第9話 贈り物(1)

 不意に意識が覚醒する。

 ぼんやりと霞んでいる思考を置き去りにして、自然と目蓋が開かれた。微かに視界に映ったのは見慣れない風景だった。


 ここは外、じゃない? 確か私は広場にいて、木から飛び降りた女の子を受け止められたところまでは良かったけど、その後の記憶がない。


 その後……しまった、午後からバイト……!

 寝ぼけていた意識が完全にはっきりした。弾かれたように上体を起こす。そこでようやくベッドに寝ていたのだと気付いた。

 しかし、そのベッドが異様にビッグサイズだった。


 明らかに自宅のベッドでないことはわかる。そもそもうちは敷布団だから。


 学校の保健室でも病院の個室でもない、超高層マンションの一室のような広大な空間に、ぽつんと置かれているクイーンサイズほどのベッド。

 ……に、寝ていた私。どういう状況? いや、そんなことよりも。


 時間を確認しようとして左手首に視線を向けるが、はめていたはずの腕時計がなくなっていた。


 まずい、今何時なのかがわからない。喫茶店のアルバイトは14時からだ。学校の遅刻が確定した時の比較にならないほど、非常に焦りを感じている。

 気が動転しながらも、ベッドから降りて辺りを見回してみた。


 隣り合う二面の壁が全て掃き出し窓になっており、外の景色が一望できる。

 普段は見上げるほどの建物群が、ここから見ると遥か下にあった。道路を走る車や道行く人の姿は、小さすぎてとても肉眼では視認できない。


 テレビの中でしか見たことがない圧巻の展望に感嘆するよりも、昼間に見た時とは違う空の色に目が釘付けになった。悪い意味で。


 空と地上の境で、オレンジ色に染まった夕陽が沈みかけていた。――夕方だ。

 遅刻確定。もはや遅刻どころでは済まされない。


「……最悪」


 私は頭を抱えた。アルバイトだけはどの職場も皆勤だったのに……! 店長に叱られるのはもちろん、遅刻した分給料が減る。


 とにかくバイト先に連絡をしなければ。

 しかし肝心の私物が見当たらず、携帯電話もないので連絡のとりようがない。


 万事休すかと思われたその時、部屋の扉が開かれる音がした。鼓動が急激に速まる。


 アルバイトに気を取られていたが、私が今いるのは全く知らない場所なのだ。誘拐されたという可能性も、なきにしもあらず。

 一体誰が私をこんな所に……。


「あら、お目覚めですか?」

「……杏華さん……!?」


 ドアから現れたのは、赤褐色のお団子ヘアに黒を基調としたメイド服を着た杏華さんだった。


 いつも見る姿と違うところがあるとすれば、白いエプロンを着用していることくらいだろうか。そして、手には私のリュックを持っている。


「どうして……?」

「驚かれるのも無理はありませんね。ここが、私のお仕えしているお嬢様のご自宅なんです」


 そういえば、杏華さんは財閥のご令嬢に仕えているんだっけ。

 このバカデカい部屋が、そのお嬢様とやらが住む家の一室というのなら、彼女の言うことも頷ける。

 でも問題はそこではなく、なぜ私がその家にいるのか。


「ところで、もう起き上がって大丈夫なのですか? 頭を強く打ったそうですが……」

「え……あ、大丈夫、です」


 当たり前のように部屋の中をふらふら歩いていたが、頭痛も目眩もなく至って健全。

 後頭部を触ってみるも、こぶらしきものはない。


 ……そうだ。女の子を受け止めた後、倒れて頭を打ったんだ。それで気絶して、目が覚めたらここに……ますますわからん。


「お医者様にも診ていただきましたが、どこにも異常はなかったそうですよ。稀に見る石頭だと、仰天しておりました」

「あはは……丈夫なだけが取り柄ですから」


 ……じゃなくて! 私の体調のことはどうだっていい。

 杏華さんがいるということは、彼女が私をここまで運んできたのか。どうやって? 私が見た限り広場にはいなかったのに? あと、一刻も早くバイト先に連絡を入れたい。


「大変失礼かとは思いましたが、奏向さんが眠っていらっしゃる間にスケジュールを確認させていただきました」


 杏華さんが申し訳なさそうに差し出してきたリュックを、私は訳もわからず受け取る。


 念のため中身を確認してみると、数冊の教科書と筆記用具、身に付けていたはずの腕時計や携帯電話も入っていた。無くなっている物はなさそうだ。

 それで、スケジュールを確認したということは手帳を見られた……?


「ご多忙な貴女のことですから、お仕事の予定があるのではと思ったんです。たとえ体に異常がなくとも安静にするようにとお医者様から言われましたので、お勤め先にご一報を入れさせていただきました」

「勤め先って……あの喫茶店に、ですか?」

「はい。差し出がましいことをしてしまい、申し訳ございません。店長からは、お店は大丈夫なのでお大事にと、言伝を預かっております」


 深々と頭を下げられるが、私が一番気にしていたことにまで気を配ってくれてむしろ感激している。


 私物に触れられたとしても、何もやましいことを隠していたわけではないし、何となく杏華さんなら信用できるかなと思った。


「謝らないでください。逆に感謝したいくらいですから。経緯はわからないですけど、いろいろありがとうございます」

「とんでもございません。元を辿れば、お嬢様が奔放な行動をとらなければこのような事態を招くこともありませんでしたから」

「いえいえ、彼女は悪くありません。私がちゃんと受け止めていれば…………ん?」


 あまりに自然だったのでそのまま流されそうになったけど、なぜここで"お嬢様"が出てくるのだろう。私も思わず"彼女"と口をついて出た。


 まさか、あの娘が杏華さんのお嬢様? そうだとすれば、杏華さんが目の前にいることも納得できる。そして、私が助けられてここに運ばれたことも。


「あの、確認なんですけど、私と一緒にいた女の子って……」

「はい。そのお方が私のお嬢様です」


 杏華さんはどこか嬉しそうな笑みで肯定した。そんな偶然ってあるんだ……。


「そうだったんですね……。その子に怪我はありませんでしたか?」

「奏向さんのおかげで、ピンピンしております。本当に、何とお礼を申し上げれば良いか……」

「そんな……大したことはしていないので。無事なら良かったです」


 受け止めると自信満々に豪語しておいて、自分も相手も怪我をしてしまっては格好がつかない。女の子が無傷なら助けた甲斐がある。


 それにしても、病院に運ばれなくて良かった。治療費を請求されていたかもしれないと思うと、重症を負っていたらと想像するよりもゾッとする。


「ふふ。あの子、とても不安げな声で電話をしてきて。普段感情が乱れることはほとんどないのですが、よほど切羽詰まっていたのでしょうね」


 その時の状況を思い出したように、口元に手を当ててクスクスと笑う。


 きっと女の子は本当に焦っていたのだろうけど、杏華さんは常に泰然としていそうで、両者の対照的な反応が容易に想像できた。

 私だって、目の前で人に倒れられたらさすがに狼狽する。女の子には恥ずかしい姿を見せてしまった。


「なんにせよ、お嬢様を助けてくださったお礼も兼ねて、一つご提案があるのですが」

「提案?」

「はい。もしよろしければ、こちらに一泊していきませんか? ちょうど、先日のお約束を果たすために奏向さんをお誘いしようと思っていたところでしたので」


 約束というのは、カフェで杏華さんが言っていた"贈り物をくれる"然々の話だろうか。


 自分の中で既に退学の意志を固めていたことと、あれから杏華さんとは一度も会っていなかったので、記憶が頭の片隅に追いやられていた。


 "約束"と言うほど固い契りを交わしたつもりはなかったけれど、また彼女から誘いを受けるのは嬉しい。

 幸か不幸か、私が気絶していたおかげ? で今日のアルバイトは休みになったし。


 ただ、お茶ではなくいきなり家に泊まるというのは、少々ハードルが高い気もするような。


 それに、ここは杏華さんではなくお嬢様の家なのだから、当然その娘もいるわけで。初めて会ったその日に泊まらせてもらうのは、やはり厚かましいのではないか。


「せっかくのお誘いでありがたいんですが、今回は遠慮しておきます。あの時は、杏華さんのお気持ちだけで充分救われましたから。私はもう大丈夫なので――それでは」

「あっ……」


 異常がないのであれば、いつまでもここに居座るわけにはいかない。


 いかにもお金持ちしか住めないような高級感漂う部屋で、落ち着かないというのもある。私のような貧乏人がいてはいけないような。それに、これ以上杏華さんに甘えたくなかった。


 ベッド横のハンガーラックに掛けられていたブレザーを素早く手に取り、引き留められる前に彼女の横を逃げるように通り過ぎる。

 部屋を出ようとドアを開けたところで、不覚にも体がピタリと止まった。

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