第33話 過去の過ち(1)

 男たちに囲まれている様子を見て手遅れかと思い血の気が引いたが、どうにか間に合ったようだ。


 ベンチで縮こまっている茅が無事であることを遠目に確認し、その横で平然と朱音を見据える瑠奈に敵意を込めた眼差しを向ける。


 本当は怖い。今すぐにでも逃げ出したい。

 ここへ来るまでに何度も引き返そうと思った。


 手足は震えて、浅くなる呼吸のせいで目眩もする。少しでも気を緩めたら、腰が抜けてしまいそうだ。


 どうしようもないほどの苦しみで胸が張り裂けそうなのに、意思に反して体は茅のもとへ駆けつけようと動いていた。


 いくら目を背けたいと思っていても、ここで見て見ぬ振りをすればきっと後悔する。


 片時でも自分だけが逃げられたらいいのにと考えてしまったことは否定できない。

 けれど、茅を巻き込みたくないという気持ちにも嘘はない。

 何より、友達が傷つくところなど見たくはなかった。


「あれ、朱音じゃん。どーしたの?」


 白々しく微笑を浮かべる瑠奈の一声で、その場にいる全員の意識が朱音に向けられる。

 男たちから好奇の目に晒される中、茅だけが驚いたように目を丸くしていた。


 彼らと同じ空間にいることさえ苦痛なのに、嫌な注目を浴びてさらに居心地が悪くなる。

 それでも、ここまで来てしまったからには引き下がれない。


「……茅は、関係ないだろ」

「え、なんのこと? アタシは純粋に茅ちゃんと友達になりたいなーと思って来ただけなんだけど。

 てゆーかさ、聖煌ってセキュリティガバガバだよね。生徒じゃなくても普通に校内まで入れちゃうんだもん。あは、これでいつでも会えるね」


 そう言って茅に向ける瑠奈の笑顔は、一見すると嬉しそうに破顔するあどけない少女のようだ。


 しかし、朱音は知っている。

 相手を魅了する容姿や仕草に潜む、彼女の裏の顔を。


 仲良くなりたいと言ってわざわざ茅をさらい、ご丁寧にチャットで報告してくるような瑠奈が、何も企んでいないわけがないのだ。


「……行こう、茅」

「あ……う、うん」


 瑠奈が座っているベンチまで歩み寄り、緊張で硬直している茅の手を引く。


 この後に間違いなく嫌がらせを受けるであろうことは重々承知しているが、今は一刻も早くこの場から離れることが先決だ。


「あーあ」


 無断で帰ろうとする二人を、黙って見過ごすはずもなく。

 瑠奈が引き留めるように声を放つ。ぶっきらぼうな声音には、興醒めしたような冷たさが表れていた。


「このまま帰っちゃっていいのかな」


 相手に言い聞かせるというよりは、まるで独り言のように発せられる言葉に、朱音は背筋が凍りついた。

 立ち去ろうとしていた足が止まる。


 見計らったように、男たちが朱音と茅の周りを取り囲んだ。二人を帰らせる気は更々ないようだ。


「せっかくだし、昔話でもしよっか。親睦を深めるために。――ね、朱音」

「……!!」


 駄目だ、絶対に話してはいけない。特に茅の前では。

 男たちが囲んでいるせいで、瑠奈が話を始める前に逃げ出すことは叶わない。かと言って、やめろと拒絶する勇気もない。


 何もできずにただ震える朱音を見て、茅は不安げに顔を覗き込み、瑠奈は口の端を吊り上げる。


「茅ちゃんはさ、中学の頃の朱音を知ってる?」

「……そういえば、あんまり聞いたことない、かも」


 当然だった。中学時代の話題は決して出さないようにしていたのだから。

 成り行きで振られたとしても、適当に誤魔化してすぐに話を逸らしていた。


 朱音にとって過去の自分は、是が非でも隠し通さなければならない汚点なのだ。


「そーなの? じゃあ、これ聞いたらきっとびっくりするよ。あのね……朱音はいじめっ子だったの」

「…………え?」


 数秒の間が流れた後、茅の声が力なく漏れる。耳に入った情報を完全に理解し切れていないような反応だった。


「朱音とはこの前再会したばっかりだから、近況とかよくわかんないんだけどさ。今でも昔みたいに、地味な子捕まえていたぶったりしてんの?」

「ち、ちが……」

「怖いよねー。優しい振りして懐につけ込むってのが。茅ちゃんは大丈夫? いじめられてない?」


 まるで本当に朱音がいじめをしていたような体で話す瑠奈を、もはや止めることなどできなかった。

 彼女が言ったことの全てを否定できるほど、自分が潔白だとは言い切れなかったから。


 未だ呆然としている茅に、過去にあった些細な思い出話を語るような軽々しさで、瑠奈は朱音の素性を暴露していく。


「いじめやってた割に、実は朱音本人が元々目立たないような子だったんだけど――」


 近くで話しているはずの瑠奈の声が、徐々に遠のいていく。

 今自分が置かれている現実から逃避したいのだと、体が五感を断ち切ろうとしている。


 瑠奈の言う通り、朱音は大人しく消極的な性格だった。

 奏向に対する攻撃的な振る舞いさえ、作られた人格と言ってもいい。


 自分を強く見せたいがために形成された偽りの仮面、それが今の朱音なのだ。



 昔は人と関わるのが苦手で、教室の隅に一人でじっとしているような引っ込み思案な子どもだった。


 小学生の頃の朱音は今とは正反対の性格で、そのせいか友達もほとんどいなかった。


 話しかけられても極度の緊張で上手く返答できず、周りが楽しそうに遊んでいても遠くから傍観することしかできない、とにかく大人しい児童。


 初めは興味本位で声をかけてくれる子もいたが、内気で話し下手な朱音を前に、一緒に居てもつまらないと思いすぐに関心をなくして離れてしまう子ばかりだった。


 いくら対人が苦手といえど、相手を拒絶したいわけではない。

 できることなら皆と普通にお喋りしたいのに、いざ話そうとすると頭が真っ白になり吃ってしまうのだ。


 他人と円滑なコミュニケーションが取れないまま誰とも関わらなくなり、一人で過ごす時間が大半を占めるようになった頃。


 近付かれないだけだった周りからの扱いが、少しずつ変化していった。


 今日も誰とも話すことなく過ごすのだろうと、一人自席で本を読んでいた時。

 小さく丸められた紙屑がコロンと机上に転がってきた。


 何だろうと思い、その紙屑を手に取る。

 すると、近くで騒いでいた数人の男子が戯けた調子で「わりぃ」と謝ってきた。


 紙屑で遊んでいた拍子に、誤って飛んできたのだろう。

 その時はさして気に留めず、「大丈夫」という意味を込めて頷き、読書に戻った。


 しかし、机上に何かが飛んでくるという現象は日に日に増えていった。

 飛んでくる場所が机から体、頭へと変わり、紙屑も段々大きくなっていく。


 そろそろ鬱陶しく思えてきたところで、朱音はふと気付いてしまった。


 全く反省の色が見えない謝罪と、周りのクスクスと笑う声に。物が飛んでくるのではなく、故意に投げられているのだと。


 それから、クラスメートの朱音に対する嫌がらせはエスカレートしていった。


 すれ違いざまに強く肩をぶつけられたり、班行動であからさまに居ない者扱いされたり、私物が勝手にゴミ箱へ捨てられていたり。


 今まで自分に無関心だった子たちが、"いじめ"を介して干渉し始めたのだ。


 ――雪平さんって何されても黙ってるよね。


 不意に聞こえた、そんな陰口。


 大人しくてあがり症で、少しばかり周りに馴染めないというだけで、いじめの対象になってしまう。

 わざと素っ気ない態度をとっているわけでも、好きで黙っているわけでもないのに。


 日々繰り返される嫌がらせを止めようとする人は誰一人いなかった。

 面白がっていじめに加担する当事者になるか、巻き込まれたくないと黙認する傍観者になるか。


 世の中は"普通"という枠組みから外れた者に、必ずしも平等を与えてはくれない。

 それどころか、苦痛ばかりでただ生きていくことすら困難にさせる。


 きっと自分の性格が原因なのだ。


 今よりもっと明るければ。

 他人から見下されない威勢と、周りと上手く同調できる対人能力があれば――。

 こんなに悔しくて惨めな思いをすることはなかったのだろう。


 保健室通いをするようになり、不登校の頻度も増えたが、朱音はなんとか小学校を卒業することができた。


 けれど、中学でもまた同じ目に遭うのだろうか、そんな恐怖が付いて回った。


 しかし、自分が変わる努力をしなければ、周囲から向けられる軽蔑の眼差しも変わらない。

 今度は決して弱い自分を晒したりはしないと誓った。


 親に相談し、地元の子たちが通う中学とは別の学校に入学することになった。


 それから朱音は、自分から進んでクラスメートに話しかけるようになった。

 対人経験が少ないため、相手との距離の縮め方がよくわからなかったが、とにかく気丈に振る舞うことだけは意識して。


 入学したての頃はぎこちなかった会話の調子が、日を追うごとに自然になってきているのが自分でも感じ取れた。


 中学に上がってから二週間も経たないうちに、よく連むメンバーが固定化し、グループがいくつか形成されてきた中、一際華やかな雰囲気を放つ集団があった。


 いわゆる、スクールカーストの一軍と呼ばれるようなグループ。その中心にいたのが、小高瑠奈だった。


 小柄で可愛くて愛想が良くて、勉強も運動もできるクラスの人気者。

 それが瑠奈の人物像だった。


 彼女の周りには常に誰かがいて、他人を惹きつけるカリスマ性もあった。

 人の上に立つべくして立った、まさに天性のリーダー資質を持った少女。


 同性の憧れのようなキラキラした存在である彼女を見て、朱音は悟った。

 この子の近くにいれば、きっと煩わしい人間関係で苦労することはなく、クラスで浮いてしまうこともないのだろうと。


 つまり、自分も一軍に身を置けば、舐められることもいじめられることもないのではないか。


 意を決して、朱音は瑠奈に話しかけることにした。

 緊張で声が震えたりもしたが、それでも瑠奈は、訝しむこともなく温厚に接してくれた。


 それから、彼女と何度か会話を重ねるうちに他の一軍メンバーとも関わりを持つようになり、彼女たちと一緒にいることが多くなった。


 これでもう、周りから理不尽な仕打ちを受けることも、独りで惨めに肩身が狭い思いをすることもない。


 共に笑い合える友達がいて、毎日が充実した生活になると思った。

 しかし、望んでいた幸せが手に入ったと喜びに浸れたのは束の間だった。


 ある日、瑠奈がぽつりとこんなことを呟いた。


 ――あの子さ、いつも一人で居て寂しくないのかな?


 視線の先にいたのは、休み時間にいつも一人で勉強をしている、眼鏡をかけた真面目そうな女の子だった。

 そういえば、入学してから彼女が誰かと話をしている場面をほとんど見たことがない。


 なんとなく、昔の自分を見ているようだと朱音は感じた。

 だからといって、わざわざ彼女に声をかけようとまでは思わなかった。


 自分が周りに馴染めているかどうかが最も重要で、他人の事情を気にする余裕などないのだ。


 当時は、特に深い意味もなく純粋な気持ちで出た疑問だと思っていた。

 しかし、瑠奈の些細なその一声で、一軍女子たちの彼女に対する接し方が明らかに変わっていった。

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