(2)
4月の初旬、引っ越しや大学生活の準備が落ち着いた頃、私は早速伊原に手紙を出した。
数週間後、返事があった。初めて見る伊原の字は、お世辞にも整っているとは言えなかった。けれど、推敲しながら何度も書き直したであろう文字の跡が、愛おしかった。大学は楽しいか、どんな勉強をしているのか、仕事には慣れたか、他愛もない話をした。
夜勤明けの伊原を起こすのは気が引けたが、どうしても声が聞きたくて、一度だけ電話を掛けたことがある。妹が出て、寝ていた伊原に取り次いでくれた。
電話口の向こうから、「お兄ちゃん、手紙の人? 良かったねぇ」とクスクス笑う声が聞こえ、照れ臭かったのを覚えている。久しぶりに聞く伊原の声は相変わらず低く、優しくて、それだけで数ヶ月は生きていけるような気がした。
7月に入った頃だった。終わりは、何の前触れもなくやってきた。伊原に出した手紙が、宛先不明で返送されてきたのだ。その後、何度か電話を掛けたけど、繋がらなかった。
急いで地元に帰り、神堂にも協力してもらい、伊原の職場や近所の人、同級生に、彼の居場所を知らないか聞き回った。
数名の話によると、伊原が就職したと聞き付けた父親が金をせびりに家までやって来て、大暴れしたらしい。伊原は顔に殴られたような痣を作ってきた数日後、職場に姿を現さなくなったという。暴力を振るう父親の手から逃れるため、誰にも行き先を告げず、夜逃げ同然で遠くへ引っ越したのではないかということだった。
それが真実かどうかは、分からない。
「暴力って、何それ。私知らない。聞いてない……」
起きていることが、現実だと信じられなかった。信じたくなかった。足がもつれ、上手に歩けない。知らない誰かが現れて、全部嘘だよ、と言ってくれるのを待っていた。
「そういえば、噂があったよね。昔、親に虐待されてたって……」
神堂が沈痛な面持ちで呟いた。
ーー親に虐待されてたってホント?
伊原の謹慎中に女子生徒が囁き合っていた声が蘇った。あれは、根も葉もない噂なんかじゃなかった。頭の中でバラバラだったパズルのピースが次々とはまっていくようだった。
ーー母さんと小学生の妹と三人暮らし。
ーーこれくらいなら、塗り薬で治るよ。
ーーちょっと前髪上げるわね……。こっちの傷は? 昔から?
ーー蛍くんでしょ? 数年ぶりよね? まさか、また……。
ーー頭に血が上って、安易に暴力を振るうなんて、最低だよな。
父親に殴られ、頬を腫らした幼い伊原を想像した。形成外科の場所を知っていたのは、小さい頃、お母さんに連れられて行ったことがあるからだろうか。私の前で受付の女性に声を掛けられ、一瞬、泣き出しそうな顔をしたことを思い出した。私には、知られたくなかったのだろう。
額にできた消えない傷痕を隠すために、前髪を伸ばすことを決意した時は、どんな気持ちだったのだろう。遥と相模に手を上げたことを自責する時の、苦々しい表情。あの時、家族に暴力を振るう父親と、自分の姿が重なってしまったのだとしたら。
全てを理解し、膝から崩れ落ちた。涙が溢れて止まらなかった。私は、最後まで救われてばかりで、伊原のことを救えなかった。
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