第3章
第38話 新しい携帯
「……あ、杏華さん」
夕暮れ前。
喫茶店のアルバイトを終えてお店を出ようとした瞬間、入り口でばったりとメイド服姿のお姉さん、もとい杏華さんに
突然の遭遇にもかかわらず、彼女は私を視認するや否やにこりと微笑む。
「こんにちは、奏向さん」
「こんにちは」
朗らかな空気に流され、つられて挨拶を返す。
杏華さんは私が付き人のアルバイトを始めてからも、時々ここのコーヒーを飲みに来るらしい。
というのも、平日は学校やら夕莉のお世話やらで忙しく、喫茶店には土日しかシフトを入れていないから、ここではなかなか会う機会がなかった。
とはいえ、夕莉の自宅ではよく杏華さんのお手伝いもしていて、ほぼ毎日顔を合わせていると言っても過言ではない。
「すみません、こんな所に突っ立ってたら邪魔ですね。どうぞ」
「お気遣いありがとうございます」
「……そうだ」
杏華さんを店内へ通すため、道を開ける。
律儀にお辞儀を返してくれたのを見届けてから、ふと思いついた。
この後は特に用事もないし、ちょうど困っていることがあるから、彼女に助けてもらおうかな。
「杏華さん。今、休憩中ですよね」
「ええ。どうかなさいましたか?」
「私もご一緒していいですか?」
「もちろん、いいですよ」
快く承諾してくれた杏華さんにお礼を言って、彼女がいつも座っているカウンター席に私も同席させてもらう。
例のコーヒーを二人分注文し、出来上がるまで他愛もない雑談をしていた。
怪我の具合はどうかとか、何か力になれることはないかとか、ほとんど私の怪我を心配するような話題ばかりだったけど……。
昨日の今日で何事もなく動けているし、何ならさっきまで普通にバイトしていたから、私の中ではもはや完治したも同然だった。
杏華さんの過保護な一面に苦笑しつつ本題に入ろうとしたところで、コーヒーが提供される。
近くにいた店長が「女性を口説く趣味なんてあったの?」と茶々を入れてきたので、速攻で否定しておいた。
後で会計時の社割を10割にしてもらおうか……。
「そんなふざけた理由で呼び止めたわけじゃないですからね?」
「承知しています。ただ、本当にそうだったとしても私は喜んでお付き合いしますよ」
「そんなこと軽々しく言っちゃだめです」
「無論、お相手は誰でも良いというわけではありませんので」
「ならいいですけど……」
いや、良くないけど。そういう問題じゃない。
杏華さんは時々、本気で言っているのか面白がっているだけなのか、わからないような発言をしてくる。
こういう思わせぶりなこと、誰に対しても言ってしまうような軽い人には見えないのに……。
ある意味、夕莉と同じくらい心の内が読めない人でもある。
「それより、ちょっと教えていただきたいことがあって」
関係のない話は一旦終わりにして。
私はリュックからあるものを取り出し、テーブルの上にそれを置いた。
お淑やかな動作でコーヒーを啜っていた杏華さんは、それを見て小さく首を傾げる。
「スマホ、ですか」
「はい。昨日、夕莉からこれを渡されたんですけど」
元々所持していた私の携帯は破壊されて、連絡手段がなくなってしまったことを夕莉に伝えたら、新品のスマホを支給された。
急な申し出にもかかわらず、すぐにスマホが用意されたのには驚いたけど。
主人である彼女の連絡先だけ登録されていて、それ以外の設定は何もいじっていない。……というより、いじれない。
「私、ずっとガラケーだったんで初めてスマホ使うんです。お恥ずかしい話、操作方法がよくわからなくて……。せめて電話のやり方くらいは覚えたいなと」
「スマホの基本的な使い方ですね。私でよろしければ、何でもお教えしますよ」
カップをソーサーに戻しながら、杏華さんは笑顔を向けてくれた。
昨日夕莉にスマホを渡された後、大事をとって早退させられたから、使い方を聞きそびれてしまって。
電話の出方もわからないまま夕莉から連絡が来たら困るし、かと言ってこっちから発信する方法もわからない。
業務時間外は接触禁止という謎ルールのせいで、休日は直接会いに行くこともできない。
そんな時にばったり会ったのが杏華さんだ。本当に運がいい。
若者なら使いこなせて当たり前のスマホに疎い私にも、彼女だったら優しく教えてくれるはずだと思って声をかけた。
スマホの画面を二人で覗き込みながら、電話の仕方や便利なアプリの使い方を教えてもらう。
タップやらフリックやら、ガラケーでは全く馴染みのない指使いに多少苦戦しながらも、一人で電話を使える程度の要領は覚えた。
番号の登録も一人でやれたし、とりあえず現状での心配事はなくなったかな。
「ありがとうございます。助かりました」
「どういたしまして。また何かお困り事がありましたら、いつでも頼ってくださいね」
杏華さんの柔らかな微笑みに頷きを返して、改めてスマホに目を向ける。
ついさっき追加したばかりの杏華さんの番号と合わせて、二人分の連絡先がこのスマホには登録されている。
元々、以前の電話帳に入れていた件数はかなり少なかったから、手作業でデータを移行するにしてもあまり手間はかからないのだけど……。
「これって、業務用に支給されたスマホなんですよね……」
「……?」
つい漏れてしまった独り言に、杏華さんが反応した。不思議そうに横から私を覗いている。
「あ、いや……夕莉や杏華さんと変わらず連絡を取れるのは嬉しいんですけど、他の人とはまだできないんだよなーと思って」
相手が私の連絡先を知っていたとしても、それはもう使われていない番号やアドレスなわけで。
夕莉から預かったスマホの契約者は当然私ではないから、携帯番号を引き継ぐこともできない。
私からコンタクトを取るにしても、プライベートの相手に対して業務用の携帯を使うのはどうかと思うし。
「……なるほど。その心配は無用かと思います」
「どうしてですか?」
「奏向さんにお渡ししたスマホは、お嬢様からのプレゼントですから」
「それは初耳ですね」
これがプレゼントだって? 何も言わずに渡されたから、普通に業務用だと思ってた。
てことは、自由に使っていい……待て待て。こんないいもの、私にはもったいないし手に余る。
「ちなみに、毎月の携帯代は……」
「お嬢様持ちですね」
「やっぱりこれ返した方がいいかな」
スマホを贈って毎月の支払いまで負担してくれるなんて、申し訳ないにも程がある。
というか、絶対にそんなことさせたくない。
そもそも、携帯が壊れたのは100%私の過失で、夕莉がそれを補う必要は全くないんだ。
何の変哲もないスマホが、とてつもなく高価なものに思えてきた。
「遠慮せず使って差し上げてください。奏向さんの携帯が傷だらけだったこと、お嬢様は以前よりお気付きになられていましたから。いつ壊れてしまってもいいように、新しいものをあらかじめご用意までされて……」
「……そうだったんですか」
まさか私の携帯の状態まで把握していたとは。
普段は他人のことなんて微塵も興味なさそうに見えるけど、そういうところに気付くんだ……。
「じゃあせめて、毎月の料金は私のお給料から引くよう、夕莉にお願いしてもらってもいいですか」
「……それはお嬢様があくまで個人的に負担するものなので、奏向さんが気になさる必要はないのですよ?」
「私がそうしたいんです。ただでさえ働かせてもらってる立場なのに、身の回りのことまで助けられたら面目が立たないんで」
付き人という高時給のアルバイトを勧めてくれた時点で、充分すぎるほどの恩恵を受けている。
これ以上与えられたら、私は夕莉に何を返せばいいのかわからない。
「……わかりました。お嬢様にお伝えしておきます」
半ば強引に押し通してしまった感もあるけど、杏華さんは優しく頷いてくれた。
このスマホが本当にプレゼントとしてくれたものなら、後で名義も変更しておかないと。
でも今だけは、"夕莉が私のために用意してくれたスマホ"として、素直に受け取ろう。
いつも無愛想な彼女が、不器用なりにも思い遣りを見せてくれた証だから。
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