第27話 お願い(3)

 口調や性格を意図的に変えてから一年が経った。

 意識せずに自然と上辺の"雪平朱音"として振る舞えるようになったものの、最近は隠している本来の人格が表れてしまうことも時折ある。

 そうなってしまったのは、間違いなく奏向と再会したせいだ。


 彼女と話していると調子が狂う。

 心の奥底を見透かされてしまいそうで、強い自分を取り繕うことに必死になる。


 いつか綻びが垣間見えてしまうのではないかと、内心では怯えながら接していた。

 けれど、今まで押し殺してきた本性をこんなところで晒すわけにはいかなかった。


 弱い自分はもう捨てたのだ。そのおかげで充実した今がある。

 非行とは無縁の環境も、大切にしたいと思う友達もできた。

 以前より真っ当に送れている人生を、壊されるようなことが決してあってはならない。


 中学時代の悪縁を全て断ち切って、何もかも一からやり直そうと思った。

 その決意と行動が実を結んだのだと安心しきった矢先に再び関わることになった、過去の朱音を知る人物――。


 奏向が同じ高校を受験し、挙げ句に合格したと知った時は、何かの間違いだと信じたかった。

 違うクラスであることだけが唯一の救いだったが、同じ学校にいる以上、いつどこで顔を合わせるかもわからない。


 けれど、奏向のクラスには極力近付かないようにしようと警戒していたのは、案外短い間だけだった。


 どういうわけか、選抜クラスのある生徒が、頻繁に授業を欠席したり無断で学校を休んだりしているという噂が流れ始めたのだ。


 女子の中では比較的長身で、金髪に威圧感を与える顔つきといえば、思い当たる生徒は一人しかいない。


 不良のくせに中学では皆勤賞をとっていた真面目な問題児が、高校生になっていよいよ本格的に堕落し始めたかと、自分でもなぜ芽生えたのかわからない失望感を覚えたのは一瞬。


 学業に厳しい聖煌せいおう学院で、授業を蔑ろにするような生徒に情けは一切与えられない。


 そのまま改善の余地がなければ、退学も充分あり得るだろう。

 そうでなくとも、奏向が学院にいないという状況が続くだけで、朱音にとっては御の字だった。


 過去の自分を知る人が誰もいない環境の中で、ようやく本当の平穏な日常が訪れる。

 奏向が同じ学院に通っていることを忘れるほどに満ち足りていた高校生活は、二年生に進級したと同時に呆気なく崩れ去った。


 始業式当日。いつものように朝のホームルームの15分前に教室へ到着した朱音は、あるはずのない――絶対にあってはならない光景に目を疑った。


 ふと視界に入った、最後列で机に突っ伏している金髪の生徒。

 中学の時と変わらない髪の色と、上体を投げ出したような寝方に、見覚えがないはずもなく。


 入る教室を間違えたのかとクラス札を確認するも、紛うことなく『2-E』と表記されている。

 ならば、奏向が寝惚けて自分のクラスではない教室に侵入してきたのか。そうとしか考えられない。いや、そうであってほしい。


 この学院で最も顔を合わせたくない人物が同じクラスであることを何が何でも受け入れたくない朱音は、奏向が全面的に間違っているという可能性に全力で賭けて、黒板に貼り付けてある座席表を確認した。


 ――ある。奏向が座っている座席に、彼女の名前がはっきりと記されている。

 絶望のあまり膝から崩れ落ちそうになるのを、教卓を支えにしてなんとか堪えた。


 終わったと思った。

 退学ではなくクラス降格。そして、よりにもよってE組。

 最近、不登校が続いているらしいと小耳に挟んだ気もするが、なぜ学院に来ているのか。この期に及んで素行を改めようとでも思ったのか。


 何にせよ、同じクラスであれば朱音の存在が奏向に認知されるのは時間の問題だ。

 下手をすれば、進級初日から声をかけられる可能性もある。


 そして、その懸念は見事現実になってしまった。

 久方ぶりに友達と再会したような調子で、奏向は気さくに朱音へ接触してきたのだ。

 いくら周りの目を気にしない性格だとしても、話しかけるタイミングは考えてほしかった。


 昔の朱音を知らない友人たちの前で、どんなことを暴露されるかわかったものではない。


 一度だけ、不快感を前面に出しながら関わるなと強く念を押して、こちらも一切奏向を視界に入れなければ、なんとかやり過ごせるのではないか。そんな作意も容易く打ち砕かれた。


 信じられないほど話しかけてくる。

 朱音はこれまで何度も断定していた。奏向は友達ではないのだと。


 ただの中学時代の同級生と片付けるにはあまりに歪で、確かに言葉を交わす機会は何度もあったが、それはとても仲の良い者同士のやりとりとは言えないものばかりだったと、朱音の中では記憶している。


 対して奏向はどう思っているのだろう。

 ほんの少しだけ、朱音はそんな疑問を感じた。


 自分が嫌われていることを意に介さない態度と、喧嘩"友達"と言っていたことからも、少なからず朱音に悪意を抱いていないことは確然としている。


 変わりたいと必死だった朱音とは対照的に、奏向は疑いたくなるほど昔から何も変わっていない。

 その現実も、朱音が奏向を嫌う原因として、敵対心に拍車をかけていた。


 中学時代に関わりのあった人たちとは縁を切る。

 その中に例外なく奏向も含まれている。


 だから、相手がどれほど接触を図ろうとしても、朱音はひたすら無視を押し通すと決めた。

 なのに、奏向は諦めてくれない。どれほど嫌悪感を剥き出しにしても、その思いに気付いてくれない。


 自分勝手で図々しくて、人をからかうような態度が無性に鼻につく、人生で初めて心の底から反感を抱いた相手。

 そして、どんな姿の朱音でも、変わらず偏見を持つことなく接してくれる人――。


 チクリと、心のどこかで僅かな違和感を覚えた。

 関わりたくないから無視し続ける。

 その行動は朱音にとって最善であるはずなのに、そこはかとなく後ろめたいことをしているような気がした。


 違う、これは思い過ごしだ。

 抱いてはならない感情を否定するように、朱音は強く目を瞑る。

 自分は間違っていない。悪いのは全て奏向の方――。


「……朱音?」


 誰かに名前を呼ばれ、ふと立ち止まる。

 ちがやかと一瞬思ったが、彼女とは先ほど別れたばかりだ。そもそも、茅は朱音を呼び捨てにはしない。


 声がした方へ振り向こうとして、すぐ隣から少女がひょっこりと顔を覗かせた。

 その姿を視認した瞬間、朱音は戦慄にも似た悪寒を感じた。


「あは、やっぱり朱音だ。こんな所で会えるなんて奇遇だね」


 胸元まで伸びたシルバーグレーの巻き髪をふんわりと揺らしながら、少女はにこりと微笑んだ。


 コーラルのリップで塗られた唇が艶かしく弧を描くが、朱音を見据えるくっきりとした大きな瞳の奥は寸分も笑っていない。不自然な笑顔を前に、朱音の動悸が急速に早まる。


 朱音の中で最も嫌いな人物は奏向で間違いない。

 しかし、そんな彼女よりも生理的に受け付けられず、畏怖の念すら抱いてしまう相手がいた。


 それが、目の前にいる少女だ。

 動揺していることを悟られたくなくて、震え出す手を抑える。思い通りに動かない体に鞭打ち、何とか少女の名前を呟いた。


「…………瑠奈るな

「うん、ルナだよ? ちゃんと覚えてて偉い偉い。――ま、だから当然だよね」


 強張った表情を見せる朱音に向けて、瑠奈は笑みを崩さない。


「中三でクラス変わっちゃったから、それ以来? いやー、随分垢抜けたねぇ。見た目もだいぶ可愛くなって。……あ。その制服、聖煌学院のじゃん。すごーい。てことは、あの子と一緒のとこに通ってるんだ」


 朱音の髪を無遠慮にいじりながら一方的に話を進める瑠奈に、朱音は何も反応できなかった。


 視線を逸らし、どうしてこんな状況になってしまったのかと、冷や汗を流しながらただ思考が混乱していく。


 奏向よりも会いたくなかった――決別したはずの同級生が今、朱音の前に現れた。

 少しずつ確実に、今まで保たれていた安寧が崩壊への一途を辿っている。そんな気配をじわじわと感じていた。


「ここで再会できたのも何かの縁だしさ、また一緒に。……そうだ、あの子にも会いたいなぁ。朱音、同じ学校なんだから誘えるでしょ?」

「…………え……いや……」


 流されていく。瑠奈のペースに。

 目を合わせることも、うまく言葉を発することもできない。


 瑠奈の言うことに従いたくはないのに、彼女のお願いを無下に扱うことで受ける報復がいかに恐ろしいかを知っている朱音は、無意識に頷きそうになる。


 しかし、おいそれと応じるわけにはいかない。

 朱音は変わったのだ。誰かの機嫌を伺いながら行動するのはもうやめた――


「誘ってくれないの?」


 雰囲気がガラリと変わる。

 瑠奈の瞳から一切の光が消えた。

 失望を通り越した怨恨のような黒い感情が、瑠奈の声から滲み出る。


 反射的に朱音の肩が小さく跳ねた。

 なおも口のきけない朱音に突き刺すような視線を向けたまま、瑠奈は惜しむ様子もなく顎に手を当てる。


「そっかー……。ね、さっきまで一緒にいたボブの女の子、朱音の友達だよね。名前なんていうの?」

「…………あ……あの子、は……――」


 結局、何も変わってなどいなかった。

 瑠奈の威圧感に気圧されて、自分の意志をあっさり捨てたのだから。朱音が勝手に変わったと思い込んでいただけ。


 元々、誰かに従い媚びを売ることでしか存在意義を見出せない下っ端の分際で、自分を守るために他人を犠牲にする、卑怯な臆病者だったではないか――。



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