第173話:さやかさんの企みとは

 福岡のホテルで長谷川氏を取り押さえた。「森羅」での横領の証拠は既に揃えていたし、警察にも協力してもらっていて合図と共に乗り込んでくる手はずになっていた。


 しかし、長谷川氏は逮捕されても起訴されないだろうと言ってきた。


 つまり、証拠が足りない、と。


 いや、足りない様に政治家、弁護士、反社を使って事実を捻じ曲げる、と宣言した。


 これは試合の途中でルールが書き換えられたようなもの。ボクシングをしている最中に相手が急に裏拳や回し蹴りをして来たらボクサーは対応できない。


 その様なことを想定していないからだ。




「警察の逮捕が起訴のためじゃないとしたら?」



 さやかさんがぽつりと言った。



「なんだと?」


「確かに、マルチには政治家や弁護士、そしてもしかしたら反社も協力しているかもしれません。でも、それはHNL(ハッピーネクストライフ)という会社に対してでは? 代理店と販売会社は別ですよね?」


「……」



 少しだけ長谷川氏が面白くない顔をした。



「それでも、ヤツらは収入源の確保のために動いてくれる」


「そうでしょうね。収入源がなくなるのは困るでしょうからね」



 長谷川氏は反論に対して、肯定され少し変な顔をした。さやかさんは続けた。



「一瞬でも逮捕されたら、絶対に確定されることがあります。それは何だと思いますか?」


「? ……なんだそれは」



 さやかさんがあの意地悪な笑いで十分 間をためてから答えた。



「それは『居場所』です。『現在位置』と言ってもいいでしょう」


「現在位置だと!? だから、それがなんだ!」



 訳が分からず、長谷川氏が少しいらだっているようだ。



「『ネットチーム』と『学生会』には、長谷川さんがそれぞれのチームのリストを盗んで逃げると情報をリークしておきました。HNLは終了して、次のマルチにシフトするってね」


「なっ! バカな! HNLはまだまだいける! これから収益があがるところなのに!」



 ここで俺は理解した。


 俺は「森羅」において根も葉もない噂で会社をクビになった。さやかさんは、ここでネットチームと学生会に噂を流したのだ。ワカメちゃんを使って。


「目には目を歯には歯を」はハンムラビ法典だったか。この場合は「噂には噂を」と言ったところか。



 元々、別のマルチから組織ごと移動してきた長谷川氏。その事情を知っている側近は何も疑わないだろう。


 側近は知っている。マルチで稼ぐにはちまちま一人一人勧誘していたのでは儲かる訳がない。既にある組織を次のマルチに連れて行く。ワカメちゃんも言っていた事だ。


 ただ、急な話なので間違いなく組織は混乱する。


 そして、予定外に収入源を壊した長谷川氏に対して、さっき武器の様に言っていた、政治家、弁護士、反社が一斉に牙をむく。



「お得意の逃走ですよね?」


「くっ」



 さやかさんがいくつか会話を飛ばして、長谷川氏の思考を先回りしていった。



「その時、一番知られたくないのって『現在位置』じゃないですか? 逮捕されている間にこの噂が一斉に広まって組織が崩壊したら、長谷川さんでもタダじゃすまないですよね? どこにいるか当然探されます。その時にどこにいるか明確だったら……例えば、警察署」


「ちょ、ちょっと待て! そんなことになったら俺は! 最悪、消されるぞ! こら!」



 口調に余裕がなくなったところを見ると、よほど弁慶の泣き所みたいだ。


 横領と言えば、金を盗むこと。会社にとってお金は生命線。さやかさんは、今回長谷川氏からリストを盗んだ。これはマルチの生命線。


 まさに「目には目を歯には歯を」。



 長谷川氏がどうなるのかは、因果応報。彼がどこまで何をやっていたのかは、俺達でも全てを知るのは難しい。


 ただ、お金だけ出して稼げなかった人の怒りや、大きな収入を見込んでいた政治家や弁護士、反社の怒りもかうだろう。


 悪い事は突然起きる「塞翁が馬」ではなかった。悪い事をするから悪いことが返ってくる「因果応報」。


 松田さんに協力してもらって呼び出した「嘘」を入れてもいい。


 嘘には嘘を、噂には噂を、盗みには盗みを。


 これを目の前で見て、理解した時 心のどこかでおとなしくしていた過去のもやもやが晴れた気がした。



「ぐっ、離せっ!」



 長谷川氏は現状を把握したのか、この場から逃げようとしている。それを許す東ヶ崎さんではない。


 そして、柱の陰から二人の私服の男が近づいて来て、その一人が手帳を見せながら言った。



「長谷川 健さんですよね? 私、福岡県警の刑事課の第二課の田中と言います。これ裁判所からの令状です、確認してください。身柄確保させてもらいますね」



 その男は丁寧に名乗り、慣れた手つきで書類などを見せていく。所定の動作なのだろう。



「ちょ! 待て! 待って! 今逮捕されるのはまずい! 命に係わる!」



 慌てて取り乱す長谷川氏。それでも、一切立ち上がれないから東ヶ崎さんの能力凄すぎる。



「今から警察署に行くので、ゆっくりお話し聞きますよ」



 テレビドラマで見る警察手帳は実際の物とはちょっと違うという。比べる訳ではないので、それだけ見たら本物か偽物かは分からない。


 ただ、目の前で長谷川氏は腕に手錠をかけられて二人の男に連れて行かれた。刑事ドラマの様に腕に手錠を当てたりはしなかった。静かに手でジャリジャリジャリという感じで手錠をかけた。


 この警察も偽物だったら……なんて有り得ないことまで考えたが、長谷川氏のあの肩の落とし具合。絶望の表情。ただ事じゃないのは容易に理解できた。


 長谷川氏は、手錠をかけられた時に暴れたりしなかった。肩を落として連れて行かれた。


 彼はきっと何とか逃げ出すだろう。それでも、表の道には進めない。高鳥グルーブが目を光らせている。


 裏の道も政治家、弁護士、反射が監視し続けるだろう。これからは、終わらない逃亡生活が始まるのだ。


 命を賭けた鬼ごっこ。


 警察に捕まって刑務所に入りたいだろう。でも、詐欺は罪が軽い。すぐに出てきてしまう。刑務所の出口では、獲物を狙う野獣の様なヤツらが待ってる訳だ。


 刑務所の中でも心が休まる時なんかないのだ。


 警察官の一人が去り際に俺たちの方を見て「ご協力感謝します」と言って小さく敬礼して行った。協力してもらうために、何度 警察署に行って証拠を見せて、どれだけ交渉して来たか……


 それはあまりにも地道でめんどくさい事だったので、もう思い出したくもない。



 さやかさんと東ヶ崎さん、そして俺は互いに顔を見合わせた。


「ぷっ」と さやかさんが噴き出した。人の顔を見て笑うなんて酷い。



「終わりましたね」


「終わりましたね」



 俺達の表情は自然と明るくなっていた。東ヶ崎さんは無言で手をわきわきさせている。



「東ヶ崎さんもお疲れ様でした」


「いいえ、お力になれたのなら幸いです」



 いや、彼女の保定力は相当なもんだよ。俺も東ヶ崎さんには逆らわない様にしよう。



 帰りの車ではみんな鼻歌でも歌いそうな浮かれ気分で、口には笑みも浮かんでいるほどの勝利だった。


だけど、その後 長谷川氏がどうなるのかを考えると大はしゃぎするまではなかった。


 ハンムラビ法典の「目には目を歯には歯を」というのは、目をやられたら目にやり返す、歯を折られたら歯を折り返すと、やられたらやり返すという意味の法律だったらしい。


 最近の解釈では「過剰にやり返さない」という意味合いもあったのではないかという説がある。目をやられたらやり返すのは目だけ、歯までやったら過剰ということ。


 今回、長谷川氏に借りは全て返した。いや、また さやかさんに返してもらった。過不足はない。どうなるのかの結果は、長谷川氏がこれまでに何をしてきたかの「因果応報」。


 それにしても、さやかさんは最高の彼女と言うべきか。それ以上と言うべきか。


 ずっと忘れていた忘れ物が帰って来たみたいな、のどに刺さっていた魚の骨が取れたことに気付いたみたいな、静かな爽快感と共に俺は窓の外を流れる景色を眺めていた。


 後日、マルチレベルマーケティングのHNLこと、株式会社ハッピーネクストライフは、いくつかの強引な勧誘が明るみになって行政指導が入り業務停止になったことと代理店のトラブルで勢いが急激に減速したことをニュースを通じて知ることになった。



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