第12話 時給1万円(1)
「ゴホッ……!」
飲み込みかけたお茶が気管に入りそうになり、盛大にむせ返る。
かろうじてお茶を噴き出さないように耐えることはできたけど、気管に纏わり付く違和感のせいで咳が止まらない。
なん……なんだって? 私の聞き間違いでなければ"お嬢様"って言った、よね。
お嬢様って誰だっけ……ああ、そうそう、神坂さん……え、どういうこと?
「お……"お嬢様"?」
「はい。夕莉お嬢様を、奏向さんに差し上げます」
「何言ってんですか?」
予想の遥か真上をいく発言に、頭が思考することを放棄している。
もっと普通の、お菓子とか実用性のあるものかと思っていたのに。
神坂さんを私にプレゼントって……改めて文章にすると、とんでもないな……。
退学のことで悩んでいた私に、何を思ってそんなことを……。
女の子に飢えているとでも? 可愛い女の子でも与えれば元気が出ると?
杏華さんの意図が全く計り知れない。
「あんたも何か反論しなさいよ」
自分のメイドが勝手に主人を献上しようとしてる。しかも、どこの馬の骨かもわからない女に。
そんなぞんざいに扱われていいわけ?
まるで関係ないと言わんばかりの無表情で、隣で静かにお茶を飲む神坂さんに訴えかけるも、小さなため息一つであしらわれる。
「冗談に決まっているでしょう」
まるで、鵜呑みにした私の方がおかしいみたいな態度を取られた。
そりゃあ、100%信じたわけではないけど、いきなり突拍子もないことを言われたらお茶を喉に詰まらせるくらいには困惑してしまう。
でも、杏華さんがこんな質の悪い洒落を言うとも思えない。
「冗談って……私の言うことは真に受けたのに?」
「あれは……あなたのことをよく知らない立場からすれば、本気で言っていると捉えてもおかしくはないはずよ」
「ふーん」
「……何?」
「なんでも」
今の無愛想な顔とはかけ離れた、感情をあらわにした彼女の表情を思い出す。
少し煽っただけであの動揺ぶり。
でもそれは脅しに対する萎縮ではなくて、何かを訴えたいけれど無理に我慢しているような、やるせなさが滲み出た表情だったように思う。
そうでなければ、真っ向から私と目を合わせたりはしない。
確かにその人の内面を知っていれば、その発言が冗談かどうかを判断するのは容易いかもしれないけど……。
私の言った『大怪我してたら――』というのはさすがに洒落にならない、現実に充分起こり得ることだから、彼女は本気にしたのかな。
ただ、今の杏華さんに対しては本当に信じていいのかわからないくらい、おふざけが過ぎる。
自分の名前を出されても一切反応しなかった神坂さんを見る限り、やはり冗談だったのか。
もしそうなら、あの時の真剣に励ましてくれた声は嘘だったのかと、疑ってしまいそうになる。
「あの、杏華さん。もう少し詳しく説明していただけませんか」
ようやく咳が治まり、疑心暗鬼になりながらも彼女の真意を尋ねる。
「驚かせてしまい申し訳ありません。でも、冗談でこのようなことを申し上げたりはしませんよ。私は本当のことしか言いませんから」
いつかのセリフを口にした杏華さんは、表面上では笑顔だ。
けれど、どことなく真面目に語っているようにもとれる雰囲気に、ますます私の頭は混乱していく。
神坂さんは当事者であるにもかかわらず一切表情を変えないし、どちらの態度を信じればいいのか。
「先ほどお嬢様も仰いましたが、この家にはお嬢様と私しか住んでおりません。なので、彼女のお世話や家のことは全て私が担っておりました。
ただ、私は確かにメイドではありますが、いつ何時でもお嬢様に付きっきりで従事できるかというと、残念ながら限界があります。何せ、付き人は私一人なので。そこで――」
杏華さんは改めて私に視線を向けた。
そして、右手の人差し指を立てて意味ありげに口角を上げる。
「お嬢様のお世話をしてくださる方を、もう一人雇用しようと考えました」
つまり、神坂家に仕える使用人を増やしたいということか。
神坂さんがどれほど高貴なお嬢様なのかは知らないけれど、身の回りのことを全て他人に任せるというのなら、確かに使用人は一人よりも多い方が良いのかもしれない。
でも、そうであれば今まで杏華さん以外に側近や雑用係とかは雇わなかったのかな。
「私は家事に専念して、その方には雑務とお嬢様の身辺警護をお願いしよう、と。要するに、お嬢様を献身的に支えてくださる方が必要ということですね」
雑務と護衛ね……。それらしい言葉で表現してくれたけど、それはもはや召使いなのでは?
でも、美人な女の子に付き従うのが仕事なら、お金を積めばそれなりに人は集まりそう。
しかし、一応説明はされているけど、使用人を雇いたいという話が先の爆弾発言とどう関係してくるのか、この時点ではまだ含意の全てを汲み取ることは難しい。
果たして、彼女が伝えたいことは一体何なのか。
「お嬢様は神坂財閥のご令嬢であるゆえ、その身を狙われることが多いのです。良い意味でも、悪い意味でも──。これまで何名か、ぜひ職務を仰せ付かりたいと願い出てくださる方はいらっしゃったのですが、お嬢様との相性が芳しくなく……」
神坂さんの横顔をチラッと盗み見る。
一般的な第一印象としては、どちらかというと近寄り難い方だと思う。
ヤンキーや不良に対する恐怖心とかではなく、端麗な容姿や大人びた雰囲気からして、自分と釣り合わないのではないかという劣等感を抱いてしまう人が多そう。
それほどに、彼女の存在感は抜きん出ている。
ただ、外見は良いとしても性格はどうなんだろう。
出会って初日なのであれこれ言えないけれど、相性が原因でずっと使用人を雇っていないのだとしたら、少なからず神坂さんにも問題があるのかな。
そんな憶測が見破られたかのように、神坂さんから横目で睨まれた。
おー、こわ。顔立ちが妙に整っているから、怖さもひとしおだ。
私は何食わぬ顔ですぐさま視線を逸らした。
「どうしたものかと悩んでいたところ、お嬢様の付き人に相応しいと思える適任者が現れました。それが奏向さんです」
「いやわからないです」
……なぜそこで私? 判断基準が不明すぎる。もっと他にいなかったの。
そもそも杏華さんは私の詳しい素性を全て知っているわけではないし、お嬢様のお世話という大役をただの女子高生に任せていいはずがない。
これでは護衛ではなく、側から見ればパシリだ。
「つまり私が申し上げたいのは、お嬢様の付き人として雇用されるための権利を差し上げる、ということです」
「一番重要なところをよく端折れましたね……」
今回ばかりは、杏華さんの笑顔が恐ろしい。
神坂さんが"冗談に決まっている"と言ったのは、彼女そのものが贈り物だと勘違いしていた私に対する嘲りだったのか。
……やられた。でも、さすがにあんな言い方をされたら誰だってそう解釈してしまう。
とにかく、真意は理解できた。これはスカウトされていると捉えても良いのだろうか。
しかし、引き受けるかどうかは別問題。既に働き口には困っていないのだから。
「いかがでしょうか、奏向さん。お嬢様のお世話に興味はおありですか?」
「…………」
ニコニコと微笑む杏華さんに他意はないのだろうけど、言い方がいかがわしいんだよな……。
今掛け持ちしているアルバイトだけで精一杯なので、私の答えはもちろんノーだ。
「あいにくですが、雇用に関してはもう間に合ってますので。それに、私一応高校生ですし、未成年がやるような仕事ではないと思うんですが……」
「そこはあまり堅くお考えにならなくて大丈夫です。雑務や警護といっても、ただお嬢様のご命令を聞いて、お嬢様のお側にいるだけの簡単な業務ですから」
絶対に嘘だ。安心させようとしているのか、元々優しい声音で話しているのかはわからないけど、その唆し方は典型的な詐欺の手口では……?
「ちなみに、賃金は時給1万円、と言っても心が惹かれませんか?」
「いちまん!?」
目ん玉がひん剥いた。
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