第26話 お願い(2)
威勢の良かった雪平の態度が一変する。目を丸く見開き、胸倉を掴んでいた手の力が抜けていく。
「べ……べんっ…………は?」
「私に勉強教えてくれないかな、雪平」
未だに私の発言が飲み込めていないようなので、もう一度口にする。しかし、それでも面食らったような顔に変化はなかった。
そんなに驚く? 変なことを口走ったつもりはないんだけどな。
大人しくなった雪平から少し離れ、次の反応を待つことにする。
「……なんでっ……あたしが二色に、勉強なんて教えなきゃなんねーんだよ……。つか、このタイミングで言うことじゃなくね……?」
絞り出した声は微かに震えていた。それが憤慨によるものなのか、驚愕によるものなのかは定かではないが、私の申し出に納得していないことは確かだ。
いきなりこんなことを言われても困るか。でも、私の突飛な要求を聞き入れてくれそうな人は今、彼女しかいない。
「ほら、私って成績悪いじゃん」
「んなことまで知らねぇし。首席で入学したんだから頭良かったんじゃねーのかよ」
「授業サボりまくってたら、ついていけなくなって。さすがに習ってない範囲は解けないでしょ」
「開き直んな。自業自得だろ」
それを指摘されちゃあ何も言えないんだけどね……。
アルバイトを優先した結果がこの現状だ。今までの遅れを挽回するために自力でどうにかしようと思ったけど、順調に進めるほど甘くはなかった。
雪平の言う通りなのは重々承知している。だからこそ、これ以上学業から逃げてはいけない。
「雪平もここの生徒ってことは、それなりに勉強はできるんだよね? それに、あんた以外に頼めるような知り合いもいないし。このままだと、今度はマジで退学になんのよ」
「いや……だからって……」
「お願い、このとーり! 1回1時間……いや、30分だけでいいから!」
顔の前で両手を合わせ懇願する。
雪平は困惑した様子で何か言いたげに口を開いているが、なかなかその先が出てこない。
敵意を抱いている相手から頭を下げられて、素直にいいですよなんて二つ返事で引き受けることができない気持ちはわかる。
でも、私だってこうする以外の方法が思いつかない。
「…………むり」
しかし必死の願いも虚しく、返ってきたのは無情な二文字だけだった。
「あたしが二色のこと嫌いだって知ってんだろ? 自分のこと良く思ってないヤツによく頼み込めるな。……ほんと、どうかしてるよ」
そう呟いて、逃げるように去ってしまった。私一人が取り残されて、なんとなく後味の悪さを感じてしまう。
きっと、私がどんなことを言っても端から承諾する気はなかったんだろうな。それでも、昔は強行突破で押し通してきたから、今回もいけると思ったんだけど……。
やっぱり、本人の意志は尊重するべきか。
それにしても、とことん嫌われてるな、私。からかうようなことは何度もあったけど、それがお遊びとして通用するくらいの間柄だと個人的には思っていた。
けれど雪平からすれば、私のダル絡みは許容できる限度を超えていたのかもしれない。
もしかして、順番を間違えた? 勉強を教えてもらうことをただ一方的に頼むのではなくて、先に雪平との関係を改善しておくべきだったのかもしれない。
……うーん、難しい。そもそも、あの子が私を過剰に嫌う根本的な原因がわからないんだよな……。
「……どうしたもんか」
* * *
「……
学院からの帰り道、いつもより口数の少ない雪平朱音の様子を心配した
「……え、何が?」
真面目な視線を向けてきた友人の問い掛けに、朱音は意識が引き戻されたような感覚を覚える。心配される原因を自覚していないような、間の抜けた返事が出た。
「さっきから話しててもどこか上の空だし、心ここにあらずっていうか」
「そ……そーかな。別に普通だよ?」
茅が側にいるにもかかわらず、他のことを考えてしまっている現状は否定できない。
その事態に陥ってしまっている元凶に心当たりがないわけではなく、むしろ、朱音の頭を嫌でも埋め尽くしている問題は一つしかなかった。
「普通には見えないから聞いてるんだよ……。やっぱり、二色さんのこと?」
感情がすぐ顔に出てしまう朱音は、ぎこちない苦笑を浮かべる。紛れもなく図星だった。
大体、避けられていることは本人もわかっているはずなのに、それを些かも気にしない素振りで平然と話しかけてくる神経が理解できない。普通、何度も無視されたら諦めるものではないのか。
昔から、奏向のメンタルは常人とは違うと感じていた。他人の目を一切気にせず、自分のやりたいように振る舞う。
周囲に流されない強い自我の持ち主、と言えば聞こえは良いが、自分をしっかり持っているゆえの空気を読まない行動が、時として難儀になる。
「ここのところ毎日朱音ちゃんに絡んでるよね」
「ねー…………鬱陶しいくらいに」
理由はわかっている。
先日、勉強を教えてほしいと突然懇願され、それを断った。
しかしあれからというもの、奏向が朱音の存在に気付くたび、まるで親しい友人かのような態度で声をかけてくるのだ。
徐々に気を許し始めたところで付け入るという、柄にもない策略でも考えているのだろう。
朱音にとっては傍迷惑もいいところだった。あれほど関わるなと慣れない脅しまでかけたのに、他でもない朱音自身が一番災厄を被っているのだから。
彼女は友達ではない。少なくとも、朱音の中ではそう定義されている。
ならば、中学時代の関係はどう説明するのかと聞かれたら、返答に困ってしまう。
「同じ中学だって言ってたけど、本当?」
茅がためらいながら尋ねる。
始業日に初めて奏向が声をかけてきた時、最も怖じ気づいていたのは茅だった。
悪さとは全く対極の位置にいる彼女は、不良という人種と同じ空間にいたこともないくらい、純真そのものだ。
朱音とどういう関係なのかを奏向に聞いた茅の勇姿には、朱音も驚いたほどである。
"喧嘩友達"と口走った奏向を黙らせようと、咄嗟に茅たちを強引に帰らせてしまったが、あからさまに何度も友達面する奏向を見られていては、今さらもう誤魔化せない。
「まぁ、中学は同じだった……けど、全然仲がいいとかはなかったし、ただのクラスメートだっただけでほとんど話したこともないよぉー」
半分は本当で、半分は嘘。
いくら奏向が善意を向けてこようとも、朱音は奏向との関係を顔見知り以上だと認めるわけにはいかなかった。
嫌いだから。
今まで敵意を向けてきた相手を、こんな些細なきっかけで受け入れるなんて許されないから。
「そうなんだ……。あんまりしつこいようだと、先生に相談した方がいいかも」
「大丈夫だって! 今のところ実害はないから」
しつこいくせに引き際は潔いため、先日のように怒るに怒れない。
我慢の沸点を超えそうになるのを見計らうかのように、話しかけるのをついと止めるのだ。
計算でやっているのかはわからない。
人の心に土足で踏み込んできたかと思えば、あっさりと距離を取る。
遊んでいた玩具に突然興味を示さなくなる子どものように、相手へ抱く関心の移り変わりが早く、必要以上に深入りしてこない。
それが、奏向の他人との接し方だった。
「……なんか、わたしのせいで迷惑かけてたらごめん」
それでも、友達といる時に奏向が遠慮なく割り込んでくるのは確かだ。
そのせいで周りにいらぬ恐怖を与えてしまっているのではないかと、密かに罪悪感を抱いてしまう。
「全然! そんなこと思ってないよ。ただ、びっくりはしたなぁ。あの二色さんが朱音ちゃんと知り合いだったんだーって。……急に声かけてきた時は、ちょっと怖かった」
「ほんと怖いよねぇー。もうちょっと不良オーラ消せないのかな、アイツ」
「あいつ……?」
つい口が滑って、いつもの柄の悪い言葉遣いが出てしまった。慌てて大袈裟な咳払いをしながら、撤回するように首を横に振る。
「あっ、わたし今日はバイトだからここで!」
「……? うん、また明日ね」
分かれ道まで歩いたところで、強引に話を終わらせる。不自然な朱音の態度に茅は疑念を感じたが、気のせいだと思い込んで手を振った。
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