第3話 喫茶店にて
洗浄された食器を拭きながら数時間前の出来事を思い出し、仕事中であるにもかかわらず大きなため息を吐いた。
「どうかされましたか?」
よほどネガティブなオーラを纏っていたのだろう。目の前のカウンター席に座る女性から、心配そうに声を掛けられた。
「あ、いえ……なんでも」
慌てて否定する声すら覇気がないと自分でも感じる。
あの後、地獄のような三者面談を強引に終わらせ、いかれ狂ったお母さんを引きずりながら校舎を出た。
夕刻ということもあり、学院内には部活以外で残っている生徒はほとんどいなかったため、醜態を晒すことはなんとか免れた。
どうやって学院まで来たのかと思うほど酔いが抜けていなかったお母さんをタクシーに乗せて帰らせた後、バイト先であるこの喫茶店に着いたはいいものの、未だ鬱屈とした気分に駆られている。
原因は言わずもがな、退学について。
結論がうやむやなまま切り上げてしまったので、来年度の指針が決まっていない。
私は退学したいという意志を表明したけど、先生とお母さんは学院に通い続けてほしいと願っている。
はっきり言って余計なお世話だ。
そこまで辞めさせたくないのなら、あんたたちがどうにかしてよと思う。どうせ何もできないのだから、私の決断を素直に尊重してほしい。
ついでに、致し方ないとしてもバスより料金の高いタクシーにお母さんを乗せてしまったことが悔やまれる。
一応なけなしのお金は渡したけど、ぼったくりの運転手だったら為す術がない。
「そうですか。何もないような雰囲気には見えませんけれど……。私でよろしければ、お話伺いますよ」
コーヒーを一口含み、女性は柔らかく微笑んだ。
「……ありがとうございます。
彼女の厚意に、私は無理やり作った笑顔で返した。
朗らかな空気が漂うこの若いお姉さんは、喫茶店の常連客である杏華さん。
赤褐色の髪をお団子にしてまとめ、黒を基調としたメイド服を着こなす姿は、どこか日常離れした様相を感じさせる。
いつもニコニコしていて物腰も柔らかで、ただコーヒーを飲むだけの仕草があまりにも上品だったので、初めて杏華さんを見た時は無意識に視線が釘付けになってしまったのを覚えている。
家でも学校でも気が休まらない中、彼女がお店に来てくれるこの時間だけが唯一のオアシスだった。
非の打ち所がなさそうな杏華さんに気になるところがあるとすれば、常にエプロンを外したメイド服姿で来店すること。それ以外の服装を見たことがない。
なんでも、超有名財閥のお嬢様に仕えているのだとか。コスプレをしているわけではなく、彼女は本当にメイドさんだった。
仕事の合間を縫って、わざわざ喫茶店のコーヒーを飲みに来てくれるのだ。
私は他にもバイトを掛け持ちしているから、このお店のシフトはあまり入っていない。
けれど、偶然にも杏華さんがお店にやって来る時間と被る機会が多く、他愛もない雑談を交わすうちに知り合い程度の仲になった。
杏華さんは私が聖煌学院に通っていることを知っている。特待生で入学したことまでは知らないけど……。
私が今抱えている悩みを打ち明けてしまおうか悩んでいるうちに、学院での些細な出来事とか、幼少期のくだらない思い出話とか、いろんな話をしたなと、自分でも驚くほど彼女に対して心を開いていることに改めて気付いた。
でも、ただのバイト先の常連さんに、学費が払えなくて退学を考えているなんて重い話をするのはさすがに気が引ける。
「本当になんでもないですよ。ちょっと疲れが溜まっているだけですから」
軽く会釈し、拭き終わった食器を片付けに行く。
「奏向さん」
ちょうど踵を返したところで、杏華さんに呼び止められた。
「……? はい」
「この後、お時間ありますか?」
「えっと……21時までシフト入ってますけど、その後ってことですか?」
「はい。もしよろしければ、別のカフェでお茶でもいかがでしょうか。今日はもう少し奏向さんとお話したい気分で……。もちろん、都合が悪いのであれば断っていただいて構いません」
杏華さんから初めてお誘いをいただいた。正直めちゃくちゃ嬉しい。
バイトが終わっても、そのまま家に帰る気にはなれなかったから。
「でも、杏華さんのお仕事の方は……」
「私は大丈夫です。今夜は珍しくお嬢様が一人にしてほしいと仰ったので、自由な時間ができました。……あ、夜遅くにお誘いするのはご迷惑でしたでしょうか」
「いえいえ! そんなことないです。私も特に用事はないので……。では、お言葉に甘えて」
もしかしたら、本音を隠していると察して気を遣ってくれたのかもしれないけど、本当にただお茶するだけだとしても充分気晴らしになる。
彼女からのお誘いをありがたく承諾することにした。
「あと30分くらいありますけど、どうします? お待たせしてしまって申し訳ないんですが……」
「奏向さんが業務を終えるまで、こちらでコーヒーをいただきながらお待ちしています。居心地が良いので、時間が過ぎるのはあっという間ですから。私のことはどうぞお構いなく」
待つと言ってくれた杏華さんに感謝の意味を込めて再び笑顔を向け、仕事場に戻った。
不思議なことに、彼女と話をしていると疲れが吹き飛ぶ。包容力があるというか、慈愛に溢れているというか。
気軽にお喋りする仲でもある程度一線は引いているので、付かず離れずの距離感が気楽に感じるのかも。
気心の知れた相手よりも、あまり私のことを知らない他人の方が話しやすいというあの現象に似ている。
今までこの喫茶店以外で絡んだことがなく、改めて別の場所で会うなんてことは初めてだから少し緊張するが、そんな気持ちと同じくらい楽しみでもある。
早く30分経たないかなと考えていたら、何やら視線を感じた。
「……なにか?」
振り向くと、杏華さんがじっと私を見ていた。もしかして顔にゴミでも付いてる?
確認しようとする前に、杏華さんがクスッと笑った。
「暇つぶしです」
「なんですかそれ」
意味がわからなかった。
特に何かをしている素振りもなく、ただ私をガン見してくるだけの行為のどこが暇つぶしなんだろう。というか、誰かに見られながらだとやりづらい。
普段ならコーヒーを飲み終わるとすぐに帰るのだけど、長居することは滅多にないから手持ち無沙汰なのだろうか。
「奏向さんは、お顔が凛々しいですよね」
「……正直に怖いと言っていただいて大丈夫です」
いきなり何を言い出すかと思えば……。
私がいる時はカウンター席に誰も座ろうとしないので、周りからはよほど怖がられているんだろうなとは思うけど。
こんな言い回しをされるのは初めてだ。
「まさか。私は本当のことしか言いませんよ」
「だとしたら、杏華さんは物好きだと思います」
元々杏華さんと話すようになったきっかけは、お客さんが寄り付かないカウンター席に彼女が座ってきたのが始まりだ。
店長からもヤンキーだと勘違いされたほど外見だけで悪い印象を抱かれやすいのに、あの時は近付いてくれただけでもちょっと嬉しかった。
「そうでしょうか」
「はい。この面のせいだと思いますが私、学校でも話しかけられることほとんどありませんから」
「声を掛けるのが躊躇われるほど美しいからでは?」
淀みもなく息をするように発した賛辞に、思わず恥ずかしさよりも笑みがこぼれてしまった。
お淑やかな杏華さんが、口説き文句のようなセリフを言うことが信じられなくて。
「お世辞が上手ですね。言い慣れてるみたいです」
「それほど軽い女に見えますか?」
「さあ、どうでしょう」
不満気に小さく頬を膨らませる姿に癒されて、からかって良かったと思ったことは秘密にしておこう。
雑談もそこそこに、残りの時間は仕事に集中する。
ついさっきまで憂鬱な気分だったのに、ほんの少しだけ肩の荷が下りたような、気持ちが軽くなる感じがした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます