第51話 隣にいたい

「――みたいなことがあって。もう散々でしたよ」

「それは、災難でしたね……」


 杏華さんと一緒にキッチンで夕食の支度をしながら、雑談の延長で愚痴を聞いてもらっていた。


 近頃起こったとんでもない出来事といえば、ストーカー冤罪事件と、暴力行為がバレて副会長から恫喝の二件。

 どちらも学校では公にできないほどの内容なので、鬱屈を晴らす場がなかったのだけど。


 私の異変を感じ取った杏華さんが言葉巧みに誘導して、気付けば不平不満をするすると話してしまっていた。


 仕事中はなるべく私情を表に出さないようにしていたけど、杏華さんには些細な機微も察知されてしまうようで。


 聞き上手ということもあり、彼女と話していると打ち明けるつもりのないことまで口を滑らせてしまいそうになる。

 けれど、そのおかげで多少はストレスを発散できた。


「私は信じていますよ。奏向さんならきっと、上位の成績を収められると」

「あはは……そう言ってくれるのは杏華さんだけですね」


 微笑みながらかけてくれる言葉に全く嫌味がなく、むしろ本心なのではと思い込んでしまうほど純粋だった。


 応援されているのに、不思議と重圧は感じない。

 逆にやる気さえ湧いてくるから、素直に嬉しくなる。


「お嬢様も私と同じ気持ちだと思います」

「夕莉が、ですか? ほんとかな……」


 心配することはあっても、期待しているような感じには見えなかったけどな。

 私の今の学力で上位になれるか云々と懸念していたし。


 でも、私よりも断然夕莉のことをわかっている杏華さんが言うのなら、本当……なのかもしれない。


 だとしても、ほとんど感情を出さない夕莉が私を信じてくれているなんて、想像すらしなかった。


「嘘だと思いますか?」

「まぁ、にわかには信じ難いですけど。夕莉はなかなか本心を見せてくれませんから」

「おや……そうでしょうか」


 予想外の言葉に、煮込んでいたスープの様子を見ようとしていた視線を、咄嗟に杏華さんの方へ向ける。


 少し驚いたように目を丸くして私を見据える彼女も、ミトンをはめようとした手を止めていた。


 ちなみに、私が今作っているのは野菜たっぷりのミネストローネ。

 じゃがいもとか玉ねぎとかキャベツとか、もちろんにんじんも入っている。


 ただ、にんじんが嫌いな夕莉のために、これでもかと細かく切り刻んで原形を留めないようにしたから、多分混入されていることはバレないと思う。


 ぐつぐつとスープの煮込む音だけが響く。

 謎の沈黙が暫し流れた後、呆気に取られていた杏華さんがクスッと笑い破顔した。


「……なるほど。奏向さんは意外と鈍感だったんですね」

「ん……? どういうことですか?」


 どこか楽しそうに笑う彼女とは対照的に、理解が追いつかず首を傾げる私。

 何か笑わせるようなことでも言ったっけ。


「今でも、お嬢様は貴女に心を閉ざしていると?」

「そう、だと思い……」


 ます。と言いかけて、はたと思い止まる。

 果たして、夕莉は本当に今でも心を閉ざしていると言い切れるのだろうかと。


 出会った当初の印象は、一言で表すなら"無"だった。

 彼女に対して何も感じることがなかったとか、そういう意味ではなく。


 淡々としていて、感情が見えなくて。

 露骨に笑うことも怒ることもなく、ただずっと無表情で、何事にも諦観している。

 そんな雰囲気が冷たく映ることもあって。


 夕莉の心は、誰も寄せ付けないよう分厚い壁に守られているんだろうなと、他人事のように何気なく感じた。


 元々、雇用契約で結ばれただけの関係だから、無理に彼女の内面を理解したいとは思わなかった。


 けれど、毎日登下校を共にして、学校では見せない家での姿も目にして。

 少しずつ、意外だなと思うような一面を垣間見ることが増えてきた。


 ほとんど真顔しか見せなかった彼女の表情が、軽微ながらも徐々に色を帯びていく。

 その変化に、私は気付いていたはずだ。


 もちろん、何を考えているのかわからないことの方がまだまだ多いけれど。


「今のお嬢様を見ていると――昔を思い出します。きっと、奏向さんに出会ったおかげでしょうね」


 過去を懐かしむように、杏華さんは目を細めて穏やかに微笑んだ。


 昔の夕莉がどんな子だったのかはわからない。

 幼い頃から無愛想だったのか、それとも、元は明るかったけど何かのきっかけで今のような性格になってしまったのか。


 どちらにしろ、過去の夕莉を知っている杏華さんがそう感じるということは、少なからず私たちが出会った時に比べて夕莉の中の何かが変わってきているということ。


 彼女が"無"以外の顔を見せてくれるようになってきた契機が、杏華さんの言う通り私にあるのなら――。


「――そろそろ、スープが出来上がる頃合いでしょうか」

「……あ、ごめんなさい」


 考え事をしていたせいで、鍋から完全に意識が逸れてしまった。

 すぐさま火を弱め、最後の味見をする。

 ……うん、悪くない。


 杏華さんのさりげない気配りに感謝しつつ、配膳の準備をしようとした時。


「こちらはもう大丈夫ですので、奏向さんはお嬢様をお呼びしてきてくださると助かります」

「わかりました」


 いつの間にか、オーブンから焼き上がったグラタンが取り出されていた。

 ほんのり焦げたチーズの匂いが食欲をそそる。


 いつもなら、出来上がったご飯の匂いに誘われるように、見計らったタイミングで夕莉がやって来るのだけど、今日はその気配がない。


 杏華さんにお願いされ、私はエプロンを外し持ち場を離れた。


 神坂家の邸宅はとにかく広い。

 家とは思えないほどの広さに、ちょっとの移動でも億劫にならないかと心配になるくらいに。


 お手洗いに行くのも面倒なのではなんて思った矢先に、トイレが三つあると教えられた時の衝撃たるや。

 何で住んでる人の数より多いの? と仰天せずにはいられなかった。


 でも、ここまで広ければトイレだけじゃなく、お風呂やキッチンが二つや三つあってもおかしくないのかもしれない。


 そして、ダイニングから夕莉の自室までも、そこそこ距離がある。


 家の中でウォーキングできるじゃん、と何度抱いたかもわからない感想を心の中で呟きながら歩いていたら、目的の部屋に着いた。


 ノックをしようと手を上げた瞬間、唐突に目の前のドアが開き、中から夕莉が現れる。

 ゆったりとした部屋着にメガネをかけた完全オフモードの姿で、私を視認するや驚いたように瞠目していた。


「……びっくりさせないで」

「いやいや、あんたこそ」


 心の準備ができる前に来られたのだから、心臓が飛び跳ねたのは言うまでもない。


 これがもし外開きのドアだったら、デコピンよりも強烈な衝撃を受けていただろう。

 想像しただけでおでこが痛くなる。


「勉強してた?」

「……ええ」

「偉い偉い。……テスト明日からだし、当たり前か」


 早いもので、加賀宮さんから果たし状を突き付けられてから一週間が経とうとしている。

 そして、私の運命が決まると言っても過言ではない勝負の時が、明日から始まるのだ。


 一学期の中間テストの成績次第で退学になるかもしれない生徒なんて、世の中にどれくらいいるんだろうか……。


「あなたは大丈夫なの?」

「とりあえず、やれるだけのことはやったかな。退学になったら、夕莉のお世話係もクビになっちゃうかもでしょ。だからヘマする気はないよ」

「……そう」


 ありがたいことに今日まで毎日、雪平と木崎さんが勉強会に付き合ってくれたおかげで、だいぶ対策はできた。

 あとは己の力を信じるのみ。


 問題はないと意思表示をしたつもりだったけど、心なしか夕莉のテンションは低い。

 よっぽど信用されていないのか何なのか……。


 こんな期待の欠片もしていないような表情を見たら、杏華さんの言葉は気休めだったのかと思ってしまう。


 でも、夕莉が私を信じようが信じまいが、どっちだっていい。

 退学になりたくないから最善を尽くす。

 その意志だけは、絶対に誰かの期待や思いによって揺らいだりはしない。


「そんなに、クビにされたくない?」

「そりゃそうでしょ。……え、いきなり権力振りかざすのはやめてくんない?」

「違うわ。……"お金にしか興味がない"と、前に言っていたから」

「ああ……確かに言ったね」


 突然何を訊いてくるかと思えば。

 契約したての頃に、私が豪語した言葉だ。


 アルバイトをしている大半の人は、お金のために働いているのではないだろうか。

 何らかの理由で辞めたいと思っている人は例外として、職を失ったら困るはず。


 今もこれからも、私は学費や生活費を稼ぐために働く。そのスタンスは変わらない。


 ――と、最近までは思っていた。

 決してお金に興味がなくなったわけではなくて、むしろ今でもがめつさは健在なのだけど。


「夕莉は、私がクビにされたくない理由はお金のためだけだと思ってる?」


 違うの? と疑わしくも不安げにじっと目を向けてくる夕莉に、私は笑いかける。


「もう一つあるよ」


 学費や生活費のためであるほかに、付き人のアルバイトを辞めたくないと思う理由がもう一つ、できた。


 いつも無表情で無愛想で、態度も言動も淡白で、最初は私の名前すら呼んでくれなかった彼女が。

 少しずつでも心を開いてくれている、その変化に私は喜びを感じているのだと、気付いたから。


 もし、今以上に心を許し合える仲になれたら、この先もっと、彼女といる時間が楽しくなるだろうなと――


「私が付き人でいる間、せめて高校を卒業するまでに一度は――夕莉の笑った顔が見たいな」


 夕莉が変わっていく姿を、これからも近くで見届けることができたら嬉しいなと。そう思った。


「だからまだ、ここにいたい」


 あの時のお返しに少しだけ、本心を晒してみた。


 私を瞬きもせずに見つめていた夕莉が、大きく目を見開く。

 次第に目が泳ぎ始めて、終いには口元を押さえながら顔を逸らしてしまった。


 さっきまで陶器のように白かった頬の色が、瞬く間に赤く染まっていく。

 夕莉のこういう顔、最近見るようになったな……。


 ……あれ、ちょっと待って。

 そういや、"お金にしか興味ない"って言ったのと同じ時に、"仕事に私情は持ち込まない"みたいなことも明言した気がする。

 普通に破っちゃってどうすんのよ。


 いや、私情を抱くこと自体は悪くなくて、それが仕事に影響したらダメってことで、別にただ私の思いを伝えるだけなら何も問題はないはず…………はぁ、ややこしくなるからやっぱ撤回しとこ。


「ごめん、今の忘れて。……あ、夕飯出来上がったから」


 今頃になって夕莉の部屋まで来た本来の目的を思い出し、誤魔化すように用件を伝える。

 踵を返し、ダイニングに戻ろうとしたら。


「奏向」


 手首を掴まれ、その場に引き留められる。

 振り返って見た夕莉の顔に、思わず息を呑んだ。


 メガネ越しに交わる彼女の視線が、何かを言いたげに揺れる瞳が、どこか煽情的だったから。

 私の手首を掴む夕莉の手から、ほのかに熱が伝わってくる。


「……その…………」


 そっと俯いて、躊躇うように声を発した。

 夕莉が口を噤んでいる間も、私の手首を握り続けている。


 ……熱い。

 夕莉の手じゃなくて、私の体が。

 おかしい。彼女に触れられると、なぜか体温が上がってしまうようになった。


 謎の現象に困惑していた時、顔を上げた夕莉と目が合う。

 その眼差しからは、確かな意志を汲み取ることができた。


「信じているから。奏向がこれからも……私の隣にいてくれると」


 真っ直ぐに告げられた彼女の思いに、自然と笑みがこぼれる。


「──うん」


 自分でも驚くほど、気持ちが高揚していくのを感じた。そして、この上なく安心する。

 その言葉は、私が傍に居続けることを望んでくれている何よりの証だった。

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