第13話 時給1万円(2)

 日給1万円でもなく、週給1万円でもなく、"時"給1万円。……ちょっとこれは話が変わってくるな。


 一日に最低四時間は働くとして、週五日の平日勤務でも月八十万円。サラリーマンの平均月収の二倍以上はある。

 私が現在アルバイトで稼いでいる額とは比較にならないほどの大金であることは言うまでもない。


 何か裏があるはずだ。時給が四桁の仕事なんてまともじゃない。

 麻薬を密輸させられたり、マフィアの抗争に放り込まれたり、表沙汰にできないような裏仕事をやらされるに違いない……!


 だけど、時給1万円か……。百歩譲ってそれが本当ならば、夢のような話だ。

 ……いやいや、こんな美味しい話あるはずがない。杏華さんはまた私を惑わそうとしている。もうそんな冷やかしには動じるもんか。


「……この上なく目が泳いでいるけど」

「あ……? ……泳いでないし!」


 呆れた顔で神坂さんに指摘され、我に返る。断じて心が動かされたわけではない。断じて……!

 と思いつつ、それだけ稼ぐことができれば、ものの数年で借金を完済できるのではと想像してしまった自分もいる。


 まあ、その……ついさっき否定したばかりだけど、何も怪しくない安全な仕事だと確信を持てたら、引き受けることを考えてあげなくもない、かもしれない。


「奏向さんからすると、にわかに信じ難いお話かとは思いますが、実際にお嬢様の付き人をされていた方もいらっしゃいますので前例はあります。その方は、およそ一年間で五千万円を得られました」

「ごせんまんッ!?」


 声が裏返った。慌てて口元を押さえるが時すでに遅し。

 動揺を全く隠しきれていない恥ずかしい声が部屋中に響き渡ってしまった。


 杏華さんはクスリと笑みをこぼし、神坂さんは優雅にお茶を啜っている。

 ……なんなんだ、その余裕は。これが庶民とお嬢様の差か……。


 それにしても、謎は深まるばかりだ。

 誰にでも任せられる業務ではないことは確かなのだろう。

 だからこそ、どこにでもいるしがない女子高生にそんな仕事を紹介してしまって良いのか。


「……なんでそんなに高額なんです? 時給1万円って……現実味がなくて素直に受け止められないんですけど」

「もちろん、それだけの価値があるからですよ。命を賭す覚悟で大切なお嬢様をお守りしていただくのですから、当然の対価です」


 命を賭すって……そんな物騒な。全然簡単な業務じゃないんですが。


 一般的に知られている大抵のアルバイト労働なら、体力を酷使することも厭わない覚悟はあったのに。

 財閥のお嬢様というのは大統領並みの重要人物か何かなの?


「奏向さんは運動神経が並外れているそうで。きっと、どんな事件や災害が起きてもお嬢様を危険に晒すことはないと信じております」

「さすがに規模が大きすぎます」


 そういえばいつだったか、喫茶店での雑談で中学時代に少しヤンチャしていたことをちらっと話した気もするけど……。


 好き好んで喧嘩や殴り合いをしていたわけではないし、ただのチンピラと違って何を考えているのかわからない不審者を相手にするのは、危険度の度合いが変わってくる。


「……神坂さんって、殺し屋に命でも狙われてる?」

「さあ、どうかしらね。自分でも気付かないうちに他人の恨みを買っているかもしれないし、少なくとも祖父や父を快く思わない者はいるから。必ずしも私が巻き込まれないという保証はないと思う」

「引くほど冷静じゃん」


 自分の命が脅かされている可能性があるかもしれないのに、どんな修羅場を潜り抜けてきたらそこまで達観できるのか。


 さっきから他人事のような振る舞いをしているけれど、身の安全を重視するのなら、自分のお世話役になる相手のことくらいしっかり見定めるべきだと思う。


「ひとまずこちらを見ていただければ、奏向さんに本気でお願いしたいという私の気持ちが伝わるかと思います」


 そう言って杏華さんが机上に差し出してきたのは、雇用契約書だった。ゴクリと生唾を飲み込み、恐る恐る手に取る。


 書式的には何の変哲もない、どこにでもありそうな契約書だけど、どこに何が書いてあるのか隅々まで読み込まないと、身に覚えのない不都合な契約を交わされる可能性もある。


 目を通し始めた矢先、冒頭文にある労働者のところに、私の名前が記載されていることに気付いた。……まじか。受け入れ態勢は万全ってこと?


 さらに書類の下部へ目を移すと、雇用主のサインと押印があった。『神坂夕莉』と、達筆な字で記されている。


「……正気?」


 サインしているということは、神坂さん自身も本当に付き人を雇う気はあるんだ。


 杏華さんが私にその仕事を勧めている場面を目の当たりにしても拒絶はしなかったことから、私が彼女のお世話係になっても構わない、もしくは誰でもいいからとりあえず雇いたいということなのか。


 あれほど疑っていたのに、形として証明できるものがあるだけで一気に現実味を帯びてきた。

 そして、重要事項の一つである賃金の欄には『10,000円』の文字が。

 こればかりは実際にこの目で確かめたとしても、未だに信じられない。


「雇用契約に関しては、今すぐにお返事いただかなくても構いません。他のアルバイトとの兼ね合いもあるかと思いますので。ただ、私はぜひ奏向さんに、お嬢様のお世話係をお任せしたいと考えています。どうか前向きにご検討いただけると嬉しいです」

「うう……」


 杏華さんの屈託のない笑顔に、懐疑心が崩壊寸前まできている。


 ざっと契約書を流し読みした限りでは、特に怪しい内容は記載されていなかった。

 あまりに普通すぎて、逆に違和感を覚えるくらいに。


 あえて引っ掛かる点があるとすれば、仕事内容の欄に『雇用主の指示全般に従うものとする』と書いてあること。


 理不尽な命令でもされるのだろうか……。

 けど時給1万円なら、こちらもそれ相応の職務を果たさなければならない。高時給には、必ずそれなりの理由がある。


 私は仕事を選べるほど余裕のある身分ではないし、本分である学業を差し置いてでも、お金を稼ぐことを何より優先しなければならない事情がある。


 だから、少しでも多く稼げる仕事に就くチャンスがあるのなら、みすみす逃すわけにもいかない。たとえそれが、危険を伴うものだとしても。


 第一、休みもなく一日の大半をアルバイトに捧げている時点で、半分身を投げ打っているようなものだ。

 今さら楽な仕事をしたいだなんて甘えは通用しない。

 ここまで勧められたらもう引き受けるしかない、か……?


「もし決断できない要因があるのなら、遠慮なく言って。私も生半可な気持ちで判をついていないから。こちらも雇用主として、誠意を持って対応するわ」


 ちゃんと真面目に考えてたんだ。

 揺らぎのない芯の通った神坂さんの声に、少し安心する。労働者を蔑ろにするような雇用主だったらやりづらいし。


「決断できない、わけじゃないんだけど……いろいろ聞きたいこともあるから、それを確かめた後に答えを出したい」


 仕事のもう少し具体的な内容とか、そもそも私にお世話係をお願いしようと思った理由とか、それらの懸念要素が払拭されるまでは首を縦に振ることはできなかった。

 ……と言っても、私の意志はほぼ承諾する方向に傾いているのだけど。


「それでしたら、日を改めて面接を行うのはいかがでしょう。お嬢様と奏向さんはお知り合いになったばかりですし、お互いのことを理解してからでも遅くはないかと」

「……そうね。認識合わせをしておくに越したことはないわ。あなたにとっても、それで納得のいく結論を出せるのなら」


 二人の意見に、私は同意を示すように頷いた。採用前提の面接なんてなかなか無いけれど……。


 時給1万円のアルバイトがいよいよ目前に迫ってきている。

 その前に、神坂さんの付き人として働くのなら彼女のことを少しでも知っておきたいし、いい機会だ。現状、財閥のお嬢様ということくらいしか知らないから。


「では、早速日程を決めてしまいましょうか。奏向さん、ご都合のよろしい日時はありますか?」

「そうですね……」


 頭の中で記憶されているスケジュールを確認する。


 明日と明後日は土日でフルタイム勤務のため、時間に空きはない。

 となると候補は平日になるが、授業のある時間以外は隙間なくシフトを入れているため、これまた都合がつかない。


 改めて思うけど、休みがないな……いや、学院に行くのは今日までと決めたんだし、午前中なら空いてるじゃん。


「平日の午前中なら、いつでも大丈夫なんですが……」


 外見年齢的におそらく神坂さんも学生だろうし、平日の午前はさすがに彼女の都合が悪いかも。

 口に出してからやっぱり撤回しようかと考えていたところ、神坂さんから意外な答えが返ってきた。


「私は構わないわ」

「うそ」

「ただし――」


 神坂さんが改めて私と向き直る。

 感情の読めない瞳が、射抜くように私の目を捉えた。


「その時間帯、あなたは必ず学校にいて」

「……はい?」


 学校にいたら面接に行けないんだけど。

 もしかして、リモートでやるとか? 確かに対面が難しいのならその方が合理的だし、電話面接という方法もあるから場所にこだわらなくてもいいのかもしれない。

 でも、なぜわざわざ学校?


「いいわね」


 念を押され、頷くしかない。

 結局、面接は週明けの月曜日に行うことになった。

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