第31話 謀略(1)
その瞬間は唐突にやってきた。
神坂さんの用事が終わるまで、今日の放課後も図書室で時間を潰そうと教室を出て行こうとしたら、思いもよらない人物から声をかけられたのだ。
「……二色」
背後から追い抜きざまに、私にしか聞こえないくらいの声量で名前を呼ばれる。
それだけで、彼女が言わんとしていることがなんとなく理解できてしまった。
ダークブラウンのポニーテールを揺らしながら足早に歩く雪平の後ろを、距離を取りながら黙ってついていく。
例の廊下まで来たところで、雪平は足を止めた。けれど背中は向けたままで、いつものごとく私と顔を合わせようとはしない。
「雪平から話しかけてくれたってことは、少しは溝を埋められたと思ってもいいの?」
「……お前のことは嫌いだよ。昔も今も」
ようやくまともに会話ができそうで嬉しいはずなのに、何だろう、この違和感は。
雪平の調子が芳しくないこと以外の不自然さ――。
嫌いだと明言した声は弱々しく、いつもの噛み付くような威勢がないというか、何もかもを投げ出したような諦観した雰囲気があった。
しつこく話しかける私に嫌気が差して、悟りの境地にでも達したか。単に体調がすぐれないだけか。
どちらにしろ、これから彼女が話そうとしていることは、多分私が想像しているものとは違う……そんな気がする。
「この前、あたしに勉強教えてほしいって言ったよな。……あれ、受けてもいい」
「……え?」
そっと踵を返し、少しだけ振り向いた雪平の顔は、生気がごっそり抜け落ちたかのように真っ白だった。
誰がどう見ても何かを抱えていると察せるような、重苦しい空気が節々から感じ取れる。感情表現が端的な雪平だから、なおさらそれが顕著にあらわれていた。
私からお願いしておきながら、いざ了承の返事を聞くと呆気に取られてしまう。
前段階である、雪平との仲を改善するという過程をすっ飛ばしての承諾だったためか、素直にその言葉を呑み込んでいいのかと、一瞬でも懐疑心を抱いてしまった。
何より、本当に勉強を教えてもいいと思っているような態度には見えないのだ。
こんな状態の雪平から教わっても、生半可に扱われるだけだと容易に想像できるせいで、手放しで喜べない。
「雪平、なんかあった――」
「ただし、条件がある」
私の言葉を遮った声は低く、放心したように虚空を見つめる瞳は暗い。
本当にどうしたんだろう。果敢に突っ掛かってくる時とテンションが低い時の落差が極端すぎる。こんなこと、中学時代にもあったような……。
「絶対服従だ。あたしに逆らわず、どんな指示にも必ず従うこと」
「それは……勉強に関して、だよね」
雪平の教え方にいちゃもんをつけてはいけないとか、どんなにスパルタな指導でも途中で投げ出したりしないとか、そういうことではなく?
「どんな指示にも、だよ。……お前さ、あたし以外に勉強教えてもらうツテないんだろ? で、これ以上成績が落ちたら退学もあり得るんだっけ。どうすんの? 手段選んでる余裕なんてねぇと思うけど」
「…………」
等価交換か。確かに、タダで教えてもらおうなんて、雪平からすれば虫が良すぎる話かもしれない。私だけが得をして、彼女は私のせいで時間も労力も奪われるのだから。
でも、今まで私を徹底的に避けていた人が、いきなりこんな条件を持ち出すだけで、相手をしてやろうという気になるものだろうか。
雪平の腹の底が読めない。
普段の調子で今回の話を持ちかけられていたら、二つ返事で呑んだかもしれないけれど、明らかに様子がおかしい今の彼女の要求を安易に受け入れたら危険な気がする。
とはいえ、せっかく与えられたチャンスを無駄にすることもしたくない。さて、どう揺さぶるべきか……。
「……その前に、聞いてもいいかな」
廊下の窓からぼーっと外を眺めている雪平に問いかけるも、反応はない。
聞こえていないということはないだろうから、勝手に話を進める。
「その条件でなら私の頼みを受けてもいいと考えたのはなんで?」
「……別に、お前には関係ねーだろ」
「例えば、勉強教えてもらう代わりにあんたの好きな食べ物なんでも奢る、とかじゃダメなの?」
「そんな安い対価じゃ、割に合わねぇから」
「なら、お礼にあんたの前から消えてあげるって言ったら?」
「……は?」
雪平は、視界に入れたくないほど私のことがとにかく嫌いらしい。
彼女にとって、私が居なくなってほしいことが何よりの望みなら、絶対服従という回りくどい条件ではなく、初めからそれを提示すればいいはずなのに。
驚愕に見開いた目が、私を捉える。
動揺しているのか、生気のない瞳は微かに揺れていた。
「……何、言ってんだよ……バカじゃねぇの? 退学になりたくねーから必死こいてあたしに付け入ろうとしてたくせに、お礼に消えるなんて本末転倒な交渉……お前がするわけねぇ」
「うん、確かにそうだ。――ま、"消える"っていうのは、必ずしも退学のことを指してるわけじゃないんだけど」
「……?」
眉根を寄せる雪平の表情に、疑念の色が浮かぶ。彼女の中で、私が居なくなるというのはすなわち、退学を意味する他ない。
けれど、私としては当然退学する気なんて毛頭ないわけで。
いくらお願いを聞いてもらいたいからといって、彼女の言う通り、こちらが最終的に不利益を被ってしまうような条件を私は持ち出したりしない。
それが本当に退学を前提としているならば、の話だけど。
これは、雪平の真意を確かめるための撹乱だ。
出方をうかがう。多少こじつけ感があっても、それに対してどう反応するのか。
「雪平が勉強を教えてくれた結果成績が上がって、もし私が選抜クラスに戻ったら、あんたの前から"消える"ことになんない?」
「……っ! ……それ、は…………軽々しく抜かすなよ。仮にそんなことができたとして、来年まで我慢できるかッ」
雪平が協力してくれれば勉強が捗り、結果的に彼女と離れることもできて一石二鳥、みたいにうまく事が進めばいいけれど。
クラスの昇格または降格は年に一回だし、三年の進級時まで私の相手をするなんて、そりゃあ耐え難いだろう。だから――
「2ヶ月……いや、1ヶ月でいい。1ヶ月だけ私にあんたの時間をくれたら、もう二度とあんたに話しかけないし視界にも入らないようにする。……それでも?」
きっとこれが、最大限の譲歩。お互いにとって利益も不利益も分け合った、対等な取り引き。
私の提案を呑むか、自分の挙げた条件を押し通すか。雪平はどちらを取るのだろう。
「…………ダメだ。あたしが出した条件以外には乗らない」
長い沈黙の後、俯きながら小さな声が放たれる。散々悩んだ末に絞り出したような苦しげな口調だった。
……それが雪平の意志か。それなら、私の答えも決まった。
「じゃあ、やっぱ諦めるわ」
「……!?」
後者を選んだということは、嫌いな私に勉強を教えてあげてまで絶対服従をさせたい、もしくはさせなければならない理由がある。
私が雪平の前から居なくなるという、最も彼女が望んでいるであろう条件を提示したにもかかわらず、自分の要求を貫かなければならない何かが――。
やけにこだわっているその絶対服従を利用して、私に何をやらせたいのかを問い質したところで、今の雪平が素直に吐くとは思えない。
成績と退学が懸かっているとはいえ、勉強を教えてもらうためだけにそこまでのリスクを背負うのは無謀だ。残念だけど、今回は手を引くしかない。
「今まで鬱陶しく絡んだりしてごめん。この話はもう忘れてくれる? 今後一切、雪平にかかわるようなこともしないから安心して」
「……なっ、なんで……」
絶望と焦燥。雪平の様子は、そんな二つの感情が
「ウザいほど話しかけておいて、今さらもういいとかなんだよ……? そんなに条件が気に食わねーのか? 退学になるリスクに比べたら安いもんだろ。あたしが勉強教えてやるっつってんだから、黙って受け入れろよッ……!」
「何でそんな必死になってんの?」
「……ッ!」
今にも泣き出しそうなほど顔を歪ませて怒りをぶつけてくる雪平に、私は率直に疑問を投げる。
事の発端である私が諦めると明言したのに、ことごとく反感を示してきた彼女が、なぜか縋るように懇願している。立場が逆転したみたいだ。
「雪平、もう一度聞く。……なんかあった?」
彼女の態度が突然おかしくなった理由を知らないまま、大人しく言いなりになるなんてことはできない。
これは、望みを叶えてくれるなら誰にでも従う、という単純な話でもないんだ。私が服従すると誓った相手は、一人だけだから。
一応心配しているという気持ちは前面に出しているつもりだけど、間違いなくそれに気付いていない雪平は、苦虫を噛み潰したような表情でいつまでも口を噤んでいた。
話してくれそうにない、か。
「……調子悪いみたいだから、今日はもう帰んな」
「二色っ……!」
これ以上何を聞いても、会話は成立しないだろう。それに、勉強を教えてもらう然々の話はすでに決着がついたのだから。
歯を食い縛る雪平を横目に、私は彼女に背を向けた。
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