(3)
アパートの前まで送り届けてくれた神堂にお礼を言って別れた後、階段を駆け上り、伊原の部屋へと向かった。ここに来るのは、夏休みのあの日以来だった。
スマホで時刻を確認すると、22時を回ったところだった。この時間にインターホンを押すのは憚られるが、ここまで来て引き返すわけにはいかない。
軽く指を押し当てると、音割れしたドアチャイムが鳴り響いた。「……どちら様?」インターホンの向こうから、伊原が尋ねた。数日振りに声を聞くだけで、なんだか全身の力が抜け、泣き出しそうな気持ちになった。
「笹川です。夜分にごめんなさい」
すぐに玄関の施錠を解く音が聞こえ、寝巻き姿の伊原が現れた。「どうした?」と、困惑しつつ、玄関へ上げてくれた。柔らかそうな黒髪からシャンプーの匂いがして、こんな時なのに、少しドキドキしてしまう。
「遅くにごめんね……。お母さんと妹さんは?」
「母さんは夜勤。介護士なんだ。妹は寝てる」
彼の部屋へと案内され、麦茶の入ったグラスが目の前に置かれた。
「何かあったのか?」
子供に話し掛けるような優しい声色で、伊原が問い掛けた。覚悟はできていたはずなのに、なかなか言葉が出てこない。静かな部屋に、唯一秒針の音だけが響く。
「罰ゲームのこと、ちゃんと謝りたくて……。本当に、ごめんなさい。私、伊原に最低なことをした……」
「いいよ。笹川がやろうって言い出したわけじゃないんだろ?」
「そうだけど……っ」
じゃあもう気にしなくていい、と、事も無げに答える伊原に対し、余計に罪悪感が募った。いっそ、声を荒げて怒ったり、同じだけ私を傷付けたりしてほしかった。許されないことをあれだけ恐れていたのに、いざ許されると、苦しかった。
「……もう一つ、謝らないといけないことがあるの。あの動画や相模との乱闘が原因で、今、学年中で伊原のことが話題になってる。根も葉もない噂や、誹謗が飛び交ってて……。
伊原は何も悪くないのに、私のせいで、本当にごめん」
そこまで一気に言い終えて、頭を下げた。謝罪の気持ちを伝えたいのもあったが、何よりも、真正面から伊原の反応を見るのが怖かった。返答を待つほんの数秒が、まるで永遠のように感じられた。
「……笹川、顔を上げて」
恐る恐る仰ぎ見ると、伊原が当惑した顔つきでこちらを見つめながら、片手を差し出していた。
「その手は一体……?」
「これは……許可無く触れるのは悪いと思って」
真面目な顔をして答える伊原に、思わず口元が緩んだ。それを見た伊原が、安堵の表情を浮かべる。
「噂とか、別にいいんだ。皆に本当のことを知ってもらう必要は無いから。だからもう謝らなくていい」
伊原はそう言って、手の甲で私の髪を軽く撫でた。そのぎこちなさが可笑しくて、愛おしかった。
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