第37話 約束

 私の名前を呼ぶ声がした後、ふわりとほのかに甘い香りが鼻腔をくすぐった。

 急に押し寄せてきた貧血のような立ちくらみに耐え、なんとか意識を保つ。


 私の背中に回された腕がぎゅっと力み、そこで神坂さんに抱き留められているのだと気付いた。


「っ……ごめん、すぐ離れるから……」


 主人に触れてはいけないというルールを思い出し、神坂さんから離れようと体をもぞもぞ動かす。

 しかし、なぜか腕を解いてくれず、それどころか抱き締める力が強くなっている。


 私の肩に顔を埋めている彼女の表情は窺えないけれど、少なくとも激怒しているわけではない……?


 てっきりいつもの冷たい視線で睨まれて、なんで電話に出なかったのかと問い詰められると思っていたのに。


「……して」


 何も咎めてこない神坂さんに若干の恐怖を感じつつ、いつまでも抱きつかれている状況に困惑していたら、どうにか絞り出したような、小さな声が聞こえた。


「どうしてまた無茶をするの…………どうしてまた、私の前からいなくなるのっ……」


 縋るように、震える声。

 いつも冷静沈着で感情が読めない神坂さんの、これほど弱々しい姿を見るのは初めてだった。


 私こそ知りたい。雇用契約で結ばれただけの関係で、私は彼女にとってただのお世話係でしかないはずなのに、どうして泣きそうになるほど心配してくれるのか。


 それに、"また"という言葉が引っかかる。

 神坂さんと知り合ってから、今日のような騒動を起こしたことは一度もない。


 "いなくなる"というのも、図書室に行こうとしていたのをサボりだと勘違いされそうになったという一件しか心当たりがなく、それだって実際に私が彼女の前からいなくなったわけではない。


 ……誰かと私を重ねているのかな。

 私の前でこんなに感情的になるなんて、普通じゃ考えられないから。


 とにかく、神坂さんに迷惑をかけてしまったことは事実だ。


「……ごめん」


 だから、今はただ謝ることしかできなかった。




 学院に戻り、神坂さんに付き添われながら保健室で応急処置を施してもらった。


 当然のように保険医の先生から怪我の理由を聞かれたけど、神坂さんもいる手前、うまい言い訳が浮かばずしどろもどろになってしまって。


 見かねた神坂さんが臨機応変にフォローを入れてくれたおかげで、なんとかその場は凌げた。


 帰り道、気まずい雰囲気をどうにか和ませようといろいろ話しかけた。


 だけど、いつも以上に冷淡な態度の神坂さんからはガン無視か、良くて生返事しか反応をもらえず、終始重苦しい空気が漂っていた。


 心配をかけた張本人が何をお気楽にご機嫌取りしているんだ、と自分でも思うけど、無理にでも気持ちを上げないとこっちまでネガティブになる。


 だって、この後クビを宣告されるかもしれないのだから。


「大変申し訳ございませんでした」


 神坂さんの自宅に着いて早々、リビングのソファに座る彼女に向かって、誠心誠意の土下座をする。

 それはもう、床に頭頂を押し付ける勢いで。


 私の身に何が起きたのか、そもそもなぜ電話に出られなかったのか、全てを洗いざらい吐いた。

 未だ無言を貫く神坂さんに、ひたすら平伏する。


「今回の不祥事は全て私の不徳の致すところでありましてご主人様に多大なるご迷惑とご心配をおかけしてしまったことを深く反省しております」

「……頭を上げて」

「今後このような事がないよう充分肝に銘じて業務に励む所存ですのでもう一度チャンスを与えていただけないでしょうか。どうか解雇だけは……」

「聞こえなかったの? 頭を上げなさい」


 怒気を含んだ声で促され、渋々床から頭を離す。

 ……その言い方、絶対怒ってるじゃん。


 機嫌を伺うな、みたいなことを最初の頃に言われた気がするけど、こんな失態晒したうえにクビ目前の状況だったら、さすがに全力で平謝りするしかないでしょ。


「そんなことをしたら怪我に響くでしょう。少しは自分の体のことも考えて」

「すみません……」


 この期に及んで、まだ怪我の心配をしてくれている。


 念のため、神坂家の専属医師にも診てもらったけど、特に深刻な怪我ではないようで。

 しっかり安静にしていればすぐに治るらしい。またしても自慢の石頭に救われた。


「……本当に、何も変わらないのね」


 わかりやすくため息を吐いた後、意味深にそう呟く。


 恐れ多くて顔を上げられないため、神坂さんがどんな表情で言ったのかはわからない。

 抑揚のない声から、心中を想像することもできない。

 ましてや、その言葉の意味を理解することなんて。


 これまでの人生で失敗なんていくらでも経験してきたけど、今回は比にならないほど自分の過失の重大さを痛感している。


 なぜなら、収入源の大部分を占める高時給の働き口が解雇されてしまえば、生活費も学費も賄えなくなるから――。

 本当に、理由はそれだけだろうか。


「あなたは、私が怒ってると思っているでしょう。その理由を教えてくれる?」

「それは……呼び出しに応じられなかった挙げ句に、私の身勝手な行動で心配させたから……」


 クビになりかねない原因を作ってしまったことは、当然悪いことだけれど。

 あの時、一瞬だけ見えた彼女の悲痛な面持ちを思い出すと、なぜか私まで苦しくなって――ああ、そうか。


 私がここまで落ち込んでいるのは、彼女にあんな顔をさせてしまった自分が許せないからだ。


「奏向」


 ようやく腑に落ちるような答えが出た時、聞き慣れない声が意識を引き戻した。


 そういえば、ずっと名前を呼ばれてこなかったな。さっき私が倒れそうになった時に呼んでくれたのが初めてだった。

 なんとなく嬉しいような、照れ臭いような……。


 不意に、俯いていた私の頬に神坂さんの手が添えられ、そっと顔を持ち上げられる。

 床に膝をついて私と同じ目線で見つめてくる彼女が、すぐ目の前にいた。


「あなたが故意に私からの連絡を拒否したわけでも、生半可な気持ちで危険を冒したわけでもないことは理解しているわ。だから私は、あなたを強く責めるつもりはないの」


 言い聞かせるように優しい口調で話す神坂さんの瞳は、憂いを帯びていた。

 そこまで気にかける必要のない相手だったら絶対に見せないような表情。


 ただ心配しているだけではない、何か特別な想いを抱えているような気がして、余計に心が揺さぶられる。

 なんでそんなに悲しそうな顔をするの……?


「……それでも、私に心配をかけたという自覚に偽りがないのなら、これだけは約束して」


 切なげな彼女の視線が、私の口元に向けられる。

 頬に添えられている手の親指が、口角にある傷口に触れた。


 痛みはほとんど感じない。

 優しくなぞるように指先が唇の上を動いて、むしろくすぐったさの方が勝る。


 神坂さんは一呼吸置いた後、確かな意志を孕んだ眼差しで私の目を捉えた。


「もう二度と、私を不安にさせたりしないと」


 一番大事なことを、私は疎かにしてしまっていた気がする。


 付き人のルールを守ることばかりに意識を向けていたうえに、神坂さんの言葉に甘えて、彼女の気持ちや本心を知ろうとする努力を怠った。


 私のせいで、これ以上悲しむ姿を見たくない。だから――


「約束する」


 自信を持って誓う。

 これは、雇用契約を解除されるリスクを免れるためではなくて、彼女の思いを守るための決意。


 真剣な眼差しで見つめていた神坂さんは、ふっと緊張が解けたように小さく微笑む。

 注視していないとわからないくらいの動きで、口の端が微かに上がった。


 笑顔と言ってもいいのか怪しいほどの表情だけれど、普段とは明らかに違う柔らかい雰囲気に、思わず目が釘付けになる。


 無意識に彼女の顔に見入っていると、穏やかに目を細めながら、指の背で頬を撫でられた。

 さっきからこそばゆい仕草をされて、少し……気恥ずかしい。


 耐えられなくなってつい顔を逸らしてしまったのと同時に、神坂さんが立ち上がった。

 肝心なことを聞きそびれて、慌てて呼び止める。


「……あの、神坂さん。私のこと、クビにはしない……?」

「してほしいの?」


 全力で首を横に振る。まさか。許されるならこのまま続けたい。

 そもそも、死活問題に大きく関わることだし……。


 ただ、神坂さんに不安な思いをさせておいてお咎めなしというのも、お世話係としては気が引ける。


「戒めとして、どんな処分も受ける覚悟はあります……もちろんクビ以外で」


 労働量を倍にするでも、最悪時給を下げるでもいい。彼女の気が済むように、お仕置きの一つや二つ受ける心構えはできている。

 むしろ、そうでもしないと私が無性にモヤモヤしてしまう。


 正座をしながら神坂さんを見上げると、何かを考えるように眉をひそめていた。


 顎に手を当てて、沈黙すること数秒。

 直立したまま私を見下ろしていた神坂さんは、再び屈み込んでぐいっと顔を近付けてくる。

 間近で見る彼女の表情は、いつものポーカーフェイスに戻っていた。


「……そんなに罰を受けたいのなら、一つ命令に従ってもらおうかしら」


 固唾を呑んで、次の言葉を待つ。

 大丈夫。何を言われても、従うと決めている――


「私の呼び名を変えて」

「……え?」

「――"夕莉"でいい」


 予想もしていなかった命令に、思わず唖然とする。

 これは果たして罰と言えるのだろうか。

 わざわざ主従関係を利用して言いつけるほどの内容でもないと思うんだけど……。


 中庭でお菓子を分け合った時も、お昼ご飯に誘われた時も、同じように命令されたっけ。


 お嬢様で生真面目そうな見た目のくせに、主人が指示するとは思えないような可愛い要求ばかり。こんな命令で本当にいいのかな。

 でも、ふざけて言っているようには見えないし。


 私の返答を待っているかのように瞬きもせず凝視してくる様子が、なんだか従順な子どものように愛らしくて、自然と笑みがこぼれてしまう。


「うん、わかった――」


 吸い込まれるような瞳にかれながら、私は彼女の名前を口にした。






─────

《第2章 あとがき》

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