幕間 小さな変化

 会議の時間になっても未だ現れない茅に業を煮やしていたのは、夕莉の隣に座る生徒会副会長の詩恩だった。


 遅刻や無断欠席を一切許さない彼女は、予定時刻から一秒過ぎた瞬間に、茅へ状況確認もといお説教の電話を入れる。


 しかし、何度かけても繋がらず、チャットもなかなか既読が付かなかった。


 茅以外の生徒会役員はとうに集まっていたため、ご立腹な様子の詩恩を適当に宥めて、夕莉は会議を始めるよう促した。


 特に議論が滞ることもなく淡々と進行していき、普段より早めに解散することになった。

 結局、会議中に茅からの連絡が来ることも、生徒会室に顔を出すこともなかった。


 茅は昨年度も生徒会に所属していたが、無断で欠席するようなことは一度もなく、何事も真剣に取り組む真面目な生徒だ。


 何かあったのだろうかと多少心配になりながらも、出席できなかった理由は詩恩が問い質すだろうと思い、夕莉は帰り支度を始めた。


 これから帰宅する旨を奏向に伝えるため、スマホを取り出す。


 彼女との連絡手段はほぼ電話のみ。

 チャットアプリを使えない奏向の携帯だと、電話かメールで連絡を取ることになるが、確実に用件を伝えられる前者を主に利用するようにしていた。


 いつものようにお迎えの連絡をしようと電話をかける。

 しかし、なかなか繋がる気配がなく、着信不可のアナウンスが流れてきた。


 毎回必ず3コール以内には出るというのに、数回かけ直してもやはり繋がらない。


 携帯の電源が切られているのか、電話に出られない状況にいるのか、可能性はいろいろ考えられる。


 けれど、"いなくなったりしない"と奏向が言ってくれたあの日から、夕莉は信じていた。

 彼女が黙って仕事を放棄するようなことだけはあるはずがないと。


 奏向の身に何かあったのかと不安になり始め、今度はメールを送ってみようとした時。


 ようやく茅と連絡を取れた詩恩が、理路整然と説教を聞かせていた途中で、唐突に訝しむような大声を上げた。


 常にお淑やかで平常心を崩さない彼女から聞こえた感情の乱れた声に、驚いた夕莉は視線を向ける。


 そして、次に発した彼女の言葉は、奏向の名前だった。

 思いがけない事態に、夕莉は眉をひそめながら詩恩と茅のやりとりが終わるのを待つ。

 詩恩が電話を切った瞬間、何があったのかと問い掛けた。


 詩恩は気まずそうに目を伏せながら、茅から根掘り葉掘り聞き出した内容を伝える。


 朱音の友達だという女の子にいきなり公園へ連れて行かれたこと、柄の悪そうな男たちに絡まれそうになったこと、そこに奏向が現れて、茅と朱音を帰してくれたこと。


 説明を聞き終えた夕莉は、スマホを持ったまま無意識に生徒会室を後にしていた。

 校舎から出た途端、茅のいた公園へ向かうため走り出す。


 心臓の鼓動がうるさく鳴っているのが聞こえる。

 自分でもなぜこれほど動揺しているのかわからない。


 ただ、思い出してしまう。

 体中に傷を負い、血だらけで倒れているあの時の奏向の姿を。

 誰かに死が迫っているという危機を、あれほど身近に感じたことはなかった。


 目を離した隙に奏向がいなくなっていて、再会するまで、もしかしたら生きていないのではないかと考えてしまうことすらあった。


 もしもまた、彼女に危険が迫っているとしたら――。

 あの時と状況が似ているだけに、そんな不安を抱かずにはいられない。


 走りながら、ふと目頭が熱くなってくる。

 涙が浮かんできそうだった。


 奏向を心配しているからなのか、過去に経験した恐怖を思い出したからなのか、涙の理由は定かではない。

 それでも、奏向が無事であってほしいと思う気持ちは確かにあった。


 滲む涙を腕で拭う。

 曲がり角に差し掛かった時、突如現れた人影を前に足を止めた。

 ぶつかりそうになった相手は、額を抑えて俯いている奏向だった。


 数歩後退し、謝罪の言葉をかける途中で夕莉に気付き、驚いた表情を浮かべる。

 額からはうっすらと血が流れ、口端には切り傷や痣があった。


 慌てて言い訳を考えている奏向が、不意によろめく。


 咄嗟に、夕莉は彼女の名を呼んでいた。

 あの時、呼べなかった名前を。


 そして、倒れそうになる体を抱き留める。

 今度は離れていかないように、奏向の背中に回した腕にぎゅっと力をこめて。


 動揺している表情を見られたくなくて、彼女の肩に顔を埋める。

 しかし、心の声は正直に口から漏れてしまった。


 あの時ほどの重傷ではなくとも怪我を負っている奏向に、切実な思いを吐露する。

 過去の出来事を覚えていない彼女に、こんなことを言っても困らせるだけなのに。


 けれど、声に出してようやくわかった。

 彼女がいなくなってしまうかもしれないという不安や恐怖を、これほどにも強く抱いていたことを。

 傍にいてほしいと、無意識に願っていたことを。


 夕莉に抱き締められてしばらく硬直していた奏向は、"ごめん"と申し訳なさそうに小さく呟いた。



 保健室で治療を受けさせた後、二人で帰宅した。

 家に着くまでの間、いつも以上に奏向が話しかけてきたが、まともに相手をする気にはなれなかった。


 リビングのソファに腰掛け、改めて奏向の口から事の顛末を聞く。


 いつも飄々としている彼女が、珍しく落ち込んだ様子で萎縮していた。

 まるで、親に激しく叱られてしゅんとする子どものようだった。


 俯き続ける奏向の頬に手を添え、そっと顔を持ち上げると、悲しげに目を細める彼女と視線が交わった。

 ここまでわかりやすくへこんでいる姿を見るのは初めてだった。


 彼女のことだから、気分が晴れない夕莉の雰囲気を察して、クビにされるとでも思っているのだろうか。


 しかし、奏向は咎められるようなことをしていない。

 自分の身を挺してまで他人を助けたのだから。あの日、夕莉を守った時と同じように。

 何も、悪いことはしていない。


 それなのに、なぜか無性に遣り切れない気持ちになる。この感情が怒りではないことは確かだ。


 傷を負っている奏向の口端に触れて、そのまま唇へ親指を優しく這わせる。


 彼女は、他人のために平気で自分が傷付く道を選ぶ。この傷も、その象徴なのだろう。

 誰かを助けようとすることは間違いではないけれど、だからといって怪我を負ってほしくはない。


 ――この気持ちは、自分の身を顧みない奏向に対する、心配の裏返しだった。


 だから、夕莉は奏向に約束させる。

 あなたが傷付くと悲しむ人がいるのだと、わからせるために。


 じっと夕莉の目を見ていた奏向は、力強い眼差しで"約束する"と誓ってくれた。

 ようやく見せてくれたいつもの凛々しい表情に安心した夕莉は、自分でも気付かないうちに小さく微笑んでいた。


 尚も視線を外そうとしない奏向の瞳に、夕莉も魅入られたように目が離せなくなる。


 さっぱりした性格の彼女は、何事にも楽観的な姿勢を崩さないと思っていたが、滅多に見せない弱気な姿を前にして、一瞬でも可愛いと感じてしまった。


 主人の命令に忠実に従う大型犬のようで、思わず奏向の頬を軽く撫でる。


 ほんの少し戯れたところで、夕莉はおもむろに立ち上がった。


 彼女とは、あくまで雇用契約で結ばれた関係に過ぎない。

 落ち込んでいたのも、約束を交わしてくれたのも、解雇されることを恐れていたからなのだろう。


 彼女の考え方や振る舞いは、雇人として正しい。

 だから、雇用主である自分が、これ以上彼女に対して私的な感情を見せてはいけないし、抱いてはいけない。


 奏向に背を向けた直後、予想通りの質問が飛んできた。

 振り向くと、奏向が不安そうに夕莉を見上げていた。そんな目で見られたら、つい意地悪をしたくなってしまう。


 "どんな処分も受ける覚悟はある"と豪語したので、何をさせようかと思考を巡らせる。


 しかし、結局大それた命令は思い浮かばなかった。

 彼女を使ってどうこうしたいという願望は正直ない。付き人として、ただ真っ当に責務を果たしてくれれば良い。


 それでも、敢えて命令を下すならば。


「私の呼び名を変えて」

「……え?」

「――"夕莉"でいい」


 今まで奏向の名前を呼んだことはなかった。

 必要以上に親しくなる気はなかったから。


 彼女も一定の距離感を持って接してくれるため、このまま後退も進展もしないあっさりとした関係性が続けば良いと思っていた。


 けれどもし、これ以上の関係を望むことが許されるのなら、それはきっと――。


 雇用主ではない"夕莉"としての感情を垣間見せるのは、これで最後にする。

 そう思っていたのに。


「うん、わかった――夕莉」


 嬉しそうに笑う奏向の明るい声に、胸が苦しくなった。

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