第39話 傷跡

 夕莉に土下座をしたあの日から三日後の朝。

 いつものようにマンションのエントランスホールで待っていると、時間通りに彼女がやってきた。


 今日も相変わらずの涼しげな表情……と思いきや、何やら様子がおかしい。


 人によっては近寄り難いと思わせるような端麗すぎるその顔に、どこか陰を感じさせる暗さがあった。

 じっと私を凝視する目は、鋭く睨んでいるように見えなくもない。


「どうかした?」


 初めはまるで能面のようだった夕莉の凝り固まった表情から、徐々に感情の機微を読み取れるようになってきたかなと思い始めた今日この頃。


 あくまで挨拶をするような軽いノリで探ってみるも、返事はなく。

 咎めるような視線でしばらく私を見た後、ぷいっと顔を逸らして歩き始めた。


 ……え、私なんかした? 全く思い当たる節がないんだけど。

 そもそも、いつも以上に素っ気ない態度の原因が私にあるのかすら不明だった。


 ひとまず、先を歩く夕莉の後ろについていく。普段通りの速さで歩く彼女に、もう一度声を掛けてみた。


「夕莉――」

「昨日と一昨日、何をしていたの」

「……はい?」


 私が名前を呼ぶのとほぼ同時に、夕莉が背中越しに冷めた声で問い掛ける。

 昨日と一昨年は土日だったから、普通に喫茶店でアルバイトをしていた。

 掛け持ちしていることは彼女も知っているはずだ。


 それ以外の時間は、ほぼ勉強に充てていたけど……何で急にそんなこと聞くんだろう。


「バイトだけど」

「あなたは馬鹿なの?」

「へ?」


 いきなり"馬鹿"呼ばわりされて意味がわからず、間抜けな声が出てしまった。


 罵倒されるような回答は断じてしていない。アルバイトをしていたという行為が、いつから"馬鹿"として扱われるようになったのか教えてほしいくらいだ。


 こんな理不尽な暴言を吐かれたのは人生で初めてかもしれない。


 夕莉の気が立つようなイントネーションの付け方をしていたとか……いや、私が第一声を放つ前から既にあんな態度だった。八つ当たり、にしては棘がありすぎやしないか?


 ……あー、モヤモヤする。前までこんなに誰かの機嫌を気にしたことなんてなかったのに。


「私との約束、覚えているわよね」

「もちろん」


 数日前の印象深い出来事を忘れてしまうほど、私の記憶力は乏しくない。

 それに、約束を交わして速攻で反故にするほど頭がイカれているわけでもない。

 "夕莉を不安にさせない"という約束をなぜここで持ち出されるのか。


「先生から安静にしていろと言われなかった?」

「言われた」


 だから、あの日は夕莉からスマホを受け取った後すぐに帰宅して、勉強も休んで早めに就寝した。


 完治したとは言い切れないけど、私にとっては日常生活に支障をきたすような外傷でもなく、体を動かしても特に問題はないと判断して、翌日からいつも通りの生活を送っていただけなんだけど。


「怪我は治ったの?」

「ほぼ治った」


 不意に、前を歩いていた夕莉の足が止まる。くるりと踵を返すと、私の元まで引き返してきた。

 額に貼ってある大判の絆創膏をじっと見つめて、おもむろに腕を上げる。

 次の瞬間、思い切りそこを中指で弾いた。


「いだぁっ!」

「嘘、治ってないじゃない」

「あんたがデコピンしたからでしょーが……!」


 まだカサブタにもなっていない傷にいきなり容赦なく指先ぶつけてくるなんて、やること鬼畜すぎない……!?

 しかもかなりの力でかまされたら誰だって痛がるわ。下手すれば殴られた時より痛い。


 曲がりなりにも怪我人相手に、何でそんな所業ができるわけ? 絶対今ので傷口開いた……あ、涙出そう。


 あまりの激痛に額を抑えながら悶えていたら、今度は手首を掴まれて引っ張られる。

 夕莉の顔が近付き、またしても彼女の視線が私の額に向いていることを察した。


 またデコピンする気か……!? 二度も同じ手にはかからない――


「……この傷、どうしたの」

「…………ん?」


 手首を掴まれていない方の腕で咄嗟に防ごうとしたけど、返ってきたのは中指ではなく。

 真面目なトーンでおかしなことを聞いてきた。


 さっきまで私のおでこを穴が開くほど見ておいて、急にすっとぼけるなんてどんな神経してんのよ。


「何言ってんの。ついこの前負った怪我じゃん」

「違う。ここ」


 そう言って彼女の手が触れたのは、絆創膏が貼られていない場所だった。

 前髪でちょうど隠れて見えない、生え際にあるそこそこ大きな盛り上がった傷跡。


 腫れ物に触るような手つきで、優しく撫でられる。労わるならデコピンしたところにしてほしいんだけど……。


 夕莉の関心は既に別の傷跡に向いており、先程までの険悪な雰囲気はいつの間にか消えていた。

 代わりに、心配そうに目を細めている。

 指摘されて、そういえばそんなのあったなと気付く。


「これは……見ての通り古傷」

「そんな誰でもわかることではなくて、どうしてこの傷ができたのかを聞いているのよ」


 まるで尋問しているかのような威圧感だ。

 何も悪いことをしていないはずなのに変に萎縮してしまうのは、夕莉があまりにも強い目力で私を見つめるからだろう。


 また不信感を抱かれそうだし、隠し事はしない方がいいか……別に隠すほどの事情があるわけではないけど。


「中学生の時にできたものだよ。まぁ……事故? みたいな」

「"事故"?」


 これは正直に言うべきなのだろうか。

 事故というか、自分から首を突っ込んで招いた失態というか……。

 事実をそのまま明かすよりも、少しオブラートに包んだ方がいいかもしれない。


「昔、ちょっとヤンチャしててさ。怪我するのはよくある事だったから、どんな状況でこの傷が付いたのかはあんまり覚えてないんだ。……あ、もちろん今はちゃんと更生してるから」


 全くのでたらめを話したわけではないし、内容はあながち間違いでもない。

 記憶が曖昧であると濁すことで、深く言及してくることもないはず。


 意外と心配性な夕莉は、先日の一件で私の行動には敏感になっているだろうし、懸念材料になりそうな事柄は伏せた方がいいかも。


「ただの皮膚の一部って感じだし、気にするほどじゃないよ」


 なので、この話題はもう終わり。

 無駄に距離の近い夕莉からさりげなく離れようとしたけど、手首を掴まれたままだったので呆気なく引き留められた。


 明らかに納得していないような視線を向けている。

 もう……今度は何? そんなに怪しまれるような態度だった――


「……本当に、覚えてない?」

「……?」


 問い詰めるような抑圧感とは打って変わって、一瞬だけ寂しそうに目を伏せた夕莉の表情に、私は茫然としてしまった。


「……あ、うん」


 思い出したように気の抜けた返答をする。

 "ヤンチャしてた"とか"怪我は当たり前だった"然々の発言に反応するのではなく、まさかそこを突っ込まれるとは思っていなくて。


 古傷ができた詳しい経緯なんて、そこまで気になるような事なのだろうか。


 不機嫌だった理由もそうだけど、彼女がどんなことに興味を持って、どんなことに反感を抱くのか、付き人になって約一ヶ月半経った今でもわからない。


 冷たい表情の裏に隠された本心を覗かせたかと思えば、すぐに引っ込めて何もなかったかのように装う。

 まるで、無理やり感情を押し殺しているみたいだ。


「痛みはあるの?」

「全然。跡は残っちゃってるけど、なんともない」

「そう……」


 何か言いたげな目をしていたけど、この問答を最後に夕莉は再び無表情に戻って、私に背を向けた。


 ……んー。言いたいことがあるなら、正直に言ってくれていいのに。

 彼女は私の主人で、私は彼女の付き人。

 命令一つで私を好きに使える権利を持っているのだから、気を遣う必要なんてないはずなのだ。


 毎度含みを持たせた態度を取られると、さすがに気になってくる。


 最初は、あくまで付き人として接するつもりだった。

 とは言っても、傍から見ればとても付き人とは思えないような、フランクな振る舞いをしていたかもしれないけれど。


 上辺だけの関係を取り繕うために、必要以上に深入りしないし干渉もしない。


 付き人のルールを守るという意味も含め、これからもそのスタンスを維持していくのだろうと、漠然と考えていた。


 だけどあの日、夕莉の辛そうな顔は見たくないと思ってしまったから。

 こんな気持ちが芽生えなければ、きっと私は今の彼女を前にしても、相変わらずの反応だなと受け流して終わりにしただろう。


「夕莉」


 だから私は、彼女の名前を呼ぶ。

 胸の内に仕舞い込んだ本音を聞いてみたくて。

 けれど返事はなく、振り向く気配もない。


 心を開いてほしいとか、隠し事をしないで、なんて手前勝手なことをお願いするつもりはない。


 私たちを繋ぐ関係性が"主従"であることは確かだけれど、それでも、愚痴や不満を気軽に言い合えるような――せめて、友達のような間柄になりたいと思ってしまうのは我儘だろうか。


「ごめん、覚えてないってのは嘘」


 夕莉を振り向かせるために、まずは私から歩み寄ってみるか。

 どうせ、なんで不貞腐れているのかを率直に訊いたところで、冷たくはぐらかされるだけだろうし。


 彼女を不安にさせると思って適当に誤魔化してしまったけど、悲しそうな顔を見せるほど私の額の傷跡を気にしているのなら、包み隠さず全てを正直に話した方がいいのかもしれない。


「これ、女の子を助けようとしてできた傷なんだよね」


 不意に、前を歩いていた夕莉が立ち止まる。

 咄嗟に振り返ると、大きく見開かれた目には驚きの色が溢れていた。

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