(3)


 心臓がドクンと音を立てた。伝言? 今更何を……。そういえば、遥が新しいゲームを持ち掛けていたことを思い出し、身の毛がよだつ。さっきまでの和やかな雰囲気とは一変し、重苦しい空気が漂っていた。



「もうあたしとは話したくないだろうから、って。勝手だし、自己満足だと思うけど……代わりに伝えてもいい?」


 体を強張らせた私を気遣うように、若葉が遠慮がちに言った。小さく頷くと、彼女は安堵の表情を浮かべ、ありがとう、と呟いた。



「その前に、話しておきたいことがあって。多香子とわたし、実は小学校からの幼馴染なの」


 初耳だった。だけど、二人の距離がやけに近いとは感じていた。多香子が私や遥に向ける高圧的な態度は、若葉に対しては一切見受けられず、むしろ心を許し、甘えているようにさえ見えた。それは若葉が賢く冷静で、頼りになるからだと思っていたが、それだけじゃなかったようだ。



 それから若葉は、私が知らない多香子のことをつらつらと話した。


 お母さんがいないから、代わりに小さい妹と弟の面倒を見ていること。学校が終わったらすぐにスーパーで買い物をして、保育園に妹たちを迎えに行き、全ての家事をほぼ一人で行っていること。それは、傲慢で攻撃的な普段の彼女からは到底想像できないものだった。


 今更、本当の姿なんて、知りたくもなかった。



「多香子、成績は悪くないのに、大学には行かないんだって。家計を支えるために、卒業したら一刻も早く働くって言ってた。夏休みもずっとバイトで働き詰めだったの」


 伊原と同じだ……。

 恋愛にうつつを抜かし、バイトもせず、親のお金で予備校に通わせてもらって、何の目的も無く進学しようとしている自分が急に恥ずかしくなった。そんな私の能天気な姿は、彼女の目にどう映っていたのだろうか。



「友達や彼氏と出掛けたり、部活に励んだり、そんな高校生らしいことを何一つできないストレスが、全部あなたに向かったんだと思う。そんなの言い訳にならないよね。ごめん。ただのわたしの我儘で、本当の彼女のことを知ってほしかったの」



ーーあんた毎日楽しそうだね。


 夏休み、電話口の向こうでそう呟いた多香子の声が蘇った。無機質なようで、どこか軽蔑と羨望を孕んでいたあの声。



「わたしはわたしで、親からのプレッシャーが凄くて、テストと受験勉強のことしか頭になかった。わたしには多香子を救えないから、罰ゲームが少しでも彼女の気晴らしになるのなら、誰が犠牲になっても別に構わないと思った」


 コーヒーカップを持つ若葉の細い指が小さく震えていることに気付いた。彼女はそれを抑えるように、もう一方の手でそっと包み込んで、私を見つめた。

 


「ゲームのこと、傍観することしかできなくてごめんなさい。最後まであなたのことを大事にできなくて、ごめんなさい」


 そう言って暫く頭を下げ、私が言葉を放つ前に、伝票を持って立ち上がった。



「もう行くね。今日は来てくれて本当にありがとう」


 私が財布を探している間に、彼女は帰り支度を済ませ、そのままレジへと向かって行った。手が届かないくらいの距離まで歩いたところで、くるりと振り返り、言った。

 


「多香子からの伝言はね、"結局約束守れなくてごめん" って」



 やがて、ドアベルが小さな音を鳴らし、若葉の姿は完全に見えなくなった。



「何で謝るの……」


 思わず、声が漏れた。


 どうして最後まで、悪者のままでいてくれないんだろう。謝るくらいなら、最初からこんなくだらないゲームなんてさせなければいい。家庭にやんごとない事情があれば、最終的に謝りさえすれば、人を傷付けたことがチャラになるとでも思っているのだろうか。


 そもそも動画を流出させたのは遥だし、何より、伊原は最初から罰ゲームに気付いていたのだ。全て分かった上で、私の面子を保つためだけに付き合ってくれていた。だから、種明かしを止めるための動画撮影に意味は無かった。


 つまり、ゲームも約束も、最初からとっくに破綻していたのだ。だから多香子は、約束を破っていない。



 重たいドアを開き、外に出ると、9月の終わりの少し冷えた風が頬を撫でた。


 私たちの人生が交差することは二度と無いだろう。だけどこれから先、彼女に立ちはだかる困難が少しでも少なくありますように。空に浮かぶ薄い月を見上げ、そう願った。

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