第7話 本当は

 頬を伝う液体が雫となってテーブルに落ちた時、自分が泣いていることにようやく気付いた。


 その一滴を皮切りに、抑えきれないほど大粒の涙が溢れてくる。

 目から流れる涙をただひたすら拭うけど、いくら拭っても止まってくれない。


「……すみません。…………あれ、何でこんなに……」

「大丈夫ですよ」


 いつの間にか杏華さんが隣に来て、私の背中をさすってくれた。

 まるで幼子をあやす母親のように。その温かさが余計涙腺を緩ませる。


 ……あー、もう。そんなに優しくされたら子どもみたいに号泣してしまう。

 ここ一応お店の中だけど、あまり人がいなくて良かった。家族以外の前で泣いたのは初めてかもしれない。


 私はずっと当たり前だと思っていた。貧乏で借金まみれの家庭は一生贅沢を味わえないことを。

 だから、欲しい物は我慢してきたし、風邪をひいても病院に行くことさえしなかった。


 小学生の頃、サンタさんからどんなプレゼントを貰ったか楽しげに話すみんなの輪の中に入れず、ただ一人聞き耳を立てていた。


 中学生の頃、せっかく話しかけてくれたクラスメートから遊びに誘われても断わることしかできず、徐々に交友関係が希薄になった。


 それは全部仕方のないことだと、割り切っていたはずなのに。

 他の子たちとは違う境遇に微かな不満を覚えたのはいつからだろう。


 貧乏だからどうしようもないのだと無理やり自我を抑える一方で、私は無意識のうちに、私とは違う世界で生きるみんなを羨望の眼差しで見つめていたのだ。


「……本当は、退学なんてしたくない……でもっ……」


 心の奥底にしまい込んでいた声が漏れる。


 許されるならこのまま通い続けたかった。

 学生らしく放課後に友達と遊んで、部活に勤しんだり、程良く真面目に授業を受けたりして。


 普通の高校生が送るような日常に私もいられたらと、叶えられない"当たり前"を願ってしまう。


 でも、できない。もう私一人の力だけではどう足掻いても、退学以外の選択肢を見出せない。

 未だに流れ続ける涙を振り払い、私は唇を噛んだ。


「……失礼しました。みっともない姿をお見せしてしまって……」


 顔を上げ、もう大丈夫だと杏華さんに伝えようとして言葉が遮られる。

 そっと、彼女の胸に抱き寄せられた。そのまま頭をぽんぽんされる。

 急な出来事だったので、私はされるがまま呆然としていた。


「大丈夫。貴女がそう望むのなら」


 何を根拠に……と言いかけたところで、耳元に口を近付けられる。


「またお茶をしに行きましょう。その時は、ささやかですが私から奏向さんに贈り物を差し上げます。きっと希望が持てるような――だからまだ、諦めないで」


 その声には、切実な思いが込められているようだった。


 どうして杏華さんは、私にここまで優しくしてくれるんだろう。

 知り合ってからまだ一年も経っていない、喫茶店で数分ほどしか言葉を交わさないような、言ってしまえば親密ではない表面的な関係でしかないのに。


 でも、私を慰めようとしてくれるその気持ちは充分すぎるほど伝わった。


「……はい」


 改めて退学の決意を固めよう。

 首肯とは裏腹に全てを諦める覚悟を心に誓って、杏華さんの抱擁に身を委ねた。


 私は彼女の言葉を信じていなかった。学費の問題は安易に他人が介入できるものではないから。

 だからそれは、私を元気付けようとして言ってくれた気休めなのだと思っていた。


 しかし、まさか本当に杏華さんからの贈り物が退学を免れる足掛かりになるとは、この時の私はまだ知る由もなかった。



   ◇



 高校一年の三学期。

 あと数日で春休みが始まることもあり、心が浮き立っている生徒が多いようだった。


 いくら名門の女子校だからといって全員がお上品に過ごしているわけではなく、長期休暇が近付けば誰だってワクワクするもので。

 春休みは何をしようか、どこへ行こうかなどの話題を耳にすることが増えた。


 言うまでもなく、私には無縁のイベントなのだけれど。


 二限目の授業が終わった直後の休み時間、私は帰り支度をしていた。

 今日のアルバイトは午後からだけど、無性にここから逃げ出したくなった。

 私には訪れない休暇のあれこれについて楽しそうに盛り上がる空気に居た堪れなくなったのだ。


 全く使用感のない教科書や筆記用具をリュックに放り込み、席を立つ。

 まだ午前中だというのに、帰ろうとする私を引き留める人は誰もいない。


 無断早退常習犯なので、日常茶飯事だと思われているのだろう。それか、厄介者には関わりたくないと敬遠しているか。

 どちらにしろ、空気のように扱ってくれてありがたいとすら思う。


 入学してから数ヶ月後、アルバイトのために早退をするようになった頃はよく奇異の目で見られていたし、中には不良だと思われてあからさまに避けるような態度を取られることもあった。

 その印象はあながち間違いではないのだけれど。


 教室を出て廊下を進む。車二台分が優にすれ違えるほどの幅がある無駄に広い通路のど真ん中を歩くと、誰も近寄らないので解放感に浸れる。


 ……みんなが勝手に避けてくれるだけで、断じて道を開けろと威嚇しているわけではないことは弁明させてほしい。


 学院の敷地は広大なので、教室から校門まででもそれなりに距離がある。

 廊下が広々しているのだから、校舎内でも自転車で移動できればいいのに。

 なんて呑気に考えていたら、今一番捕まりたくない人に声を掛けられてしまった。


「あっ、二色さん」

「………………うわ」

「聞こえてるからね、今の!」


 担任の咲間先生だ。栗毛の髪をふわふわ揺らしながら小走りに……いや、速歩きでこちらに向かってくる。

 廊下は走らないという初歩的なルールを一応守る気はある様子。


 完全に独り言で出た声が聞こえてしまうとは。もしかして感情が顔に出てた?


「なんでしょうか」

「なんでしょうか、じゃないです! まだ午前中だけど」


 帰宅しようとしているなんてどういうこと? と問いたいのだろう。


 咲間先生も懲りない人だと思う。

 頻繁に早退したり遅刻したりしているけど、その度に注意してくるのだから。……先生だから当たり前か。


 そうだとしても、とっくに見限ってもおかしくないほど、私の早退癖は矯正不可能の域に達してしまっている。

 なのでいい加減放っておいてほしい。


「そうですね、午前中だけど帰ります。お世話になりましたさようなら」

「ちょ、待って待って! なんでもうお別れみたいな挨拶するの?」


 踵を返してさっさと退散しようとする私のブレザーの裾を、咲間先生は慌ててガシッと掴んだ。


「なんでって、もう帰るので」

「そうじゃなくて。なんか……もう、会うのは今日が最後みたいな」

「あー……私の中では三学期は今日が最後なんで」

「勝手に終業日にしない!」


 呆れたように眉間にシワを寄せて、ぷんすかと頬を膨らませた。

 適当に早退の言い訳をしてお怒りを受ける――先生と私の日課のようなものだ。

 そんな少し変わった日常も、今日が最後になるかもしれない。


「最後にしようかなと。……学院に来るのも」

「え?」


 先ほどまでご立腹で眉尻が上がっていたのに、今度はしょんぼりしたように下がってしまった。情緒が忙しい人だな……。


 いろいろ気に掛けてくれた先生には申し訳ないけど、もう腹を括った。

 学費問題の解決は壊滅的なので、払えない以上学院に通うことはできない。


 保護者が退学を認めてくれなくても、学費未納の状態が続けば強制的に退学処分になるだろう。最悪、除籍処分か。この際どちらでもいい。

 できれば、正当なやり方で辞めたかったけれど。


 これ以上学院に通う理由がなくなったので、そうであれば早めにアルバイトに専念しようかという算段である。


「……退学のことは、考え直してくれた?」


 心配そうに顔を覗き込んでくる先生に、私は何もかも吹っ切れた気持ちで笑顔を振り撒いた。


「はい、改めて決心しました。――学院ここに来ることはもうないです」

「っ……二色さん……」

「本当に、今までお世話になりました」


 なお引き留めようとする咲間先生を今度こそ振り切って、足早にその場を後にする。

 先生が私を呼び止めることはなかった。


 ――これでいい。私が本来いるべき場所に戻るだけ。私は初めからこの学院に相応しい人間ではなかった。

 だから、この選択は間違っていないんだ。

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