(6)
「笹川、目開いてたらやりづらい……」
誰もいない教室の窓際に追いやられ、逃げ場がない。外からは、卒業式を終え、写真を撮り合う同級生たちの楽しげな声が聞こえてくる。その声を掻き消す程うるさい心臓の鼓動が、恥ずかしかった。
窓から吹き込む3月のまだ少し冷たい風が伊原の長い前髪を揺らし、切長の目が露わになる。それはいつもより少し余裕のない色をして、私を見つめていた。
「待って、まだ、心の準備ができてない……」
お互いの鼻先が触れるくらいの距離感に耐え切れず、思わず手で自分の顔を覆った。ひんやりとした細い指がそれを掴み、半ば強引に引き剥がす。
「好きだよ」
そう言って微笑み、伊原は私にキスをした。
ジリリリリリリ!! 突如、けたたましいアラーム音が鳴り響き、飛び起きる。一瞬、ここがどこか把握できず、辺りを見渡した。学習机に置きっぱなしの赤本、ベージュのソファ、本棚の上に飾られた写真立て。そこは、見慣れた自分の部屋だった。
「なんて夢を……」
思わず布団に潜り込み、呟いた。そっと唇に触れると、まだ熱を帯びている気がして、全身が火照るのを感じた。
✳︎✳︎✳︎
「行ってきます」
着替えと簡単な朝食を済ませた後、誰もいないリビングに向かって声を掛けた。両親は仕事で、大学の春休み真っ只中の姉はまだ眠っている。
あと2週間もしないうちに私は地元を発ち、大学近くのアパートで一人暮らしを始める。長年住み続けた家を出て、家族と離れて暮らすというのは実感が湧かなかった。あと何回、この家で「行ってきます」と言うことがあるのだろう。
朝、決まった時間に同じ道ですれ違う小学生の集団や、サラリーマンのおじさん。もう二度とすれ違うことはないのだろう。
駅のホーム、通学電車、窓から見える特徴的な社名の看板、立ち並ぶ桜の木。見飽きたはずの風景が、なぜか今日は特別に思えた。この制服を着て、同じ電車に乗ることはもう二度と無い。
家族も学校も、苦手だった。だけど、これで終わりかと思うと、少し寂しいような、名残惜しいような、そんな不思議な気持ちになった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます