第50話 勉強会(2)
* * *
定期考査まで一週間を切り始めると、生徒会の臨時業務や緊急で対応しなければならない事案を除いて、夕莉は真っ先に下校してしまうということを、詩恩は知っていた。
その理由が、学校ではなく自宅でテスト勉強に励むためであることも。
不特定多数の人が利用するような施設で自習をするのは、どうやら苦手らしい。
その証拠に、図書室や自習室で勉強をしている姿を一度も見たことがない。
常に夕莉の動向を観察している詩恩にとっては、把握していて当然の情報だった。
二年生に進級して、最初の定期考査である一学期の中間試験が迫ってきた時期。
例によって、帰りのホームルームが終わった瞬間に夕莉は一人で帰ってしまうのだろうと、詩恩は物悲しげに彼女の姿を目で追う。
そうしているうちに目が離せなくなり、今度は無意識に後をつけてしまうのが常なのだ。
ところが、今日の夕莉はいつもと違った。
バッグを片手に、教室を出て昇降口へ向かうかと思いきや、全く反対の方向へ歩いていく。
普段と変わった行動から、彼女の身に何か異変でも起こったのだろうかと心配になる。
まさか、あの蛮人と逢瀬を――?
夕莉が奏向と一緒にいる場面を多々目撃するようになってから、変なことをされていないかと毎日気が気でなかった。
入学してから誰とも登下校を共にしなかった彼女がどういうわけか、奏向が近付くことを拒んでいない。
自分は幾度となく誘いを断られているというのに。
毎回申し訳なさそうに目を伏せる顔も麗しいので、拒否されてもむしろ詩恩にとってはご褒美なのだが。
先日、夕莉が奏向と付き合っているという衝撃的な事実を本人の口から聞いてしまった。
けれど、当然今でも信じていないし、これからも一生真に受けることはない。
とはいえ、当人がその関係性を認めていた以上、大変嘆かわしいことだが、二人がこっそりと密会を重ねていてもおかしくはないのだ。
想像しただけでも悍ましい――が、奏向を受け入れているように見えなくもない最近の夕莉の様子からすると、その可能性もきっぱりと否定できなかった。
悶々としている間に、とある場所まで来た夕莉が足を止めた。
詩恩も咄嗟に立ち止まり、柱の陰に身を隠す。
彼女が向かった先は馴染みのある場所、生徒会室だった。
生徒会でやるべき仕事は今はないはずだが、一体どんな用件でここに足を運んだのだろうか。
もしや、あの中で二人が――。
最悪の事態が一瞬でも脳裏を過る。
生徒会の仕事場である神聖な部屋で、不純な行為など決してあってはならない。
ましてやその当事者が、最も傾倒する人と最も嫌悪する人だなんて。
卒倒しそうになる体に鞭を打って、どうにか意識を保つ。
万が一にもそのようなことがあるのなら、何としてもでも食い止めなければ。
しかし、仮にあらぬ現場を目撃してしまったら立ち直れる気がしない。
うだうだと葛藤しているうちにも、時間は過ぎていく。
すれ違う生徒に、怪訝な顔ながら挨拶をされたのも数回。
意を決した詩恩は、表情を強張らせて生徒会室の前に立つ。
大きく息を吸って、ドアをノックした。
数秒遅れて返ってきたのは、「はい」という透き通った声。夕莉のもので間違いない。
不安になる気持ちを抑えながら「失礼いたします」と一言添えて入室する。
室内には――打ち合わせ用テーブルの端に座り、ペンを持って何やら作業をしている夕莉だけがいた。
辺りを見回しても、人の気配はない。
ここには、彼女一人しかいなかった。
「夕莉さん……こちらで何をなさっているのですか……?」
困惑しつつ胸を撫で下ろす詩恩を一瞥して、夕莉はすぐに手元のノートへ視線を戻す。
「見ての通り、自習だけれど」
「自習、でしたか……珍しいですわね。てっきりあの蛮人と逢引でも……」
口にしてから、しまったと後悔する。
彼女の前で自ら好ましくない相手の、しかも色恋の話題を出すなんて。
不安や心配で平静を失い、不覚にも心の声が漏れてしまった。
これでは、二人の関係をしつこく気にしていることを露呈してしまったようなものだ。
慌てて口元を押さえるが、当然ながらもう遅い。
詩恩の失言に、夕莉の手が止まった。
再び視線を上げ、呆然と立ち尽くす詩恩を見やる。
「い、いえ、これは断じてお二人の関係を認めたわけでも逆に揶揄したわけでもなく……二色奏向が抜け駆けをしていないかと危惧するあまり良からぬ事態を想定してしまい……そ、そうですわ……あの蛮人は素行不良で信用の欠片もありませんから夕莉さんを誑かしていないかわたくしはとても心配であわよくば新たな弱みでも握ろうかと……」
言い訳をすればするほど裏目に出る。
大体、試験前に逢引などという軽率な行動を、夕莉がとるはずがない。
しかし、彼女のことを心から慕う気持ちと同じくらい、奏向への嫉妬心が強く、一度沸き出た不快感はなかなか抑えきれないのだ。
できることなら、夕莉に奏向を意識させるような話などしたくはない。
けれど、二人の関係を何が何でも認めるわけにはいかず、仲を引き離すためにお節介を焼いてしまう。
奏向を非難する文句が止まらない詩恩に、夕莉は小さく息を吐いて視線を落とした。
そして、そっと口を開く。
「…………あまり、あの子をいじめないで」
表情こそ変化はないものの、その声は悲しげに沈んでいるように聞こえた。
想定外の反応に、詩恩は目を見開く。
同時に、やりきれない感情が沸々と込み上げてきた。
悔しさに歯を食いしばり、強く手を握り締める。
「……なぜ、そこまでして彼女を庇うのですか」
夕莉はこの学院の生徒会長だ。
学院生活の改善や向上のために生徒の声を聞き尽力する。
しかし、いくら生徒たちの意見を代弁する立場だからといって、ある特定の一人に特段目をかけるような扱いをするのは、さすがに如何なものか。
「貴女と二色奏向は一体どこでどのようなきっかけがあって関わりを持つようになったのですか。彼女が周りに悪影響を及ぼしかねない問題児であることはご存知だったはずですの。なぜそのような方を贔屓にするような言動をなさるのですか。以前までの貴女ならどなたに対しても一線を引いて余計な情をかけたりは……」
「あの子と知り合って今に至るまでの経緯を一から十まで、あなたに説明しないといけない?」
その質問は裏を返せば、"あなたに話すことは何もない"という言葉と同義だった。
その瞬間、詩恩は悟った。
自分と夕莉の距離は、今もなお遠いのだと。
それどころか、突如現れた得体の知れない不良の方が心を開かれている。
屈辱的だった。
奏向を敵視するたった一つの理由は、まさしくそこにある。
入学してからずっと、夕莉の隣は自分だけのものだと思っていた。
クラスが同じで、生徒会でも行動を共にしており、学院にいる誰よりも彼女と過ごしている時間は長いのだから。
夕莉は誰とでも分け隔てなく接する反面、決して内面を触れられないように一定の距離を置く。
それは、詩恩相手でも例外ではなかった。
けれど、それでも構わなかった。
本当の意味で打ち解けられる一番最初の人が自分になるよう、これからも好意をアピールしていけばいい。
いつかは振り向いてくれる、彼女のいろんな初めてを引き出すのは自分の役目だと、そう信じていたのに。
安心したような穏やかな雰囲気も、照れ隠しをするように頬を赤らめて口を結ぶ様子も、今まで見たことのない表情を夕莉がしているのは、いつだって奏向の傍にいる時だった。
大事な人を突然横取りされて、嫌悪感を抱かないわけがない。
「それを訊くためにここへ来たのなら、悪いけれど退室してくれるかしら。勉強に集中できないわ」
閉口したまま微動だにしない詩恩を前にしても、夕莉は相変わらず感情のない声でそう促すだけだった。
彼女は今だって、どんな時も同じ態度で接してくれる。良くも悪くも。
変化のない関係値に打ちひしがれる中、詩恩の内心ではある感情が生まれていた。
「……申し訳ございません。少々取り乱してしまいました」
気持ちを切り替えるように表情を引き締めると、詩恩はそのまま夕莉の対角に着席した。
「わたくしもこちらで自習させていただきますわ」
詩恩の行動に何も言わず、夕莉は自習を再開した。
"好きにしなさい"という意味であるとわかっているので、安心して居座ることにする。
今はまだ、夕莉との距離に変化はないのかもしれない。そう、今は。
邪魔者が消えてくれるのは時間の問題だ。
惨めな思いをするのは、それまでの辛抱である。
彼女との仲はその後でじっくりと深めればいい。
何より、いつものように夕莉から冷めた視線を向けられるのは非常にそそられる。
だから、この不安定な状態を我慢するのも悪い気はしない。
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