第11話 贈り物(3)
約四十分後、夕食が用意できたと部屋まで呼びに来てくれた杏華さんに返事をして、暇潰しのために見ていたテレビの電源を落とす。
一人で見るには贅沢すぎるサイズの大型テレビで、画面が大きすぎることに感動するあまり、内容がほぼ頭に入らなかった。
お腹が鳴り始めてからそれなりに時間が経ったけど、空腹の限界はまだ超えていない。早くご飯が食べたくてうずうずしている。
杏華さんに案内され、ダイニングまでの廊下を歩いていく。
部屋から出た瞬間にも感じたけど、食欲を唆る美味しそうな匂いが漂っていた。特に魚の焼けた香ばしい匂いがする。
今度は腹の虫が勝手に鳴らないよう、腹筋に力を入れておこう。
同じ家の中とは思えないほど長い廊下を歩き、ようやく辿り着いたダイニングには、大家族で使用するような大きさの大理石のダイニングテーブルが中央に設置されていた。
そして、人数分の食膳が並んでいる。
テーブルのサイズの割に使われているのは省スペースという寂しい光景に、私はある疑問をぶつけてみた。
「ご両親とか、他に同居してる家族とかはいないの?」
用意されている膳の数は三人分。この場にいるのは、少女と杏華さんと私だけ。
人様の食卓にお邪魔するのだから、他にも家族がいるのではと思っていたのだけど。
「この家には、私と杏華の二人しか住んでいないわ」
夕食の支度を終えて既にテーブルの前に座っていた少女が、素っ気なく応えた。
お嬢様というだけあって、ただ座っているだけなのに佇まいが並ではなく、お手本のような姿勢の正しさを自然とやってのける姿が、素直に綺麗だと思った。
「ご主人様は常にご多忙の御身ですので、お嬢様とは住まいを異にしていらっしゃるのです」
「へえ……」
杏華さんが補足説明をしてくれた。
家庭の事情とかいろいろあるだろうし、それがお金持ちの家ならなおさら、一般人とはまた違った家族の形があるのだろう。
二人で暮らしているという事実がわかれば、これ以上詮索するつもりはなかった。
それにしても、ダイニングルームだけでうちのボロアパートの部屋を余裕で占領できるほどの広さがあるけど、一体どれくらいの面積があるのか。
間取りが無駄に広すぎてそわそわするんですけど。
「ここ、座ったら?」
気付けば、杏華さんは少女の向かいに着席していた。
いつまでも直立している私を見上げて、少女は席に座るよう促す。残る席は、彼女の隣だけ。
慣れない空間に若干の戸惑いを抱きつつ、促されるまま椅子に腰掛けた。
改めて鼻腔を刺激する匂いが、食欲を掻き立てる。
夕食の献立は、白ご飯に焼き魚、具沢山の豚汁、だし巻き卵、ひじきの煮物、豆腐とトマトのサラダと、これぞ和食というメニューが揃っていた。
意外というか、私が想像していたお金持ちの食べる料理とだいぶ違う。
「なんか、もっと高級な食材が使われてるのかと思ってました」
「意外でしたか? 食事の内容は一般のご家庭と変わらないんですよ」
「……板前に懐石料理でも頼めば良かったかしら」
「いや、違くて。私の好きなものばかりだから、すごく嬉しい」
隣でぼそっと吐き出された少女の呟きに、即座にフォローを入れる。
逆に馴染みのない高級料理が出てきたらどうしようかと思っていたし、庶民にとってはこういう家庭的なメニューが一番安心する。
少女がチラリと私に視線を向けたが、目が合った瞬間すぐに逸らされてしまった。
……フォローが足りなかったかな。
「それでは、いただきましょうか」
杏華さんの合図で両手を合わせ、各々「いただきます」と声にする。
どれもこれも、お店に出されても遜色ないほど美味しそうな見た目で、内心ではかなりウキウキしていた。
まずは、汁物の豚汁を一口頂く。猫舌なので火傷に注意しながら、何度も息を吹きかけて湯気を飛ばす。
そっと口に含んだ瞬間コクが一気に広がり、空きっ腹に豚汁の優しい味が染み渡る。
うま。思わず目を見開いた。
この一口を皮切りに、箸が次々と料理を摘んでいく。
主菜の焼き魚はもちろん、副菜もシンプルながらしっかりとした味わいがあり、それぞれの食べ物を引き立て合う。
和の食材と白ご飯の組み合わせはやはり最高だ。
あまりの美味しさに箸が止まらない私に向かって、杏華さんが嬉しそうに話を振ってきた。
「奏向さんはご自身でもお料理されるんですよね。お口に合うか心配だったのですが……お味はいかがでしょうか」
「めちゃくちゃ美味しいです。自分で作るものとは比にならないくらい、何倍も」
中学生の頃から家事は全て私の担当だった。
もちろんその中に料理も含まれているから当然やっていたけど、お母さんが仕事で外食するようになってから、一人で食べるようになった。
たまに、昼間起きているお母さんに簡単な料理を作ってあげることもあるけれど。
自分だけのために作る料理はどこか味気なくて、徐々に食へのこだわりもなくなり、何を食べても美味しさも不味さも感じなくなってしまった。
でも、この料理は冗談抜きで感動するほど絶品だ。
食べ物ってこんなに美味しかったっけと忘れていた感覚が一気に蘇ったようで、自分でも気持ち悪いと思うほど顔が勝手に綻んでしまう。
「特にこのだし巻き卵とか」
「そちらはお嬢様がお作りになったんですよ」
「え、そうなの?」
本当に作ってくれたんだ。驚いて隣の少女の顔を覗き込む。
「……ええ、まぁ」
少女は私に目もくれず、行儀良くお茶碗を持ってご飯を口に運んでいた。
お嬢様で美味しい料理も作れて容姿も申し分ないって、女子の鑑じゃん。木登りだけはイメージとかけ離れているけど。
どうしても称賛を伝えたくて口を開いたところで、私は今さらなことに気付いた。
「……ねぇ、名前は?」
本当になぜ今頃と自分でも思う質問だったけど、聞き出すタイミングがなかった。
名前も知らない女の子の家で一緒に食卓を囲むのは、なかなかシュールな状況では?
相変わらず箸を止めない少女は、ようやくこちらを一瞥する。
「それを聞きたいのなら、先にあなたが名乗るべきだと思うけれど」
それもそうだ。少女に興味が湧いてきた気持ちの勢いで、優先順位を間違えた。
相手に心を開いてもらうには、まずは自分から歩み寄るというのは、対人関係における常套手段だ。
「
「……
無視されたのかと思うほどの沈黙が流れた後、少女はまた目を逸らして、教科書でも音読するような単調さで名乗った。
神坂夕莉、ね。うん、覚えた。
初対面での出来事が割と印象的だったから、多分忘れないと思う。
「神坂さん。このだし巻き卵、すっごく美味しいよ。今まで食べた中で一番かも」
「…………」
神坂さんからの反応はない。それどころか、完全に顔を背けられてしまった。
あれ、なんか気に障るようなこと言ったっけ。首を傾げる私に、杏華さんがクスリと笑う。
「大丈夫ですよ。照れているだけですから」
「別に、照れてない」
否定する速度は速いのね。機嫌を損ねたわけじゃないのならいいか。
ご飯をバクバク食べる私に気を利かせてか、杏華さんがおかわりを持ってきてくれた。自分でも驚くほど、食べ物がどんどん胃の中へ吸い込まれていく。
よほどお腹が空いていたのか、それとも料理が美味しすぎるのか。きっとその両方だろう。
お皿にあったものを全て平らげ「ごちそうさまでした」と手を合わせる。誰かとこうして食事をしたのは何年振りだろうか。
「お粗末様でした」と穏やかな笑顔を向ける杏華さんに、私も自然と頬が緩んだ。
「奏向さん。実は、お礼はこれだけではないんです」
食後のお茶を啜りながら一息ついていたら、改まった表情で向かいに座る杏華さんが私と目を合わせてきた。
思わず、丸くなっていた背筋が伸びる。
「先日カフェでお話したこと、覚えていらっしゃいますか?」
「もちろん、覚えてます」
なんだか杏華さんからは与えられてばかりで、嬉しい反面申し訳なく思う。
彼女が私の話を聞いてくれたこと自体が、私にとっては素敵なプレゼントなんだ。
これ以上何かを貰っても、恐縮すぎて心から喜べるかもわからない。
固唾を飲んで杏華さんの言動を見守るが、彼女が一向に動き出す気配はなく、ただニコニコと笑顔を浮かべている。
しかし、湯呑みに口を付けたのと同時、杏華さんが言葉を発した。
「奏向さんのお隣にいらっしゃる――お嬢様が、私からの贈り物です」
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