雪乃さんとサンダーと、僕と

石花うめ

雪乃さんとサンダーと、僕と

 僕は、2年C組の長岡雪乃ながおかゆきのさんが大好きだ。

 雪乃さんは話すのがあまり得意じゃなくて友達が少ないけど、思いやりがあって、実は笑顔が可愛い。


 僕は彼女をいつも追いかけている。移動教室のときは隣を歩くし、給食を食べるときも隣にいて、美味しそうに食べる様子を見ている。下校途中に野良猫のらねこのサンダーを可愛がるときも、もちろん一緒にいる。


 今日も雪乃さんは、通学路の途中の高台にある魚頭神社うおがしらじんじゃに来た。給食で出た牛乳を通学カバンから取り出し、神社の縁の下をのぞき込むと「サンダー」と呼びかける。中からサンダーが出てきた。雪乃さんは座り込み、サンダーをでながら牛乳を飲ませる。

 そんな雪乃さんを見ながら、僕は初めて話した時のことを思い出す。


 ————


 あれは、中学二年生が始まって少し経った頃。ある雨の日のことだった。

 僕は毎日自転車で登校していたけど、その日は朝から雨だったので、歩いて登下校することになった。


 傘をさして下校していると、電柱の手前に小さな段ボール箱が置かれていた。

「なんだろう」

 その段ボールに近付こうとすると、僕の前を一人で歩いていた長身の女子が、先に段ボールの前で立ち止まり、しゃがみこんだ。


 全校生徒の中でも目立つくらい背の高い女子。顔を見なくても、同じクラスの長岡雪乃さんだと分かった。長岡さんは、僕より頭一つ分くらい背が高い。他の女子から少し避けられているみたいで、教室ではいつも一人でいた。


 僕は長岡さんと話したことがなかったので、段ボールの中が気になったけど遠慮えんりょして通り過ぎようとした。

 その時、「あー、猫ちゃぁん、可愛い子だねぇ」と、高くて聞き覚えのない声が長岡さんから聞こえた。まさに猫を撫でるような声だった。


 長岡さんの特徴とくちょうといえば、声が低いことだ。背が高いこともあってか、男子と女子の中間みたいな声で授業中に発言していた。

 だから、そんな可愛い声は全くの予想外で、思わず彼女の真横で立ち止まってしまった。


 僕の気配に気づいたのか、長岡さんは傘をかたむけて顔を上げた。

「あ、あの……」

 少し困った様子で、言葉を絞り出そうとする長岡さん。少し長い前髪の奥にあるひとみは、僕と段ボールとを行ったり来たりする。


 僕も初めて話すので緊張して、

「長岡さん、って、そんな声出すんだね」

 と、この状況に一番不要で、一番言ってはいけなさそうな言葉を口走ってしまった。

 長岡さんは僕の手を引っ張ってしゃがみ込ませた。その腕力に、僕は全く抵抗できなかった。

「い、今のことは絶対、誰にも言わないで」

 さっきの猫なで声とは違う、いつもの低い声だ。

「大丈夫。ちょっとびっくりしたけど、誰にも言わないから」

 長岡さんはホッとした顔で段ボールの中に視線を落とした。


 その視線の先には、やせ細った小猫が大人しく座っている。黒の中に茶色と白が混ざった毛並みをしている、三毛猫みけねこというやつだ。雨に濡れた毛並みが溶けるように体に張り付き、胴体や脚の細さを強調している。


「どうしよう、猫ちゃん」雨音に負けそうな小さな声で、長岡さんは言った。

「私の家、飼えない」

「そうなんだ。僕んちも、多分無理」

「……うん」

 長岡さんは、困った様子でうつむいた。

「……」

 何かしゃべらなきゃと思うほど、何も浮かばなくなる。

 僕たちの沈黙ちんもくをあざ笑うみたいに、雨脚あまあしが強くなる。

「猫ちゃんがれちゃう。避難ひなんさせないと」

 長岡さんは猫を片手で抱え上げた。

「それなら僕、濡れない場所知ってる。通学路の途中にある神社!」

「ああ、あそこ。とりあえず行こう」

 長岡さんは傘を差したまま走り出した。僕も後を追いかける。


 僕たちが向かったのは、高台にある魚頭神社だ。この神社には初詣はつもうでで行ったことがあって、屋根が広かったのを覚えていた。その軒下のきしたなら雨宿りができて、猫も濡れさせずに済むと考えたのだ。


 階段を何十段も登って鳥居をくぐり、ようやく境内に着いた。

 特に運動をしない僕と違って、長岡さんはとても体力があった。僕より先に階段を上り終えると、僕が鳥居をくぐる頃には傘を畳んで軒下にいた。

 猫は長岡さんの足元にいた。


 僕が息を切らしながら軒下に入ると、長岡さんが「大丈夫?」と言った。

「大丈夫」

 あまり心配をかけたくなくて、傘を畳みながらそれだけ答えた。

 長岡さんは俯いて、猫を見た。

「猫ちゃん、可愛いね」

「うん」

「……可愛いよね。私みたいなデカ女には、似合わないけど」

 暗めの声でポツリとつぶやく。

「ううん。いいと思う。僕も、可愛いもの好きだよ。男子だけど」

「ほんと? 同じだ」

 長岡さんは僕を見た。目尻にしわを寄せた嬉しそうな表情で、心なしか頬が紅くなっているようにも見える。

 ——長岡さんって大人しいイメージだけど、笑うと可愛いんだな。

 僕は胸がドキドキするのを感じた。恥ずかしくなって目線を落とすと、さっきまで猫を抱いていた胸が濡れているのに気付いた。白いシャツが大きな胸に張り付いて、水色のブラジャーが透けている。それを見て余計にドキドキした。


「ここで、二人で飼おう。猫ちゃん」

「え?」

 ぼーっとしていた僕は、長岡さんの言葉の意味が一瞬分からなかった。

「ダメ? ほら、サンダーも飼ってほしいって言ってる」

 僕の足元では、猫がスリスリと体を寄せている。

「ダメじゃないよ。でも、サンダーって何?」

「猫ちゃんの名前」長岡さんはかがみこんで、猫を指さす。

「ほぼ体が真っ黒だけど、茶色も白もあるから、ブラックサンダーみたい。お菓子の。知らない?」

「知ってる。チョコクッキーだよね。あれは美味しい」

「よかったね、サンダー。名前が決まったよ」長岡さんは猫の頭を撫でた。

「これからは、給食の牛乳をサンダーにあげよう。そうすればサンダーは生きられる。それに、私は牛乳飲みたくない」

 長岡さんは言った。

 背が高いことを気にしているみたいだ。

「あの、長岡さん、さっきは声のこととか、言ってごめんね」

 僕は謝らずにはいられなかった。

「優しいんだね、山田くんは」

「僕も、背低いこととか、声変わりしないのを気にしてて、いつも他の男子にいじられるから、一緒なのかなって」

「そっか」

 長岡さんは「それなら」と言ってしゃがみこむと、僕の手を引っ張った。またしても抵抗できずに、一緒にしゃがみこんだ。

「こうすれば、同じ目線。私とサンダーと山田くんと」

 気付けば、長岡さんの笑顔がすぐ横にあった。

 サンダーが嬉しそうに「みゃあ」と鳴く。

 僕も思わず笑顔になった。

「——僕も、毎日牛乳あげに来るよ」

 目の前にいるサンダーの頭を撫でると、気持ちよさそうにゴロゴロとのどを鳴らした。

「いいの? 背、伸びなくなるかも」

「サンダーの方が大事だから」

「ありがと」


 次の日から、僕は自転車通学をやめた。

 そして下校中は、長岡さんと一緒に魚頭神社に行き、神社の縁の下に住むようになったサンダーに給食の牛乳をあげるのが日課になった。

 お互いの家から毛布を持って来てサンダーの布団を作り、お小遣いで買ったキャットフードもあげるようにしたら、サンダーの肉付きは良くなっていった。

 僕と長岡さんは、学校ではあまり話せないものの、神社ではいろいろな話をして、次第に打ち解けていった。


 ————


 サンダーに牛乳をあげた雪乃さんは、立ち上がると神社にお参りをした。

 僕もその横で手を合わせる。

 雪乃さんが帰ろうとして振り返ると、同じクラスの本多大和ほんだやまとが立っていた。本多は体が大きなお山の大将で、僕をバカにしていた張本人ちょうほんにんだ。

「本多、何か用? どいて」

 雪乃さんは本多の横を歩き抜けようとする。

 すると本多は、雪乃さんの手首をつかんだ。

「待て、話がある」

 本多は息を吸い込み、そして、

「俺と付き合ってくれ」

 と言った。


 ————


 僕が最後に本多にからまれたのは、二人でサンダーを飼い始めて一ヶ月くらい経った頃。霧雨きりさめが舞っている日だった。


 その日も僕と長岡さんは魚頭神社に来て、軒下でサンダーの世話をしていた。

「週末、空手の大会の決勝戦があるんだ」

 長岡さんは、サンダーを撫でながら唐突に言った。

 空手をやっていることは、神社で集まるようになってすぐに教えてくれた。小さい頃に幽霊が怖くて、護身ごしんのために始めたらしい。

「そっか」

 僕はそっけない返事しかできなかった。なぜなら、長岡さんが他の女子に避けられているのは、空手が強いことが原因らしいのだ。長岡さん本人からそう聞いた。

 だから、空手のことだけはあまり素直に応援できずにいた。

「その大会で優勝したら、空手辞めていいって」

 長岡さんが明るい声で言った。

 僕は思わず「ほんと?」と聞き返した。

「うん。魚頭西中の体育館で、大会やるよ」長岡さんは僕の目をじっと見る。「魚頭西中の体育館」

「なんで、二回言ったの?」

「大事なことだから」

 ちなみに魚頭西中は、僕たちが通っている魚頭東中からそんなに遠くない。歩いても行ける距離だ。でも、それがどうしたんだろう。

「観に来ていいんだって、誰でも」

 僕はようやく長岡さんが何を伝えたいのか分かって、嬉しくなった。

「僕も応援に行くよ」

 長岡さんはサンダーを撫でながら、小さく「うん」と答えた。

「ありがと、山田くん。もし私が優勝したら、帰りにサンダーのえさを買おう。高級なやつ」

「いいね。お小遣い貯めておくよ」

「それと——」長岡さんは、少し長い前髪を指でつまんだ。

「優勝したら、山田くんに言いたいことがある」

 そう言いながら、つまんだ前髪を耳にかけるように動かした。

 その仕草が色っぽくて、長岡さんの顔を直視ちょくしできなかった。


 長岡さんが僕に何を言いたかったのか——それは今も分からないままだ。

 その理由は、このとき本多が来たからだ。


「お前ら、何してんの?」

 鳥居の方から声がした。見ると、本多が傘もささずに立っていた。

「お前ら最近、仲良すぎるってうわさになってるぞ」

 本多がニヤニヤしながら近づいてくる。

「もしかして、いやらしいことでもしてたのか?」

「してないよ」

 僕はサンダーを隠すように、本多の前に立ちふさがる。脚の震えを見せないように踏ん張る。

「山田お前、ムッツリだもんな!」

「そんなこと、ないよ」

 体格のいい本多に見下ろされて、僕はもう泣きそうになっていた。

 その時。

「私たちは、捨てられてた猫ちゃんを育ててるだけ」

 僕の後ろから長岡さんの声がした。

「本多には関係ないでしょ」長岡さんが僕の隣に歩み出る。「用が無いなら帰って」

「なあ山田、知ってるか? 長岡が小学生のときにした最低なこと」

「やめて」

 長岡さんは耳を塞いだ。顔が青ざめていく。

「長岡は小学生のとき、友達の作った粘土細工ねんどざいくを壊したんだぜ。その粘土細工に幽霊が宿ってるとかワケ分からんこと言って、正拳突せいけんづきで叩き割ったんだ。ヤバい女だよな」

「やめて!!」

 僕の隣から、今までに聞いたことのない大きな声が聞こえた。

 隣を見ると、長岡さんがしゃがみ込んですすり泣いていた。

「おい本多! お前、何がしたいんだ!」

 僕は本多が許せなくなって、気付いたら怒鳴っていた。

 人のことを「お前」なんて呼んだこともないし、喧嘩しても勝てるわけがない。でも、長岡さんが傷つけられた怒りで、自分が自分でないような感覚になっていた。

 僕にはもう、後に引くという選択肢はなかった。


「は? てめえ、その口の利き方はなんだよ」本多が僕の胸ぐらをつかむ。

「いいか? 長岡はどうせ猫だって殺す。こいつはそういう奴だ。だから山田は長岡から離れろ。猫も捨てて、一生こいつと関わるな。俺はそう言ってるんだ」

「分かったようなことを言わないでよ! 長岡さんは優しいんだ! サンダーを可愛がってるし、毎日エサもあげてるし、それに長岡さんは、僕と同じ目線で話してくれるんだ! だから本多が、長岡さんから離れろ!」

 本多は顔を真っ赤にして「てめえ!」と怒鳴った。

 えりを握る手に力が入れられ、拳が振り上げられる。

 ——うわー! もう終わりだー!


 その時、僕の足元から黒い影が伸びて、本多の腕を引っいた。

 サンダーだ。サンダーが本多に攻撃したのだ。

「痛ってー!」

 本多の腕には細い切り傷がついて、血がにじんだ。僕の襟から腕が離れた。

「なにすんだこのクソ猫!」本多はりを繰り出す。

 しかしサンダーは、その蹴りを素早くかわした。

 脚は勢いよく空を切り、本多は尻もちをついた。

「ふっ——」

 僕は思わず吹き出した。

 隣で泣いていたはずの長岡さんも、顔を隠したまま笑いをこらえている。

「なんだよ、なんなんだよ! くっそー!」

 本多は急いで立ち上がると、僕たちに背を向けて走り去った。鳥居をくぐって階段を下り、あっという間に見えなくなった。


「長岡さん、大丈夫?」

 僕が手を差し出すと、長岡さんはその手を掴んで立ち上がった。

「ありがと」

 次の瞬間、僕の世界は一瞬にして、温かい暗闇くらやみに包まれた。

 長岡さんに抱きしめられたのだ。

「翔太くん、ありがと」

 初めて下の名前で呼ばれた。嬉しさと恥ずかしさとで、息ができなくなりそうだった。恥ずかしすぎて、思わず長岡さんの胸から顔を離すと、わざと目を背けた。

 すると、サンダーがいなくなっていることに気付いた。

「サンダーがいない」

 慌てて言うと、僕を抱いていた腕がほどかれた。

 周りを見渡すと、サンダーは鳥居の横にいて、階段の下を見ていた。多分、走り去った本多を威嚇いかくしていたのだろう。そのまま階段を下って行ってしまった。

 階段の下はたまに車も通ったりするから危ない。

「サンダー、戻って!」僕は思わずサンダーを追いかけた。


 多分この時の僕は、本多と喧嘩したことや長岡さんに抱きしめられたことで、とても興奮していた。「翔太くん、危ないよ」という長岡さんの呼びかけにも応じず、自分がサンダーを助けてヒーローになるんだという気持ちで、階段を全力でけ下りた。


 そしたら次の瞬間には、濡れた階段で足を滑らせて体が一瞬宙に舞い、気付いたら辺り一面血だらけになっていた。


 僕が覚えている最後の記憶は、遅れて階段を下りてきた長岡さんに人工呼吸されたことだ。


 そしていつの間にか、僕の体は透明になっていた。


 ————


 僕は雪乃さんの隣で、本多の告白に対する雪乃さんの答えを待つ。

「ごめん。無理」

 雪乃さんは言った。

「なんでだよ!」

 本多は強い口調くちょうで問う。

「だって私、翔太くんのことが好きだから」

「何言ってんの? あいつはもういないんだぞ」

「でも、好きだから仕方ない」

「あ、そ。もうお前なんか知らね」本多は雪乃さんに背を向けて歩き出す。

「あ! 俺がお前に告ったってこと、絶対誰にも言うなよ!」

 そう言い残して、本多は神社の階段を下って行った。


「別に、誰に告白されてもオッケーしないけど」

 一人残された雪乃さんはつぶやいた。

「翔太くんより優しい男子、いないし」


 僕の目から涙がこぼれ落ちてきて、思わず泣き声がもれる。

 ぼやけた視界に映る雪乃さんは、僕を見て微笑ほほえんでいる。そんな気がした。


 僕の気持ちはもう、だれにも言えない。もちろん雪乃さん本人にも。

 でも、この気持ちは変わらない。


 僕はこれからもずっと、雪乃さんが大好きだ。

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