(5)
伊原が旧校舎に呼び出されたのは、翌日の放課後のことだった。そこには親友の彼と、部室で見た数名のチームメイトがいた。
『昨日、なんか見た?』
不穏な空気を察知し、背筋が寒くなった。ここで下手な返事をすると、自分にまで危害が及ぶことになりかねないんじゃないか、と。
『見て、ない……』
そう答えた声は、恐怖と焦燥で掠れていた。透明な手で首を強く絞め上げられているみたいに、息が苦しかった。
彼はほんの一瞬だけ目を見開き、哀しそうな笑みを浮かべた。その表情に、自分が取り返しのつかないことを言ったことに気付く。
『蛍に言いたいことがあって』
彼はそう言ってから、暫くの間俯いた。何かを迷っているようだった。側にいた大柄な男が彼の肩を勢いよく叩くと、彼の体はびくんと跳ね、咄嗟に口が動いた。
『おれにはもう関わらないで』
今にも泣き出しそうな顔をしてそう告げ、チームメイトに連れられて、その場を去った。
その後、彼は二度と姿を見せることなく、遠くの中学へと転校した。伊原の机の中には置き手紙が入っていて、そこには、いじめられていたことや、黙っていなくなることへの謝罪、今までの思い出や、伊原への感謝の気持ちが綴られていたそうだ。
✳︎✳︎✳︎
「長くなってごめん」
「ううん、聞かせてくれてありがとう」
伊原が本音で話してくれたことも、過去の一片を知ることができたのも、嬉しかった。だけど、こんなことをずっと一人で抱え込んできたのかと思うと、胸が締め付けられた。
「自分を責めないで……」
こんな時でも、全く気の利いたことが言えない自分を呪った。思わず伊原の手をぎゅっと握ると、伊原はふっと微笑み「温かいな」と言った。
「アイツあの時本当は、助けてって言いたかったんだと思う。関わらないで、っていうのは、きっとチームメイトに言わされたんだろうな」
伊原は当時のことを時間をかけて消化するように、ゆっくりと話した。
「だけど、俺はあの時、どうか助けてって言わないでくれ、って思ったんだ。保身のことしか考えてなかった。薄情だよな」
その薄い唇は、微かに震えているように見えた。自分の内面と向き合うのは、誰だって怖い。私は伊原の手をより一層強く握り締めた。
「そんなことないよ。私は伊原にたくさん助けてもらった。伊原だけが、私を救ってくれたんだよ」
涙が込み上げてくるのを抑えながら、必死に伝えた。
「ありがとう。でも、救われたのは俺のほうなんだ」
予想だにしていなかった発言に面食らい、どういうことかと聞き返した。私のせいで傷付けられたことはあっても、救われたことなど無いはずだ。
「中学のことがあって、高校では必要以上に人と関わるのを避けてた。また自分の弱さで友達を失うのが怖かったんだ」
神堂だけはそんなことお構い無しに話し掛けてきたけどな、と、伊原は可笑しそうに笑った。
「このまま平凡に高校生活を終えるのかなって思ってた。だけどあの日、笹川が友達になろうって言ってきた時の顔が、アイツに重なって見えて。今度こそ間違えちゃいけないと思った」
「だから、罰ゲームに乗ることにした。最後まで騙されたフリをした方が上手くいくのかと思ったけど、そのせいで余計に苦しませたよな。ごめん」
違う。伊原は何も悪くない。言葉に詰まり、激しく首を横に振ると、伊原はそれを柔らかい眼差しで見つめた。
「最初は、親友への罪滅ぼしのつもりだった。だけど、いつの間にか、笹川と過ごすのが楽しくなってたんだ。俺が相模たちに立ち向かえたのは、笹川だったからだよ」
俺に友達を守らせてくれてありがとう。
そう言って伊原が笑った。
夢を、見ているのだろうか。
一生許してもらえないかもしれないと思っていた。好きでいる権利なんて、もうとっくに無いと思っていた。
「い゙はら〜……こちら゙こそあ゙りがとう……」
泣きじゃくる私を見て、伊原は手で口を押さえながら、くくく、と抑え気味に笑った。大笑いするのは悪いとでも思ったのだろうか。そうだ、こんな時でも彼は優しい。
「鼻水出てる」
目にうっすらと涙を浮かべた伊原が、そっとティッシュを差し出した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます