第4話 悩み事

 時間になったのでバックヤードに戻り着替える。


 学校から直行したため制服を着なければならないのだけど、ブラウスのボタンを最後までかけるのが面倒だった。ついでにネクタイを締めるのも。


 いつもよりだいぶ着崩すことになったけど、杏華さんを待たせるわけにはいかないので、店長に挨拶をしてそのまま店を出た。


「お待たせしました」


 喫茶店の入り口付近で姿勢良く佇んでいた杏華さんに声を掛ける。

 私に気付くと、微笑みながら控えめに手を振ってくれた。


 黒のロングワンピースにカーディガンを羽織った装いはシンプルながらも、スラっとした体の輪郭と彼女の風柄も相俟って、優美さの中にも大人な女性を感じさせる色っぽさがあった。


 初見の格好でもないのに、対面するシチュエーションが違うだけで随分印象が変わる。


 そんな杏華さんの姿を見たからなのか、心なしか心臓の鼓動が早くなっている気がしなくもない。……いや、走ってきたからだろう。うん、きっとそうだ。


 では行きましょう、と杏華さんに促され、私たちは喫茶店から徒歩数分の場所にあるカフェを目的地にして歩き出す。


「奏向さんの制服姿、初めて拝見しました。髪を下ろした姿も。なんだか新鮮ですね」

「ああ、確かに。いつもはエプロン姿しかお見せしてないですもんね」


 仕事中は髪を一つに結んでいるけど、普段は下ろしている。

 鎖骨にかかる程度の長さで、毛先にかけて軽く癖がついているので寝癖をごまかせる便利な髪質だ。


「杏華さんはお団子ヘアのイメージが強いですけど、他の髪型にしたりすることもあるんですか?」

「そうですね……お仕事中もそれ以外もこの髪型でいることがほとんどですが、入浴時や就寝時は髪を下ろしていますよ」

「ですよね」


 まさか一日中全く同じ髪型なんてことはあるまい。でも、杏華さんならどんなヘアスタイルでも似合うんだろうなと、ほんの少し想像を働かせてみる。

 が、想像が妄想に変わりそうだったのでここらでやめておこう。


 お店の外で待ち合わせからのカフェ、といういつもと違うシチュエーションに、出会ってまだ数回目くらいのぎこちなかった頃を思い出した。


 私と杏華さんの関係を簡単に言い表すなら、店員と客である。


 雑談感覚でお互いのプライベートをちらっと話すことはあっても、彼女が家での私や学校での私を実際に目にしたことは当然ない。

 私がメイドとしての杏華さんの顔を知らないのと同様に。


 バイトが終わった今、私は喫茶店の店員ではなくただの女子高生。

 だからといって杏華さんへの対応が変わるわけでもないけど、なんだか少し気恥ずかしい。これから接するのは、女子高生としての私だから。


「それにしても、聖煌学院に通われていると伺いましたが……。私の想像していた体裁と少々違ったようです」

「体裁?」

「あの学院はお嬢様校なので身だしなみには厳しいのではと思ったのですが、そうでもないのかなと」


 改めて自分の制服姿を確認してみる。

 第二ボタンまで開いたブラウスに全開のブレザー、夏以外は極力着用のネクタイを当たり前のように外しており、スカートもこれまた短い。

 ……うん、決して身なりが宜しくないことは自分でもわかる。


「あはは……。たまに注意されることもありますけど……私の場合、服装の乱れよりも深刻な問題がありますから」


 実を言うと、聖煌学院の校則はそこまで厳しくはない。

 校則で縛らなくても、自分たちにとって何が善悪なのかを判断し自制できる"頭の良い"優秀な生徒が集まっているからだ。


 また、学問だけでなくスポーツや芸能などを領分とする個性的な生徒も多くいるため、皆がこうであってほしいという規範の型に囚われることはない。


 基本的には自由だけど、やることはやれよという無言の圧力でもある。


 お嬢様校と呼ばれる所以ゆえんは、学院が行儀や礼法を心得た箱入り娘の学舎だからではなく、金銭感覚が常人離れした金持ちばかりが通っているから。

 家の財力と個人の品位は必ずしも比例しない。


 きちっと制服を着用している真面目な人もいれば、自分なりの好みを取り入れた改造を施している人もいる。

 うちの学校は極論、校章を付けていればどんな着方をしてもいいらしい。


 とはいえ、余程露出度の高い着崩しはもちろんNGだ。まぁ、実際に目を見張るほど奇抜な格好をした生徒は見たことがないけれど。


「深刻な問題、ですか」


 独り言としてそれとなく呟いた最後の言葉が、杏華さんには聞こえていたようだ。

 暗い空気にはしたくないので、すぐさま話題を軌道修正する。


「やっぱり、ちゃんと着こなした方がいいですかね」

「いいえ、無理して取り繕う必要はないと思います。奏向さんは、今のままで充分魅力的ですよ」

「またまた……。普通だったら怒られるもんですけどね。聖煌のいいところは、ある意味自由ってとこだけです」


 学院を軽視したような物言いに、杏華さんは苦笑した。


 不満とまでいかないけど、あくまで私の抱く印象だ。私が聖煌を選んだそもそもの経緯は、お母さんや中学の担任にぜひ受けた方がいいとゴリ押しされたから。


 トップレベルの教育を受けられるとか、名門のブランドを背負いたいとか、高尚な志望理由は一切なかった。


 だから、聖煌のいいところは? と聞かれたとしても、校則が緩いことと校舎がこの上なくきれいなことくらいしか答えられない。


 アルバイトで授業以外に学校行事等もことごとく欠席していたから、特段思い入れもないし。


 むしろ退学すら考えているから、近いうちに学院からおさらばする可能性もある。

 聖煌学院生である自分が誇らしいなんて、今まで一度も思ったことはなかった。実感させる暇すらなかった、と言った方が適切か。


「……みんなと同じように通うことができていたら、まともな印象を持てたんでしょうけど」


 ダメだ。どうしても今日は意味深な話で遠回しに気を引こうとするイタイ女みたいになってしまう。

 同情を誘いたいわけではないのに。


「……なんだか、今日の奏向さんは含みのある言い方をされますね」


 やっぱり、杏華さんも気付いていた。微笑を向けてはくれるけど、その瞳の奥は物憂げに私を見据えている。

 せっかく誘ってくれたのに、お互い気まずい思いでいるのは嫌だ。


「すみません、深い意味はないんです。忘れてください」

「……そうですか」


 杏華さんは詮索することなく、ゆっくりと頷いた。

 明らかに納得していないような表情だったけど、心の内へ土足で踏み込もうとしないその潔さはとてもありがたかった。

 私を見つめていた彼女の視線が外れる。


「きっとまだ、貴女と私は辛いことや苦しいことを遠慮なく吐き出し合う間柄ではないのでしょうね。話したくないことを無理に話す必要はありませんし、私も無理に聞くことはしません。ただ……」


 隣で歩いていた杏華さんの足が止まる。

 つられて止まった私の方を直視しながら、今まで見たことがないような真剣な面持ちで、言葉の先を繋げた。


「私は、奏向さんには元気でいてほしいのです。そう願うほどには貴女に情が移ってしまっているということを、頭の片隅にでも入れておいていただければ……と、思います」

「…………」


 何をしているんだろう、私は。

 勝手に悩んで落ち込んで、勝手に私情を持ち出して。


 自分だけの問題なのだからと頑なに苦悩を吐露することはしないくせに。

 訳ありげな空気を節々に醸しているその矛盾と、たかがこんな私の悩み事を誰かに話す価値なんてないと決め付けるくだらないプライドのせいで、杏華さんを困らせている。


 本当は誰でもいいから打ち明けたかった。

 親にも先生にも友達にも明かせない胸の内を、曝け出せる場所が欲しかった。


「……杏華さん」


 そして嬉しかった。

 思わぬ形だったけど、杏華さんの私に対する気持ちを知ることができて。

 話していいんだと思わせてくれて。


 彼女が見せてくれた思い遣りに応えることが、今の私にできるせめてもの報いなんだと思う。


 何かが吹っ切れたような感覚が過ぎる。

 達観したような心情で苦笑を漏らしながら、私は彼女に問いかけた。


「私の話に付き合わせてしまってもいいですか?」

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