第6話 母と私(2)

 学院に入学してから約二ヶ月後。

 いつも通りお母さんは夜の仕事で家を出ており、私はアルバイトから帰宅したばかりの時だった。


 唐突に玄関のチャイムが鳴った。

 うちはかなり古いアパートに住んでいるから、インターホンにモニターは付いていない。訪問者の顔を確認するには、ドアスコープを覗かなければならなかった。


 こんな時間に誰だろうと怪訝に思っていると、早く出ろと催促するように何度もチャイムが鳴らされる。


 恐る恐る玄関ドアの覗き穴に近付いてみると、見知らぬ中年の男が立っていた。

 四角い眼鏡をかけていて、小太りの体型にはち切れそうなスーツを着ている。

 いかにも怪しげな雰囲気が漂っていた。


 酔っ払いか何かだと思い無視しようとした矢先、今度はドアを激しく叩かれた。

 近所迷惑になるほどの騒音だったのと、一向に引き返す気配がなかったため、仕方なく対応することにした。


 ドアチェーンはかけたまま、警戒しながらゆっくりドアを開く。


 男の足元が見えてきた途端、隙間から男の手がするりと入り込み、ドアを思い切りこじ開けた。


 しかしドアチェーンがピンと張り、顔半分ほどしか開くことはできなかった。男がねっとりとした視線で私を睨め付ける。


 男はお母さんが働いているラウンジの常連客で、プライベートでもよく会う仲だと言う。


 ある日、お母さんからお金を貸してほしいと頼まれいくらか貸与したが、約束の期限を過ぎても一銭も返してもらえないので辛抱堪らず取り立てに来たらしい。


 お母さんはいないことを伝えると、また来ると言って男は帰っていった。


 私は男が訪ねてきたことをお母さんに話した。仕事の事情もあるだろうから、お母さんがどんな人と交流を持っていようがもはや気にしていない。


 だが、職場の客にまで借金するとはどういう了見か。お父さんの分を返済していくだけでも精一杯なのに、さらに借金を重ねるなんて。


 お母さんは顔面蒼白になり、弁解することもなくただ黙っていた。


 しかし、あれから数週間経っても男が姿を現すことはなかった。

 お母さんに聞いてみると、もう大丈夫だからの一点張りで、詳しいことは何も話してくれなかった。


 取り立てに来ないのなら解決したのだろうと思い、私もこれ以上問い質すことはしなかった。


 とある給料日、口座の残高を確認するため通帳を記帳しに銀行へ赴いた。


 通帳に記入された残高を見て、私は頭が真っ白になった。"0"になっていたのだ。

 今まで使わずに貯金していたお金も、休むことなく働いて稼いだ給与も全て、1円たりとも残されていなかった。


 よく見ると、今日の日付で一つ前の残高の全額が出金されている記録があった。それだけではなく、数週間前にもまとまったお金が引き出された記録もある。

 まさかと思った。口座の暗証番号を知っているのは私と、お母さんだけ。


 すぐにお母さんへ詰問した。疑いたくはなかった。

 親が娘の口座から勝手にお金を引き出したなんて。その使い道を聞くのも怖かった。


 でも、悪い予感は無情にも的中してしまった。お母さんは黙って私のお金で男への借金を返済し、あまつさえ自分の娯楽のために散財した。


 いよいよとち狂ったか。

 怒りを通り越して乾いた笑いが込み上げてきた。


 何のために今まで切り詰めた生活をしてきたのか。

 何のために部活も入らず、数少ない声をかけてくれたクラスメートの誘いも断って、勉学以外の時間をアルバイトに費やしてきたのか。


 今まで行ってきたこと全てが無に帰した瞬間だった。


 二の句が継げない私に向かってお母さんは軽く謝罪した後、お門違いな発言で戯けた。お金はまた稼げばいいじゃない、と。


 なぜそんなに軽々しく言えるのだろう。

 高校生の私が稼げる額なんて高が知れているのに、水商売をやっているお母さんは高給取りだから?

 そのくせ、借金の返済はなかなか進まず収入はお母さんの懐に消えていく。


 本当にバカバカしい。

 何もかも投げ出したくなった。


 どうしてお母さんはこれほどまでに変わってしまったのか。


 夜職を始めたりしなければ、お酒を飲むことも男の人と遊びに行くこともなく、お金の大切さを忘れることもなかったのだろうか。


 いや、そもそもお父さんが生きていれば、借金を抱えていたとしてもここまで窮屈な生活を強いられることはなかったかもしれない。


 私はどんなにお母さんの言動で激怒したとしても、お母さんを一方的に責めることはできなかった。


 お父さんが亡くなったあの日、誰よりも涙を流していたから。幼い私を育てようと必死に働いていた頃を知っているから。

 何より、お父さんを死なせてしまった原因は私にあるから。


 これは贖罪なのか。お母さんからお父さんを奪ってしまった私への。

 そう考えでもしないと、私は無責任なことを平気で口にするお母さんを許せなかった。


 それから私は、無心で働くようになった。シフトを以前の倍に増やし、掛け持ちするアルバイトの数も増やした。

 特待生で入学したことなどすっかり忘れて、アルバイトのために授業を欠席するようになった。


「……で、今に至るって感じです」


 長々と話してしまった。結局私が言いたいのは、とりあえず退学したいということ。

 この事態を招いてしまったことについては、全面的に私が悪いと思う。


 元を辿れば、先生やお母さんの意見に流されて聖煌の受験を決めたのは私だし、初めから公立や通信制に通っていれば退学もせずに済んだのだから。


「……ありがとうございます。打ち明けてくださって」


 私が話している間、一口もエスプレッソを飲まなかった杏華さんは、少しの間を置いて小さく微笑んだ。

 せっかくのエスプレッソがもったいないと思いつつ、私も人の事は言えない。


「いやー、杏華さんに話したら何だかスッキリしました。退学を認めてもらえるように、もう少し母を説得してみようと思います」


 わだかまりが少し解けたような感覚だった。誰にも言えずにいた過去の出来事や感情を表に出すだけでも、幾分か気持ちが楽になる。


 すっかり湯気の抜けたアールグレイを口に含むと、案の定ぬるくなっていた。


「すみません、全然面白みのない話でしたよね。今日のお礼も兼ねて、今度は私がご馳走させてください」


 紅茶を飲み干し、深く息を吐く。

 視線を落としたまま沈黙している杏華さんの様子を直視できず、私は腕時計を一瞥した。


 友達と雑談するような調子で話したつもりだったけど、なぜか重苦しくなっているこの空気に耐えられない……。


「時間も時間なので、そろそろ出ましょうか……」

「奏向さん」


 杏華さんに呼び止められ、カバンを取ろうとした手が止まる。


「貴女はやはり、とても優しい方ですね」

「……は……?」


 脈絡のない言葉に思考が停止する。

 ――優しい? 私が話した内容の中で、どの部分を切り取ったらそんな感想が出てくるのだろう。


 疑問しか浮かばない私に、杏華さんは一言一言噛み締めるように思いを伝える。


「奏向さんのこれまでの境遇を考えたら、自暴自棄になってしまうのは当然だと思います。それこそ、非行に走ってしまってもおかしくないほどに。……でも貴女は、どれほど辛い過去や経験を告白しても、一度もお母様を貶すようなことを口にはしませんでした」

「それは……別に、言わないだけで心の中では……」


 お母さんを疎ましく思っている。

 暇さえあればお酒ばかり飲んで外で遊んで、借金を抱えている自覚なんてまるでないような楽天家で。


 娘の財布を平気でくすねて、娘の稼ぎを当てにするような親の風上にも置けない体たらくに、私は心底嫌悪している。


 私が今までどんな気持ちで過ごしてきたのか、どんなに惨めな思いでお母さんの側にいたのか、これっぽっちもわかっていないのだから。


 学院を退学させないのも、どうせ一流企業に就職させて稼ぎ頭になってもらいたいからだ。私の本意を何一つ理解しようとしてくれない。

 だから私は、お母さんのことが――


「奏向さんはお母様のことを、大切に思われているのですね」


 ただ憎いという感情しかないのなら、ここまで思い悩むことはなかった。


 溜まりに溜まった鬱憤を晴らすためにお母さんに八つ当たりすれば良かったし、家出したりして、学校やアルバイトをサボって遊び呆けても良かった。


 だけどできなかった。


 そうだ。私はお母さんを確かに嫌っているけど、心のどこかでまだお母さんを助けたいと思っている。


 全てを投げ打って親子の縁さえ切りたいと願っても、お母さんを見捨てることができない自分が決してそれを許さない。


 どちらにも振り切れない中途半端な心情――だから苦しいんだ。


 自分でも気付かないうちに俯いていた私の頭に、誰かの手が優しく置かれる。


「今まで本当によく頑張りましたね。一つくらい、わがままを言っても良いんですよ」


 息が止まった。

 急激に目頭がツンと痛くなる。

 たった二言が、堅固に聳えていた心の壁をいとも容易く崩壊させた。

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