第10話 贈り物(2)

 扉のすぐ前に、女の子が立っていた。

 勢い余った体勢で静止したので、思いのほか距離が近い。


 人は予期しないものに突として遭遇すると、その対象を注意深く観察してしまうようだ。自分に危険が及ばないかを判断するために。今の私がまさにその状態だった。


 無意識に眼前の少女に見入ってしまう。


 背中まで伸びた癖一つない黒髪は、艶やかさが目に見えるほど美しく、絹糸のようにきめ細かい。

 素肌は陶器のように白く、服の上からでもわかる体の曲線は、少女の体躯が華奢であることを示している。

 切長の目はクールな印象を抱きつつも、くっきりした二重がアンニュイな雰囲気を醸し出していた。


 ――あの娘だ。広場で、男の子のフリスビーを取るため木に登った少女。

 ということは、この娘が杏華さんの仕える"お嬢様"。


 彼女は広場にいた時とは違う格好をしていた。部屋着だろうか。白いTシャツの上にロングカーディガンを羽織り、ショートパンツから覗くスラリとした生足が妙に艶めかしい。


 視線の対象が少女の顔から体に向かっていたことに気付き、ようやく我に返った。


 どれほどの間、彼女を凝視していただろうか。相手も同様に無言で私を見つめていたため、まるで時が止まったかのような感覚があった。


 声を出す準備が整ったところで息を吸い込んだ瞬間、先に口火を切ったのは私でも少女でもなく、背後から掛けられた声だった。


「奏向さん、ネクタイをお忘れで…………お嬢様?」


 反射的に振り返ると、これまた近くに私のネクタイを持った杏華さんが立っていた。


 そういえばネクタイしていなかったっけと胸元に手を当てて確認すると、ブラウスの前面が半分ほどはだけていることに今さら気付く。……え、なんで?


「……杏華。これは一体、どういう状況?」


 咎めるでもなく、少女は私から杏華さんへ視線を移し、ただ淡々と疑問を口にする。


 彼女が私を見ていたのは、この格好が原因に違いない。広場での気絶といい、どうして立て続けにだらしない姿を見られるんだろう……。


 さりげなくブラウスのボタンを留めながら、前にも後ろにも動けない状態なので、事の成り行きを見守ることにする。

 感情の読めない少女の問いに、杏華さんは笑顔で答えた。


「奏向さんをお誘いしたのですが、残念ながらお帰りになるそうで」

「その表現はちょっと語弊を生みそうなんですが」

「帰る……?」


 少女は全く気にする素振りを見せず、杏華さんの誤解されかねない発言よりも、別のところに反応を示した。


「お嬢様はなぜこちらに?」

「それは……もちろん、心配だったから。様子を見に来たの」


 勝手に体勢を崩して倒れたのは私の方とはいえ、少なからず迷惑を掛けてしまったという責任を感じているのか、少女は気まずそうに目を逸らす。

 そして、親に叱られた子どものように消沈した様子でそっと声を落とした。


「……ごめんなさい、私のせいで」


 大丈夫だと情けを掛けるより、なぜこんなにも真剣に謝罪してくるんだろうと思うほどの堅苦しい態度に、つい吹き出してしまった。

 私にとっては本当に何でもないことで、深刻に思われても逆に困るくらいなのに。


 今はアルバイトで忙しくてめっきり減ったけど、中学時代まではいろんな事情でよく怪我をしていたから、頭を打った程度ならお遊びの範疇で片付けられる。


「…………」


 少女が怪訝そうに眉根を寄せている。まるで、予想とかけ離れた反応をされて意味がわからない、と不服を唱えるように。


 こういう場合は、どういう切り返しをすれば良いのだろう。

 気を遣われるのはもう充分だし、結果的に私は無傷だったのだから何事もなかったかのように振る舞ってほしいのだけど。


「もし私が大怪我してたら、どうしてた?」


 だから私は、あえて挑発するように意地悪く詰め寄ってみた。

 どうしたら彼女がその物思わしげな表情を緩めてくれるのか、試してみたいという気持ちもある。


 これはあくまで、戯れだ。少女を脅して糾弾する気なんて欠片もない、ただのイタズラじみた絡み――


「……っ」


 ――のつもりだったけど、こちらも予想外の反応を見せられ動揺してしまった。


 少女は大きく見開いた目でじっと私を見つめ返し、何かを堪えるように唇を引き結んだ。今にも涙を浮かべそうなほど、彼女の瞳に艶を帯びた膜が張る。


「あ、いや……本気で怒ってるわけじゃなくて。……冗談通じない感じ?」


 まさか真に受けるとは思っていなかったので、変な冷や汗が滲む。これでは、私が少女をいじめたみたいになってしまう。


 助けを求めて杏華さんの方へ振り向くが、子どもの失態を目の当たりにした親のように苦笑を浮かべるだけ。


 僅かにでも生まれた出来心に後悔していると、少女がずいと顔を近付けてきた。

 私より少し背の低い彼女の瞳に、狼狽えている私の顔が映る。


「……本当に、どこも痛くはない?」

「う、うん」

「……そう」


 少女は一歩下がり、私の体を隈なく観察するように視線を動かす。本当に異常がないと納得したのか、頷くように目を伏せた。

 小さく息を吐き、顔を上げた時には涙の膜は消えていた。


 広場で見た時のような無表情に戻り、私は胸を撫で下ろす。

 気楽に接してほしかっただけなのに、なぜ私の方がここまで気を遣わなければならないのか……。

 こんな場面でも自分の強面が意図せず影響してしまう現実に嘆くしかない。


「とりあえず、私は何ともないんで……」

「この後、時間あるかしら」


 杏華さんからネクタイを受け取り、さっさと帰ろうとした時、少女が行く手を阻むように私の動きに合わせて後退した。


 その質問からすると、素直に帰らせてはくれないようだ。あと、杏華さんと同じ誘い文句なのは気のせい……?


 用事があるとは言えない。

 アルバイトに行く必要がなくなったことは杏華さんも周知の事実なので、時間があるかないかで言えば"ある"。

 しかし、"ある"と答えたら彼女は何をするつもりなんだろう。


 返答に渋っていたら、この場にそぐわない音が主張強めにぎゅるると鳴った。


「…………」

「…………」


 ……私だ。すっかり忘れていたけど、ずっと眠っていたせいでお昼ご飯を食べていなかった。ついでに朝ご飯も抜いてきてしまったので、今日一日何も口にしていないことになる。


 気まずい空気が流れる中、腹の虫が正直に二度目の音を鳴らした。もう何をやっても誤魔化せない。


「……お嬢様もお詫びをしたいそうなので、せめて夕食だけでもご一緒にいかがでしょうか?」


 またしても沈黙を打ち破ってくれた杏華さんに盛大な賛辞を贈りたい。

 ここまで醜態を晒しておいて、断るのはさすがに強情すぎる。勝手に鳴り響くお腹を摩りながら、私は観念して頷いた。


「……では、そうさせていただきます」

「決まりね。和食と洋食、どちらが好み? 中華でもいいけれど」


 夕食は彼女が作ってくれるのだろうか。てっきり、メイドである杏華さんが全ての家事を担っていると思っていたけど。

 もしかして、お詫びというのはこのこと? ひとまず、今の気分を伝えておこう。


「……じゃあ、和食で」

「わかったわ」


 用は済んだのか、それだけ言うと少女は背中を向けて行ってしまった。

 ご飯のことを想像し、懲りもせず三度目の音が鳴き出す。いい加減静まれよ、私のお腹。


「お嬢様はあまり感情を表に出さない方なので、誤解をされることもままあるのですが……少なくとも、奏向さんに苦手意識を抱いていないことは確かですので、そこは安心してくださいね」

「ああ……はい」


 今のやりとりと広場で少し話を交わした限りでは、彼女から私に対する忌避感のようなものは感じられなかった。

 杏華さんの言うことは間違いないと思う。


 正直、好かれようが嫌われようがどちらでも構わないけど。

 杏華さんのお嬢様と言えど、同じ学校のクラスメートというわけでもない、これから交流を持つかどうかもわからない、今日会ったばかりの相手なのだから。


「それでは、私もお嬢様のお手伝いをいたしますので。夕食の準備が整いましたら、お呼びいたします。それまで、こちらの部屋でご自由にお寛ぎください」


 浅くお辞儀をして、杏華さんもこの場を去っていった。


 部屋の出入り口に突っ立っているわけにもいかないので、大人しく室内に戻る。

 本当なら今頃アルバイトで喫茶店にいたはずなのに、広場であの娘と出会って、高層マンションの一室で休憩することになるとは。

 ……落ち着かない。

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