第8話 黒髪の少女
アルバイトが始まるまで、広場のベンチに腰掛け時間を潰していた。
こういう日に限って空が憎らしいほどの快晴で。
どうせなら日向ぼっこでもしてやろうと思い、昼間に日光浴をしているおじいちゃんおばあちゃんに混ざって私もここにいる。
やることといえば、ベンチにただ座って景色を眺めるだけ。
暇を持て余しているわけではなく、肌を撫でるそよ風の心地良さを味わっているところだ。
季節は春ということもあり、新生活の到来を感じさせる暖かな匂いがする。
平日の昼時ということもあり広場にはあまり人の往来はないけれど、むしろその閑散とした有り様がちょうどいい。
頭上に広がる青空と、眼前に映える緑の芝生という鮮やかな自然の風景を、独り占めしているような気分にさせてくれる。
もう少しすれば、桜が開花する頃だろう。
学院を抜け出したのはいいけど、この後バイトなんだよなぁ……。
アルバイトに関しては遅刻も早退もなく真面目にやっていたけど、今日ばかりは休んでしまいたい。
一度気が緩むと、その後のモチベーションにも支障をきたしてしまう。
広場でフリスビーをして遊んでいる親子を見ていると、微笑ましい気持ちになった。
なおさら腰が重くなる。
孫の可愛らしい運動姿を見守るおばあちゃんの心境って、こんな感じなのかね。
同時に、少し羨ましくもあった。私が小さい頃によく遊んでくれたのはお父さんだったから。
お父さんと最後に遊んだ日のことを思い出してしまい、無理やり回想を振り払う。忘れたいけど忘れてはならない記憶――。
でも今だけは、穏やかな気分に浸らせてほしい。
親子が仲睦まじく遊んでいる光景をしばらく眺めてからアルバイトに行こうと決めた直後。
その親子の父親が誤ってフリスビーを高く飛ばしてしまい、近くの木に引っ掛けてしまった。
男の子は頑張って追いかけるも、到底手の届かない高さにあるフリスビーを見上げることしかできないでいた。
父親の身長の倍近くはある高さに引っ掛かっており、とても自力では取れそうにない。
男の子が今にも泣きそうな顔で父親のズボンを握り締めている姿を見たら、私は無意識のうちに立ち上がっていた。
彼らのもとへ行こうとして、咄嗟に足が止まる。
私より先に、どこからか現れた黒髪の少女が親子に声を掛けていた。年は私と同じくらいだろうか。
男の子の目線と合わせるようにしゃがみ、彼の頭を撫でた後、フリスビーが引っ掛かっている木に足をかけ始めた。
「……え? いやいや……!」
父親が慌てた様子で少女を引き止めようとしている。
我慢できず、私もその場へ駆け出した。
フリスビーを取るため木によじ登ろうとしていること自体は特におかしな行為ではないのだけど、危ないというか……そう、いろんな意味で危ない状況だった。
「……ちょっと! いくらなんでもその格好で木に登るのは危なくない?」
少女が登っていってしまう前に、私は彼女の腕を掴んだ。
相手の立場からすれば、誰だコイツと思われても仕方がない。私に振り向いた少女は驚きの表情を浮かべていた。
「……危ない、というのは?」
その危険な状況を把握できていないのか、少女は私の顔をまじまじと見た後、冷静に問い返した。
「スカート、履いてるじゃん」
少女の顔から視線を落とす。
彼女はロング丈のフレアスカートを履いていた。裾が広がって邪魔になるだろうし、風でも吹いたら下から見えてはいけないものが見えてしまう。
男の子もいる前で、それは少し無防備ではないか……? 父親も共感してくれたのか、うんうんと頷いていた。
「あの、申し訳ないので無理に取っていただかなくても……」
「私が代わりに取りますよ。木登りは得意なので安心してください」
「あなたもスカートだけれど」
「下にスパッツ履いてるから大丈夫」
少女のスカートよりもだいぶ短いけど、その分動きやすさはこちらの方が勝る。
元々私も取ってあげようと思っていたし、この程度の高さなら登るのも降りるのも容易い。
「それを言うなら、私もスカートではなくパンツスカートだから平気よ」
なぜか張り合ってくる少女は、パンツスカートと主張するボトムスの裾を広げて、パンツである証拠を見せてきた。
……紛らわしいわ。確かにスカートではなかったけど、危ないことに変わりはない。
彼女がどれほど木登りができるのかもわからないし。
「本当に大丈夫……って、おい」
人の話を最後まで聞かずに、少女はするすると迷いなく登っていってしまった。
意外と無駄のない動きで、あっという間にフリスビーの位置まで到達する。クライマー並みの少女の身軽さを完全に侮っていた。
親子二人も唖然と少女の勇姿を見上げている。
「はい、どうぞ」
無事にフリスビーを取ることができた少女は、男の子に向かってそっと落とす。
男の子は両手を伸ばしてそれをキャッチすることに成功。嬉しそうに「ありがとう」と顔を綻ばせ、父親も感謝を述べながら何度も頭を下げた。
父親は律儀に私にもお辞儀をして、男の子と一緒に広場の中央へ戻っていった。男の子には怯えた目で見られたけれど。
今度は高く飛ばしすぎないように注意しないとね。親子の後ろ姿を見送り、少女に視線を移す。
「ごめん杞憂だった。じゃ、気を付けて降りなよ」
手をひらひらさせて、私もベンチへ戻ろうとしたが――
「待って」
少女に呼び止められた。反射的に立ち止まる。振り向いて見上げると、木の枝に座っている少女が微動だにせず、表情こそ平静を装っているものの、何かを訴えるような目でこちらを凝視していた。
……うん、なるほど。まさかとは思うけど、私の予想は絶対に当たっている気がする。
「……何?」
「あなたがいなくなったら、私はどうすればいいの?」
「……は?」
素直に助けを求めるかと思いきや、遠回しに困っていることを伝えられた。
抑揚のない口調とは反対に、焦りが滲む少女の瞳に面白半分で気付かない振りをしてみる。
「どうすればいいって、普通に降りればいいんじゃない?」
「…………」
しかし、返事がない彼女が不憫に思えて、早々に核心を突いた。
「もしかして、降りられない?」
「…………」
しばらくの沈黙の後、少女は顔を逸らして小さく頷いた。
自分のできることとできないことの分別がありそうな年齢の少女が後先考えず木に登って、実は降りられませんなんていう馬鹿げたことが本当にあるんだ……。
けれど、この娘一人だったらどうなっていたんだろうと良からぬ可能性も考えてしまった。
よっぽど男の子を助けたかったのかな。その気概だけは称賛できる。
……しょうがない。さすがに、自力で降りられない女の子をわざと放置するわけにはいかないし。
私は少女の真下辺りに移動し、両腕を広げて構えた。
「ほら」
「……?」
「飛び降りて。受け止めるから」
「この高さから……?」
「その高さまで自分から登っていったのはあんたでしょ。自力で木を伝って降りられないのに、飛び降りる以外に方法ある?」
見知らぬ女子高生にいきなり飛び降りろと言われても、そりゃあ信用できないか。
彼女も本当に飛び降りるべきか悩んでいるようで、不安そうに瞳が揺れている。
そもそも飛び降りてくる人間を女子に受け止められるのか、という心配もあるだろう。……そこはまぁ、保証はできないけど最善は尽くすつもりだ。
最悪、彼女に怪我がなければいいのだから。それに、私は人よりタフだから多少の衝撃には動じない、はず。
「大丈夫だから」
少女を安心させるように笑顔を向ける。
数秒の逡巡を挟み、意を決したように口を開いた。
「……絶対に、受け止めて」
自信を持って頷く。
それを確認した少女は、強く目を閉じながら座っていた木の枝から飛び降りた。彼女の体は綺麗にほぼ真下へ落ちていく。
そのまま、私の両腕にすとんと収まった。
意外と軽いなと思っていたら、落下の勢いを抑えきれず後方に重心が偏る。
「……やば」
足の踏ん張りが利かなくなり、未だに目を瞑っている少女を抱きかかえたまま後ろに倒れてしまった。その時、石のような硬い突起物に後頭部を激しく強打する。
一瞬の痛みを感じたのを最後に、私の意識は途切れた。
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