第35話 大嫌い

 つかつかと歩み寄って来る奏向があまりにも涼しい顔をしているせいか、男たちは咄嗟に道を開けてしまう。


 この場にいる全員が、予期していなかった人物の登場に呆然としていた。

 瑠奈だけが、大きく見開いた目で奏向を見つめて。


 注目の的になっている当人は朱音の前まで来ると、彼女の肩に回された男の腕を引き剥がした。


「……二色、どうして……」

「あんたの跡つけてきた」


 見限られて、あのまま帰ったのではなかったのか。

 まさかここに来るまでの行動を張られていたとは思いもよらず、失態を晒してしまったことに朱音は歯噛みする。


「雪平さ、わかりやすすぎんのよ。昔みたいに虚ろな目してたから、何かあったのかなーと思って。そしたら案の定、ね。……また言いなりになってんの?」


 "また"――奏向は知っている。

 中学時代、朱音が瑠奈の取り巻きだったことを。朱音の行動が全て、瑠奈の意思によって取られていたものだということを。


 こちらを見据える彼女の瞳が、呆れたような失望を孕んだ眼差しに見えて、無性に反抗心が芽生えてくる。


「……お前に、何がわかんだよ」


 俯きながら、震える声で反論する。こんな時でも、奏向に強く当たってしまう。


 他人のご機嫌取りになるだけの存在がどれだけ無価値であるかなど、頭の中では嫌というほどわかっている。


「誰でもお前みたいに強気でいられるわけじゃねぇんだよッ……従わないとこっちが痛い目に遭う……だからずっと言うことを聞くしかなかった……!」


 それでも、空気を読まなければ淘汰されてしまうような弱者は、強者の言いなりになるしか生き残る道はない。


 周りから孤立することがどれほど辛いか、誰からも救いの手を差し伸べられずいじめられることがどれほど苦しいか、身をもって痛感しているから。


 自分が間違っているのだと自覚していながら、背徳感を押し殺してでも手を汚さなければならない者の気持ちが、奏向にわかるはずがない。


「いつもいつも、何でも見透かしたような目であたしを見て……一人でいても嫌がらせされそうになっても傷付けられても澄ましたような顔して……何でそんな平気でいられるんだよ……お前のそういうところが大ッ嫌いなんだよッ!!」


 瑠奈や茅がいることも忘れて、奏向に思いの丈をぶつける。


 本当は羨ましかった。

 何事にも動じないその強さが。

 自分にないものを彼女は全て持っている気がして、どうしても自分と比べてしまう。


 その度に、惨めになる。

 奏向を見ていると、自分がいかに姑息で救いようのない人間なのかを思い知らされる。


 それがとても苦しくて――だから、嫌いだった。


「……うん。そっか」


 全身全霊の憎しみをぶつけたにもかかわらず、奏向は嫌な顔一つしない。

 嫉妬と憎悪の念を真っ向から受け止め、そして小さく微笑む。


 その笑顔は、初めて朱音に笑いかけたあの時と同じ雰囲気を纏っていた。


「ようやく、本当の雪平の想いを聞けた気がするよ。ありがと」

「っ……!」


 彼女はどこまで誠実なのだろう。

 今まで散々悪態をついて、冷たく拒絶して、関わりたくないからと無視までしたのに。


 いっそ奏向も、自分のことを嫌ってくれたら良かった。

 そうすれば、ここまで罪悪感を抱えずに済んだかもしれないのに。

 どうしてこの期に及んで、罵倒してくる相手に笑顔を向けられるのだろう。


「で、あんたは今どういう心境なの」


 そう尋ねる声は、あまりに優しくて。

 弱音を曝け出してしまいたくなる。差し伸べられた手に縋りたくなってしまう。


 握り締める手に強く爪が食い込んだ。

 そして、とうとう必死に堪えていた涙が頬を伝う。


 奏向はどんな時でも気さくに接してくれた。

 朱音が瑠奈の取り巻きとして、いじめや悪事に加担していたことを知っていたはずなのに、その上で友達のように話しかけてくれた。


 そんな彼女の気持ちに応えたい。

 たとえ自責の念に苛まれ続けることになるとしても、ここでけじめをつけることが本当の意味で奏向に心を開く最初のきっかけになるのなら。


「ごめん……」


 当然、これまで奏向にしてきた非礼が許されるとは思っていない。

 けれど、ようやく素直に謝意を示すことができたおかげで、ずっと胸の奥に染み付いてたわだかまりがじわじわと解けていくような感覚がした。


 この一言を皮切りに涙がとめどなく溢れ出て――


「………………たすけて」


 奥底に固く閉じ込めていた心の声が、無意識に小さく漏れた。

 嗚咽混じりで上手く発音できなかったかもしれない。


 むしろそれで良かった。

 傷付けようとした相手に救いを求める資格などないのだから。

 この声は奏向に届かなくていい。


 咄嗟に腕で口元を覆い隠した直後、わしゃわしゃと頭を撫でられた。


 反射的に俯いていた顔を上げるも、目の前にいる奏向の視線は、既に別の方向を向いていた。


 そして、その先に歩みを進める。

 彼女が足を止めたのは、依然としてベンチに悠々と座っている瑠奈の前だった。


「えーっと…………あ、そうそう。小高さん、だっけ。初めてお話しするね」

「…………」


 前屈みになり、品定めするように瑠奈の顔を覗き込む。


 泰然とした態度は変わらないが、今まで浮かべていた瑠奈の薄笑いが消えていた。

 黙ったまま、瞬きもせずジッと射るような視線を奏向に向けている。


 朱音にとっては、何を企んでいるのか予測できないその不気味な無表情が何よりも恐ろしかった。


 しかし、奏向は全く怯む様子もなく、展示物でも観察しているかのような緊張感の無さで、顎に手を当てていた。


「金魚のフンばっかり寄越してくるなんて、なかなか特殊な近付き方すんなーって思ってたんだよね。そんなに私と遊びたいなら、あんたが直接来いよ。いくらでも付き合ってあげるから」


 挑発的に口角を上げる。

 どこまでも平静を崩さず、人を食ったような奏向の態度に、瑠奈の眉根が微かに動いた。

 そして、おもむろに口が開かれる。


「……今日の相手はこの子だから」


 感情の読めなかった目が、不機嫌を伴った鋭い眼差しに変わる。

 憂さ晴らしの標的が完全に奏向へ移った瞬間だった。


「え、マジで?」

「……まー、ルナちゃんがそう言うなら仕方ねーか」

「可愛い顔して意外と暴れるかもな」


 豹変した瑠奈の雰囲気に、男たちは何かを察する。

 朱音や茅に向けていた薄気味悪い笑みから一転し、明らかに敵意が剥き出しになった。

 威圧感を前面に醸しながら、逃げ道を閉ざすように奏向を取り囲む。


「じゃあ、二人はもう無関係だから帰していいかな」

「…………」


 男たちの意識が朱音と茅から離れたことを確認して瑠奈に問いかけるが、先ほどから目を合わせながらも、一向に奏向と口を利く素振りを見せない。


 理由は定かではないが、中学時代は異常なほど奏向に執着していたのに、いざ対面すると何も話そうとしない瑠奈の様子に、朱音は違和感を覚えた。


 そして、初めて見る。

 常に高みの見物で冷ややかに笑っていた彼女の、余裕の感じられない表情を。


「いいよー、だって。はい、解散ー」


 無言を貫く瑠奈を少しも気に留めることなく、勝手に都合良く解釈する奏向のお気楽さに、朱音は呆然とする。


 体格も腕力も遥かに上回る男が複数人いるこの状況で、囮になろうとしているのだ。

 朱音と茅を逃して、一人でこの場を切り抜けようとしている。


「おい、勝手に決めんな」

「いい」

「いや、でも……」

「二度も言わせないでよ」


 殺気のこもった瑠奈の口調に、男たちは口籠もる。

 あからさまに怒りの感情が露呈し始め、空気が凍りつく中、場違いなほど落ち着き払っている奏向に朱音は堪らず声をかけた。


「二色っ……」

「こんな野郎共と聖煌の生徒が一緒にいるとこ誰かに見られたら、問題になるでしょ」


 それは奏向も同じではないのか。

 けれど、奏向の不敵な笑みを見て、喉まで出かけた言葉を飲み込んだ。


 身がすくむような状況下で、いつもと変わらない佇まいを見せる彼女の精神力の強さに、図らずも脱帽してしまう。

 奏向なら、どうにかしてしまうのではないか。そんな期待すら抱かせてしまう。


「だいじょーぶ。なら負けたことないからさ、私。ほら、帰った帰った」


 早くこの場から離れろとでも言うように、手をひらひらさせる。


 奏向を残して去るのは心苦しくもあるが、何もできない足手まといがいても邪魔になるだけだろう。

 それに、ここまで自信満々に言ってのける彼女を、今度は信じてみたいと思った。


 何もできない無力さに歯噛みしつつも、朱音は放心状態で棒立ちしている茅の手を取り、公園の外へ駆け出す。


「朱音ちゃん……!? え、二色さんは……」

「……あいつなら多分、大丈夫、だと思う」


 奏向に危険が及ばないとはもちろん言い切れず、むしろ絶体絶命な状況であることに変わりはない。

 それなのに、彼女は無事に戻ってくるはずだという根拠のない信頼を、いつの間にか寄せていた。


 あの時の痛々しい姿が脳裏を過ぎりながらも、堂々と瑠奈に啖呵を切った奏向の言葉に、従わずにはいられなかった。


 公園からある程度離れた場所まで戻ったところで、朱音は足を止める。


「……茅、巻き込んでごめん。……失望しただろ」


 何に、とは言わなかった。

 瑠奈の話から、大方の予想はついているだろうと踏んで。


 今まで自分が悪いことをしてきた自覚がなかったのなら、必死に隠し通すことなどしなかった。

 昔の自分を知ったらきっと皆、軽蔑して離れていく。


 それは、茅も例外ではないのだろう。

 過去を知られた今、もう友達のような関係にはなれない――。


 いつもと違う朱音の雰囲気を察し、それでも茅はゆっくりと首を横に振った。


「ううん、そんなことない。……過去にどんなことがあっても、わたしは今の朱音ちゃんが好きだから、隣にいるんだよ」


 俯いたまま顔を上げようとしない朱音を少しでも励ますことはできないかと悩んだ末、茅は恐る恐る朱音の背中に腕を回し、子どもをあやすようにぽんぽんとたたいた。


「……ずっと覚えてる。入学して間もない頃、一人でいたわたしに初めて話しかけてくれたのが朱音ちゃんだったこと。すごく嬉しかったな。だから、失望なんてしないよ」

「っ……」


 控え目に抱き締めてくれる茅の優しさに、目頭がまた熱くなる。


 変わりたいと思った。

 過去の過ちを二度と繰り返さないために。

 そして、これ以上誰かを傷付けないために。


 その想いが、ほんの少しでも報われることがあるとするなら、それは間違いなく今この瞬間なのだろう。

 しがらみから解き放たれたような気持ちで胸が一杯になる。


 その時、ピコンと何かの通知音が鳴った。

 茅の体がピクッと反応し、慌てたようにポケットからスマホを取り出す。


「あっ……どうしよう…………詩恩ちゃんからすごい着信きてる……!」


 生徒会の業務をすっぽかしていたことを思い出した茅は、夥しい数の着信履歴とチャットのメッセージを見て青ざめる。


 折り返しの電話をかけてすぐ何度も頭を下げる茅を見て、朱音は小さく苦笑した。



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