」

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