第53話 結果(1)

 テスト期間中は特別な何かをするでもなく、普段通りに過ごしていた。


 朝は夕莉を迎えに行き、日中は学校でテストを受け、夕方以降は神坂家の家事のお手伝い。

 テスト勉強は終業後、就寝するまでの空き時間に費やす。

 そして土日の昼間は、常例の喫茶店バイト。


 テスト期間だからといって、アルバイトを休むという選択肢は私の中にはなかった。


 勉学と両立させるため、というのは建前で、本当は丸一日働かない日があるとどうも落ち着かないから。


 学校をサボってまで毎日アルバイトをしていた頃の習慣が未だ染み付いているせいか、働かないといけないという強迫観念のような思想が抜け切れていない。


 ちなみに、付き人のアルバイトもまたテスト期間だからといってお休みはできない。


 財閥令嬢のお世話係は余程のことがない限り、いかなる事情があれど平日は業務を遂行しなければならない義務がある……と、契約書に書いてあった。


 その代わり、土日祝日はしっかりお休みをもらっているから特に問題はなし。

 それでも結局、束の間の休日にも他のアルバイトを入れてしまっているのだけど。


 勉強のために多少睡眠時間を削りながらも、朝起きられなかったり、テスト中に眠くなったりすることはなく。

 四日間に及ぶ中間テストは無事、終わりを迎えた。


 そして、テスト終了から数日後。個票を受け取る時がやってきた。

 そのたった一枚の紙切れに、今後の運命を左右する結果が記されている。


 全てを出し切った自信はある。

 高校受験の時よりも頑張ったのだから、これで相応の成果が伴わなければおかしいくらいだ。


 けれど、もし万が一、想定外の結末になってしまったら……それはその時考えよう。


 辰巳先生から差し出された個票を受け取り、自席に着いてからゆっくりと目を通す。

 普通クラスの中で三位以内に入れば、退学は免れる。

 私の席次は――。


 順位を見て、深く息を吐く。

 不思議と心の中は酷く落ち着いていた。


 記された数字を目に焼き付けた後、おもむろにスマホを取り出す。

 どんな成績であれ、この結果を一番に報告したい相手がいた。

 チャットアプリを開いて、メッセージを送る。


『放課後、すぐ会える?』



   ◇



 待ち合わせに指定した場所は、図書室の一角。私がよく自習していた席だ。

 静かで、人が寄り付かなくて、誰にも邪魔されない。

 一人になりたい時もよくここに来ていた。


 椅子の背もたれに寄り掛かりながら、彼女が来るのを待つ。


 空調の音だけが鳴る静寂の中、遠くから足音が聞こえてきた。

 その音は徐々に大きくなっていき、こちらに近付いてくる。

 そして、お目当ての人物が姿を現した。


「お、こっちこっち」


 軽く手を上げると、それに気付いた夕莉が振り向く。

 確認するように私の顔を見た後、確かな足取りで向かいの席までやってきた。


「…………」

「そんな身構えなくても」


 硬い表情で私を凝視したまま棒立ちしている夕莉に、向かいの席をトントンと叩いて座るように促す。

 特に返事はなかったが、大人しく従ってくれた。


 向かい合う私たちの間には、これから面接でもするのかと思うほどの厳格な空気が流れている。

 夕莉の表情がピクリとも動かないから、そう感じるのかもしれないけれど……。


 用件を伝えていなくても、私が言わんとしていることを彼女は察しているはず。

 雰囲気で何となくわかる。

 多分、内心では私より緊張しているのではないかと。


 さぞかし身内から合格発表の結果を聞かされる時のような気持ちになっていることだろう。

 あんまり焦らすと可哀想なので、早速個票を取り出した。


「これ、一番最初に夕莉に見てもらいたくて」


 私の手にある紙切れを、夕莉は瞬きもせずに見つめている。


「どうなったと思う?」

「……あなたは、どんな結果でも平静を装っていられるの?」


 質問を質問で返された。

 こういう時の夕莉は頑なだからな……。私が答えるまで絶対に引かない。


 彼女の目から見て、今の私はどのように映っているのだろうか。

 きっといつも通り、かもしれない。


 成績が良かったのか、悪かったのか。

 私の態度だけでは判断がつかないから、こんな訊き方をしたのだと思う。


「動揺しないと言えば嘘になるけど。気持ちの切り替えは早い方かな」

「それは……」


 無表情だった夕莉の顔に、ほんの僅かな陰りが見えた。


 少し答え方が悪かったかもしれない。

 彼女を落ち込ませたいわけではないのに、不安を煽るような言い回しに聞こえてしまったか。


 視線を落とした夕莉に、私は笑顔を向ける。


「落胆するなら、これ見てからにしようか」


 個票を差し出すと、悠然とした動作で手に取る。


 険しい眼差しでその中身を確認していた夕莉の目がふと、見開かれた。

 かと思えば、驚いたように顔を上げて私を見る。

 くりくりとした瞳は、煌めいて見えるほどに澄んでいた。


 さっきまでの不安げな様子はどこへやら。


「いやー、ギリギリだったね。一問でも落としてたら、多分順位下がってたかも」


 今回の中間テストの結果。

 コース別の席次、つまり普通クラスの中で私は、三位だった。

 そしてE組内では一位という信じられない快挙。


 この結果を最初に見た時、嬉しいという気持ち以上に安心感がまさった。

 これで退学にならずに済む、まだ夕莉の傍にいられるのだと。


 内心では自画自賛が止まらなかった。

 夕莉の反応を見るのが楽しみで、早く放課後にならないかとワクワクしながら。


 案の定、彼女はこれまでにないほど驚いているようだ。

 目を見張ったまま私を凝視している。

 傍から見ればリアクションはかなり薄いのだけど。


 何はともあれ、朗報を伝えることができて良かった。


 冷静になってきたのか、にこにこ顔の私から目を離した夕莉は、無表情に戻ってもう一度個票に視線を移すと、


「――よく、頑張ったわね」


 嬉しそうに、微笑んだ。


 突然のことで、つい思考が止まる。


 初めてだったから。

 穏やかな表情で、私でも喜んでいるとわかるほどの笑顔を見せてくれるのは。


 こんな優しい目で笑うんだ。


 綺麗な笑顔に、不覚にも――見惚れた。


 その瞬間、心臓が大きく脈打つ。

 知らぬ間にどんどん鼓動が早くなっていく。


 ……なんだ、これ。

 激しい運動をした後の動悸のような……似ているけれど何か違う。


 緊張? まさか。

 夕莉相手に今さら緊張するなんて……。


 そもそもこの動悸を引き起こした原因が夕莉にあるとなぜ思った? 彼女の笑顔を初めて見たから?

 多分……いや、きっとそうだ。

 でも、どうして――


「奏向……?」

「……っ」


 視線を上げた夕莉が、固まっている私に気付いて小首を傾げる。

 そこでようやく意識が引き戻された。


 さっきまで上機嫌だったのに、突然黙り始めたら怪しまれる。


 何か……何か言わなければ。


「──笑った顔も可愛いなって、思って」


 ……バカ正直にも程があるでしょ。


 いきなりだけど、私は今非常に困惑している。

 得体の知れない感情を覚えたことはもちろん、ド直球に"可愛い"という言葉が口から出てしまったことに。

 我に返って、すぐさま夕莉から顔を背ける。


 別に、発言そのものは何らおかしくないはずだ。


 美味しい食べ物を食べて「美味しい」と言ったり、怖い映像を観て「怖い」と言ったり、ありのままの感想を何も考えずにポロッと口にするのと同じ。


 だから、可愛いと感じたものに「可愛い」と言うことに対して、恥ずかしさを覚える必要なんてないのに。


 これは……そう、夕莉をからかうための冗談。

 無表情ばかりの夕莉も、ちゃんと笑うことができるのだといじるための。

 これまでだって、何気なく冗談で褒めたりすることもあった。


 なのに……自分の発言を改めて咀嚼してから、なぜか顔が火照りだして治まらない。

 手の甲で頬を冷やしてみるも、指先まで熱くなっていて逆効果だった。


 そうこうしているうちに、向かいの椅子の動く音が聞こえた。


「……加賀宮さんのところへ報告しに行きましょう」


 咄嗟に顔を上げると、椅子から立ち上がった夕莉がすでに踵を返していた。

 そのため、表情を確認することはできなかった。


 受け流された……と信じたい。

 本気で言ったと思われて、お互い気まずくなるのだけは勘弁願いたいので。


 でも、可愛いと思ったことは紛れもなく本心で……本気の度合いを勘違いされたくないというか、そこまで真に受けないでほしいというか……って、なんで必死に言い訳を考えてんだ。


 大体、同性相手に「可愛い」なんて誰でも当たり前に言うでしょーが。

 私の本心が夕莉に伝わってしまうことの、一体何が問題だというのか……。


 悶々としている間に、夕莉は先に行ってしまった。

 いつの間にかテーブルの上に返されていた個票を手に取り、急いで彼女の後を追う。


 向かっている先は、おそらく生徒会室。

 加賀宮さんはもう待機しているのだろうか。

 彼女の出した条件を無事達成できて喜ぶべきところなのに、今は感情がごちゃごちゃだ。


 考え事のせいで、夕莉の後ろをついていくのがやっと……なんか、歩くの早くない?


「夕莉」


 加賀宮さんを待たせたくない、というのも考えられるけど、それにしても随分早足だ。

 まるで、私から逃げているようにも思える。


 名前を呼んでも、足を止めるどころかスピードを落とす気配もない。

 まさか、地雷踏んだ……?


「さっきの、不快に思ったなら謝る――」

「違う」


 突然私の言葉を遮り、ピタリと歩みを止めた。私も倣って、彼女の後ろに立ち止まる。

 何となく、今は隣に行ったら避けられそうな気がして。


 俯いている夕莉の手は、ぎゅっと握り締められていた。


「……わかっているの。奏向は、冗談で私にあんな顔を見せたりしないと。だから余計に――」


 私に対してではなく、自分に言い聞かせているようで。


「勘違いしそうになる」


 その声には、何かを堪えるような苦しさが滲んでいた。

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